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爆走ストルイピンカ

□ 戯曲『A LA DESTRUCTORA』 歴史短編 □

戯曲『A LA DESTRUCTORA』 

一幕一場   

〔登場人物〕 
●「革命家」 
 アレハンドロ・デル・ソルス 
 革命軍副司令官 三十七歳
 黒髪、顎ひげ  
 オリーブ色の野戦行動服         
●「娘」   
 ヴィオレータ
 十五歳
 栗色の髪、紫色の瞳
 白いフリルのついたブラウス、長いスカート

〔背景〕1950年代後半、中南米の某小国。
ただし、舞台となる一室は、必ずしも現実地上の時空の制約にとらわれない。

*   *   *   *

そこそこ広いが、質素な室内、ベッド、テーブル。
テーブルのうえに、ラジオと一冊の書物。
テーブルわきに椅子2脚。そのうち一脚の背に弾帯がかかっている。
正面にドア。
ドアをはさんで、上手(かみて)に中身の詰まった本棚、下手に植木鉢の並ぶヒナ壇。
部屋の中央に、大人の身の丈ほどもある砂時計。
砂時計の中身、その用途と構造にしたがって、開幕時のフル状態から、絶え間なく一定量ずつ流れ落ちつづける。

 革命家、ベッドで目を覚ます。
 娘、椅子に座り、本を読んでいる。
 革命家、ベッドから身を起こす。周囲を見回して、
「ここはどこだ。撃たれたと思ったが…」
 娘、淡々と、
「撃たれたわよ。サンタアナの市街で、司令部から前線へ移動中に、建物の屋根の上から狙撃されたの」
「これはまずいと思ったが、どうなったのかな」
 革命家、立ち上がり、服の上から掌で腹に触る。
「失血性ショックで意識不明になったわ。市内の設備のいい病院に移されたけど、後腹膜が損傷しているから、楽観はできない」
 革命家、砂時計の周りをひとまわり。
「そうか、つまりここは、まだ夢の中か、何かそんな気がしたよ。どことなく体がフワフワする。で、助かるかな」
「気力次第よ」
「気力か。(笑って両手を拳に握る) 気力ならあり余っている。いよいよ勝利が目前なんだ。ちょっとそのラジオを聞かせてくれ」
 娘、ラジオのスイッチひねる。
『…臨時速報。繰り返します。本日正午、革命勢力総司令ガルシア=エステンセロは、主要施設を含むサンタアナ市街全域の制圧を宣言。これを受け、首都サラゴサのオドリア大統領とその側近は、すでに亡命の途についたと見られ、ここに全土を掌握する革命新政権の成立が決定的…』
 革命家、ベッドに腰掛け、ポケットから葉巻を取り出し、火をつけて深く吸い込む。感慨無量の様子。
 娘、本のページを開いたまま、
「聞け、凱歌の響き。(わざとらしい口調で詠嘆) ここに圧制者は打ち倒され、人民の革命は成就せり。ああこれまで、草の根を噛み、泥水を啜りの艱難。若い命を散らせし同志のいくたりや」
 革命家、頭をあげ、娘を一瞥。
「お嬢さん、誰かは知らんが、そろそろ教えてくれないか。どうしたら生き返れる」
「何も慌てることはないわよ」
 娘、ラジオを消し、本を閉じる。
「お茶をいれるから、バタバタしないでちょっとくつろいだら。革命のほかに関心のあることはないの?」 
 革命家、立ち上がり、
「まだ何も成就などしていない。どうにか地ならしをしただけで、価値あるものの建設はこれからだ」
「ガルシア=エステンセロがやるわよ」
 革命家、再び葉巻を二三度、深く吸ってから、テーブルのまわりを一周。娘の対面の椅子を引き出し、腰掛ける。テーブルに両肘をつき、
「いいか。お嬢さん、たしかに彼はすぐれた指導者だが、ひとりで何もかもは出来ない。目の届かない分野もある」
「それって、医療の拡充? 拡大乳幼児死亡率の、いまの三桁から、40以内への引き下げ?」
