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爆走ストルイピンカ

□ 優勝メダル 現代短編 □

優勝メダル

 ここ最近、窓口で客の応対をしているさなかにも、どこからか、あらぬ声を聞くことがある。幼い子供の声である。男の声か女の子の声かは分からない。内容も聞き取れないことが多い。なぜか郁子はそれを、このさき生まれてくるわが子の声ではないかと思う。
 だが虚空に耳を澄ますのは、時と場所を選んだ方がよい。
「川辺さん、ボーッとするのも分かるよ。いや、今が一番幸せなときよ。実際一緒に暮らし始めると、そりゃあもうあんた、あんた、そりゃもう」
 結婚を来月に控えた女に、人はまさしく下世話で月並みなことを言う。これもひとつ新しい発見ではあった。

 昼休みに入ると、郁子は仲間の誘いを断り、弁当を手に近くの公園へ向かった。
 砂場の子供の声を聞きながらベンチに座る。大時計が12時10分をさしたとき、待ち人は姿を見せた。
 女子校のブレザーの制服に、袋に入った竹刀。そのうえ登山者のように剥き出しの防具の一式まで背負っている。
 ベンチの郁子を見つけて、大きく手を振って笑う。日焼けした顔に白い歯が浮いた。
 宮下千春。十八歳。大柄なその姿には、はやくも風格さえ漂っている。それもそのはず、この娘は剣道雑誌のグラビアを飾る斯界のホープなのだ。
 最終的に時と場所を決めたのは向こうだが、忙しい時期に呼び出してしまったかも知れない。郁子が詫びると千春は手を振った。荷物を降ろし、隣に座って脚を投げ出す。
「そこの体育館で、朝から西高との団体戦があったんです」
「勝った?」
「もちろんです」
 彼女が抜かれなければ、学校も最後には勝つ理屈である。実際、こんなところで躓くような器ではない。中学のときから関係者の注目を集め、今や近県の高校に敵はいないとさえ評される。

 それだけに、昨年の春の敗戦は、本人にも周囲にも驚きであったろう。同じ体育館で催された小規模の市民大会において、よもやの初戦敗退であった。それも「擦り上げ面」を真っ向から打ち込まれての完敗。その相手こそ当時三十歳の銀行勤務、市内剣道クラブ所属の川辺郁子四段であった。
 その後、場内の観衆は、「宮下を敗った選手」を、いくばくかの関心とともに見守ったが、これはベスト8の段階で、もうひとりの優勝候補の前にあえなく姿を消した。
 ロッカーで着替えた郁子が体育館を後にしようとすると、まだ道着をつけたままの少女が出口に立ち塞がった。
「川田郁子さん」
 名前を呼び違えているのは、貼り出されたトーナメント表の誤記そのままだから、いたしかたない。問題はそのたたずまい。両方の拳を体のわきで固く握っている。すでに泣き腫らした目で、声が憤懣に震えていた。
「携帯の番号、教えて下さい」

 数日後、会いたいと言われて、郁子は職場の近くの喫茶店を指定した。
「先輩」