 革命家、やや身構えて、
「そんな細かい数字まで、なぜ知っている。誰にも話していないぞ」
 娘、テーブルの上から書類のようなものを取り上げてめくる。
「これは、ええと、あなたの五年前の日記に見えるわね。3月10日くもり ディエゴスアレス村北方にて野営」
「きみは聖ペドロの下請けか。その帳面、ほかに何が書いてあるんだ」
「知りたい?」
「ああ」
「ええと、アレハンドロ・ホセ・エミリアーノ・デル・ソルス。192×年、ブルジョワ家庭の生まれ、葉巻とか吸ってるけど、生来の喘息もち。大学で医学を修め、大学病院で働くかたわら、社会運動を通じて知り合った女性と結婚。一女をもうけるが幼くして病死、妻とも交通事故により死別。間違ってる?」
「いや」
「転機は、志願して赴いた銅山の療養施設。器具がない、薬品がない。人手がない。電気水道さえままならない。北米資本の会社は、従業員の福利厚生など頭になく、監督すべき国の役人は自ら率先して物資を横流し。ある日、採掘現場で爆発事故が起こり、担ぎこまれたのが八人。金満病院ならどうってことない負傷者。だけどそこには何もなかった。二週間の獅子奮迅で、あなたの体重は三分の二になった。矢は尽き、刀折れ、終わってみれば、ただのひとりも助けられなかった。夜、空っぽのベッドが並ぶ真っ暗な病室で、あなたは何度も床を拳で打った。そして立ち上がったとき、白衣は野戦迷彩服に、手に取る医学書はゲリラ教程に…」
 娘、ページをめくる。
「具体的には、旧知の左翼運動家エステンセロの山岳武装闘争に身を投じたのね。はじめは軍医の役どころだったけど、シエラ・フエンテスの山中を転戦するうちに、ゲリラの作戦指揮官として頭角を表した。意志が強くて、禁欲的で、人望もあったから。一度は官憲に逮捕されて拷問されるけど、うまく脱走している。その後、部隊が農民の支持で力をたくわえ、都市部へ打って出るころには、事実上の副司令官の位置に。やがて運動は、各地で呼応した反政府諸勢力を糾合し、いよいよ要衝・サンタアナ市へ侵攻。その際、腹部に銃弾を受ける。これは不用意な単独行動による」
 革命家、脚を組み、軍靴の靴底に葉巻の先を押し当ててもみ消す。
「その先は書いていないのか。どうせならそれが知りたいものだ」
「ちゃんと書いてありますわよ」
「本当か! 未来の話だぞ」
「デル・ソルス副司令は死の淵から帰還しました。だけどそこからが良くない。せっかくあたためてきた政策案は、満足な形では受け入れられないの。あなたは革命の立役者だけど、新政権での居場所はない」
「なんだって」
「一時はもてはやされるし、医療保健長官のポストにも座るけど、長くはもたない。すぐに国際政治の荒波に晒されて、うるわしき男たちの団結に軋轢が生まれる」
 娘、またページをめくる。
「まず北米の干渉に対する国土防衛は焦眉の急でしょう。そのうえ革命の輸出を警戒する近隣諸国とも溝が深まり、経済の面でも孤立するの。エステンセロと革命評議会はソ連や中共の援助にすがろうとするけど、あなたひとりが異を唱える。それは再び頭上に支配者を戴くことになるから」
 革命家、目をすがめて娘を見つつ、
「お嬢さん、何が目的でそんな話をする。そもそも君は何者なんだね」
「当ててみたら」
 娘、言い捨てて、椅子を離れると、ポットを火にかける作業にとりかかる。
 革命家、しばらく娘を見つめるが、立ち上がって右往左往しはじめる。歩きながら、両手の指を折って何かを数え、娘と見比べたあと、大きく手を打つ。
「ヴィオレータ! ヴィオレータ・デル・ソルス」
 革命家、両手を広げながら、近寄って娘を抱きしめる。
「間違うはずがない、そうだろう、ヴィー」
 娘、抱かれながら淡々と、
「最初は気づかなかったくせに」
「無理を言う。お前が死んだのは七つのときだ。あれが八年前だからいまは十五という計算か。いつの間にか、もうこんないい娘さんか。それに元気そうだ」
 革命家、思い出したように、娘の腕をつかみ、袖口のボタンを外し、まくり上げようとする。娘、それを振りほどいて、
「やめて。心配しなくても、もう身体に斑点なんかないわよ」
「そうか、それならいい」 
 革命家、娘をしみじみ見ながら、
「こうしてみると、月並みな感想だが、ママの若い頃によく似ている。(見回して) そういえばママはこっちにいないのかね」
「いるわ。でも、来られなかった。お化粧が間に合わないって」
 革命家、大きく息を吐いたあと、再び娘を抱き、
「お前だけでも、よく来てくれた」
 間。
 砂時計の砂、このとき全体の三分の一が流れ落ちている。
 娘、革命家の腕をすり抜けて、椅子に戻る。
「ねえ、パパ、聞いていい」
「ああ」
「さっきの『何とか死亡率』の統計に、わたしのことは入ってるの」
 革命家、真顔になって、
「入っている」
「もし八年前、パパが国の保健長官だったら、わたし、死なずにすんだ?」
 革命家、やや思案して、
「それは少し問題が違う。エリテマトーデス(紅斑性狼瘡)は札付きの難病だ。当時もいまも、確立された治療法は世界のどこにもない」
「それなのに、パパにとって大事なのは、先端医療の進歩じゃなくて、社会の革命なの?」
「お前という娘は、何をしたって、もう帰っては来ないよ」
「質問に答えて」
「そうだな…、不治の病も、いつかは不治でなくなるかもしれない。医療革新、それがひとつ人類の進歩ということだ。誰もが願い、私も願った。だがそれを達成するのは口で言うほど簡単じゃない。ひとりふたりの病理学者が何日か徹夜で研究して、それでどうにかなることとならないことがある。どんな領域であれ、人間が、社会全体が、行進の隊列をしかるべく整えなおさなければ、結局大きくは先へ行けない」
 娘、あごに手を当てて、
「人類って、将来の目標に向かって行進していくものなの?」
「そうだ。そうでなければ、弱者は救われないからね」
「行進について行く気のないひとは?」
「やがて自覚する」
「そうかしら。そうなる前に、脱走未遂で処刑した人だっているでしょう」
「シエラ・フエンテスでの山岳戦でのことを言っているのか。むろんいる。といって、それは我々がゲリラだからじゃない。マルクス・レーニン主義者だからでもない。どんな民主的な国の軍隊でも、敵前逃亡は銃殺。ギリギリ過渡期の戦闘とはそういうものなんだ。ひとつ間違えばこっちが全滅する。だが我々が奉じる主義は、人間の蒙昧や卑怯臆病への寛容を、本来は含んでいる」
「マルクス…レーニン…」
 娘、卓上の一冊の書物に手を触れ、
「そういう立派なことが、どこに書いてあるのか、前から探しているのだけれど」
 娘、本を引き寄せ、項をめくる。肘をついて文字に目を凝らし、眉根を寄せる。
 革命家、立ち上がって娘の椅子の後ろにまわり、その肩越しに、開かれた本を見る。
「マルクスの『経済学ならびに哲学に関する草稿』か」
「読んでるけど、よく分からないの」
「難解だから無理はない」
「辛抱して読むだけの価値があるかしら、マルクス?」
「あるとも。労働と報酬、人間と世界について、これほど丹念に各論を追いかけて説明した人はいないよ。そしてひとが不幸で不自由になる仕組みを解き明かした」
「どんなふうに」
「いま、各論に立ち入る時間はないが…」
 革命家、本を引き寄せ、ページの一行を指差す。
「象徴的な文がここにある。第三草稿の四・貨幣論。『人間を人間として、また世界に対する人間の関係を人間的な関係として前提したまえ。そのとき君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ交換できる』」
 娘、首をひねる。革命家、笑って、
「十八歳のとき、ママとふたり、バイクで放浪の旅に出た。満天の星の下、誰もいない緑の丘にテントを張った。ママはすぐに寝てしまったから、ランプを木の枝につるして、ママが持ってきたこの本を読んだ」
「つまり個人的な青春の思い出に縁取られているわけね」
「それは否定しない。ただそれから二十年、折に触れ、あの星空とともに思い出す。この短い文に言い当てられている世界が、朽ちることのない、未来の夢でなかったら何が夢だろうか」
 娘、振り返った姿勢のまま、革命家をじっと見る。
 コンロにかけたポットの蓋がカタカタ鳴り出して、娘、席を立つ。
 砂時計、半分以上が滑り落ちている。 
 娘、コンロの火を止めて、テーブルに戻ってくる。だが元の椅子には座らず、立ったまま、
「パパ、驚かないでね」
「何?」
「いまのその本の、奥付を見て」
「アルゼンチン・ブエノスアイレスの出版社。1990年発行、というと三十年後…」
「カバーを外してみて」
 紙のカバーを取り去ると、表紙のカール・マルクスの顔写真の真上に、赤く大きく「A LA DESTRUCTORA(裁断廃棄)」の文字。革命家、顔をしかめる。
「役人の検閲か。その時代でも、まだこんなことをしているのか」
「パパ、違うわ」
「何が?」
「禁書とか思想弾圧とか、これはそんなロマンチックなものじゃないの」
「じゃあ何だ」
「そのハンコ押したのは、国家権力でも何権力でもない。単なるゴミ処理業者。この系統の本は、もう誰も読まなくて、誰もほしがらなくて、ただ場所ふさぎだから処分されたの。それが五十年後の歴史」
「馬鹿な」
「パパ、あそこにある本を見てみて。(本棚を指す) 二十一世紀になってから書かれた現代史の本。一冊二冊の話じゃない。いくらでもあるわ。いろんな国の、いろんな立場の人の書いたものが。開けばすぐ分かる。なぜそうなったかが」
 革命家、足早に本棚へ向かい、背を向け、一冊を手に取る。少しめくって中を見て戻す。また別の一冊を取り、開いては戻す。同様の作業を繰り返す。手当たり次第に本を取る動作には加速がつき、十冊目あたりからは、中を一瞥するだけで床に投げ捨てられる。本棚の中身が一冊ずつ床へと積もって山になっていく。三十冊ほどを取り捨てたところで、突然手が止まる。革命家、本棚に手を添え、よりかかったまま、ぴくりとも動かなくなる。
 娘、遠間から、
「パパ…」
 数拍の沈黙のあと、革命家の背中から発せられる低い声。
「Es el fin de la opresion del」
 最初は苦痛のうめきとしか聞こえないが、やがて陰鬱な祈祷に似た響きになり、さらに少しずつ声量が増し、発語に何らかの音楽的な抑揚がともないはじめる。
「pasado Hay que…」
 二連目に入って、節回しはようやくハッキリした輪郭をみせる。革命歌「インターナショナル」の勇壮なメロディー。
「EN PIE A VENCER… SUPREMO SALVADOR QUE AL HOMBRE LIBRE!」
「パパ、頭のうえ、気をつけて」
 革命家、娘の呼びかけにもいっさい応じず、背を向けたまま、ただひたすら、拳を振りたてながら、声量の限り歌い続ける。声かすれ、音程外れても、頓着せず。
「AGRUPEMONOS TODOS EN LA LUCHA FINAL! EL GENERO HUMANO!」
 本棚の天板のうえに大量に積み上げられた書籍、中途半端に抜き取られ、安定を失していたのが、ここで一気に雪崩れをうち、革命家の頭上に降りかかってくる。大音声。もうもうと舞い上がるホコリに、革命家、咳き込む。腰をかがめ、本棚に身体を預けるが、肩を上下させての咳の発作は止む気配もなく続く。
「パパ」
 娘、一度革命家のもとへ駆け寄るが、すぐ踵を返し、慌ててポットからカップへ中身を注ぎ、運んでくる。
「これ、飲んで」
 革命家、咳の合間を縫って、カップを口にはこび、啜る。それから二三回ほど小さく咳き込むが、それっきり止む。革命家、体を起こし、背筋をのばし、カップの中身をしげしげ見る。
「おさまった…」
 娘、鉢植えをもってくる。
「効いてよかったわ。これの葉っぱを煎じたの」
「すごい効き目だ。なんて名前の草なんだ」
「タチアオイの仲間。ちゃんとした名前は、まだつけていないの」
「つけていない?」
「ママとわたしでつくった種(しゅ)だから。あそこにあるだけがすべてなの」
 革命家、鉢の並ぶヒナ壇に近寄る。一つを持ち上げて、娘を振り返り、
「やはりこれは、ここから持っては出られないのだろうね」
「ええ」
 革命家、苦笑して鉢を撫でる。
「夢の草か」
「そう、夢。でも欲しいって言えば、すぐ空中から出てくるわけじゃないの。夢は夢なりに、こういうものを作り出すには思いの積み重ねがいる。この一鉢ができるまで、ふたりで三年かかったわ」
 革命家、ヒナ壇の下から、筒状に丸められていた紙を取り上げ、両手でひろげる。上から下までビッシリ書き込まれた交配系統図。革命家、娘を振り返る。
「ねえパパ」
 娘、椅子から立ち上がって、
「あっちに帰れば、また発作で苦しむでしょう。それを押して、もう今までだって、ひとの一生分も二生分も働いたわ。その結果がこれ」
 娘、指先で変形した銃弾を、つまんで見せる。
「とりあえず敵の弾みたいだけど、ことによったら、味方が銀三十枚でパパを売って、待ち伏せされた結果かもしれない」
「……」
「真相は、後世になってもハッキリしないの。いわゆる歴史のミステリー」
 娘、銃弾をカップの受け皿にカラリと転がす。
「でも、わたし、そんなこと、どっちだっていいの」
 娘、近づいて、両手で革命家の手を取って、
「むしろ、ちょうどいい潮時じゃない。ね、もうそろそろ、こっちでゆっくりしましょう。こっちにはママもいるし、これであんがい退屈なところでもない。ほら、もう一度あそこに座って。さっきのマルクスのことを教えて。わたし、きっと優秀な生徒よ」
 革命家、手を引かれるまま、元の椅子に腰をおろす。娘が新たに入れたお茶を飲む。一杯を飲み終えて、
「そうか、ヴィー、それを言うために来てくれたのか」
 革命家、片手で弾丸につまみ、また皿に落とす。マルクスのページを、漫然と前に後ろに繰る。
「ひとつ聞くよ。いまのお前とママに不足はないかね。いや、つまり、不足というのは、どこか痛いとか、苦しいとか」
 娘、大きく首を振って、
「大丈夫。しばらくいれば馴れるわ。こっちの世界では、どんな感覚も感情も、どこか間遠で穏やかなの。どう言えばいいかしら。同じ揺れを受けても、小さなコップの中身はでんぐり返るけど、大きなプールなら小波が立つ程度でしょう。ここでは、長くいるほど、自分と他との境目が曖昧で、痛みをおぼえても、すぐ広がって均される感じなの。湖に一滴、垂らされたインクみたいに」
「そうか」
「安心した?」
「ああ、少しだが安心した」
 革命家、カップを置き立ち上がる。ふたたび本棚に向かい、屈んで、床に散らばった本を拾い上げる。一冊ずつホコリを払い、また棚に差す。労をいとわず、一冊残らず拾う。時間をかけて本棚を整頓しおえると、自らの身づくろいにかかる。ベルトを締め直し、靴紐を結び直し、服のボタンを点検する。椅子の背に掛かっていた弾帯をたすき掛けにし、ベッドの枕元から、戦闘略帽を取り上げる。娘に向き直り、
「ヴィオレータ。ありがとう。だが行かなくてはならない」
 娘、駆け寄って、
「パパ、わたしの話、信じないの?」
「信じたよ。信じたからこそ余計に。大人には、現実に対する責任があるからね」
 娘、ふたたび本棚を示し、
「もう先行きは見えたでしょう」
「ああ、見てひとつ賢くなった。未来は、それによって、また変わるものだろう、ヴィー?」
 娘、ドアの前へ立ち塞がる。
「駄目。ここで何を見て、どんな決意をしたって、このドアを出れば忘れるわ」
 革命家、部屋全体を見回し、
「そういう仕組みなのか?」
 娘、ため息をつく。
「仕組みも何も、朝目覚めて、夜見た夢のことを気にかけるひとなんかいないじゃないの」
「……」
「そんなの大事な情報じゃないって、脳が判断して、記憶を『裁断廃棄』するんですって。これも未来の研究成果だけど…」
 娘、うつむいて、
「だから生きているひとに差し出すものは、わたしには何もないの。本当はもう死んだ人間だから」
 娘、指を目尻にあてる。 
 革命家、踏み出して、娘を抱擁。そっと髪を撫でる。
「違うよ、ヴィー」
「違わない。(小刻みに首を振る)」
「そうじゃないよ。それは近代からの話だ」
「近代?」
「そう。それ以前、古代・中世の王や聖人は、よく夢で神託を受け、大事な指針とした」
「嘘」
「嘘じゃない。たとえを言おうか。カルロス一世、トマス・アクィナス、小スキピオ、アリストメネスにラムセス、それから…」
 娘、くすっと笑い、
「パパ、行進が後ろへ後ろへ戻って行くわよ」
「ハハ、そうだな」
「だいたいパパ、史的唯物論のマルクス主義者のくせに」
「ハハハ、そうだったな」
 革命家、しばらく娘の髪を撫でつづける。娘、ぽつりと、
「言ったとおりだった」
「何が」
「結局、ママの言ったとおりになった」
「ママは何と?」
「今ここまでのパパの反応。一挙一動、口で言う内容まで、ママはあらかじめ分かってたみたい」
 革命家、苦笑して、
「ここに来るのを、とめられはしなかったかね」
「そんなことはないけど…」
「ないけど?」 
「ママ自身は、もう無駄に気持ちを掻き乱されたくないって」
「ハッキリしてるな」
「また別れるのが辛いんだと思う」
「ヴィーは今どう思う? 私は、ひとときでも、綺麗になったお前に会えたことが嬉しい」
 娘、一度見上げ、黙って革命家の胸に額をつける。
 やや長い間。
 砂の流れ落ちる音に、娘、ハッと顔を上げて砂時計を見る。砂の残り、もう一握り程度。
 娘、革命家の胸にてのひらを当て、
「急いで。早く行かないと手遅れになる」
 娘、自らノブに手をかけドアを開き、敷居の向こうへ革命家を送り出す。革命家が振り返ったところで、自分のブラウスのボタンに指をかけ、手早く脱ぎ去る。その下はTシャツ姿。背を向けたまま、なめらかで美しい両腕を広げて見せる。革命家の顔に、感嘆する表情が浮かぶ。
 砂時計、最後の一抹が滑り落ちる。同時に、敷居の外に革命家を残して、ドアがひとりでに閉まる。
 ひとりになった娘、やはり背中を向けたまま、元通りに服を着る。テーブルのマルクスに手を伸ばすと、ベッドに寝転び、横になったまま本を開く。しばらく文字を目で追っているが、そのうちウトウトと眠ってしまう。

 幕

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*    *    *

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Date:2009/05/16
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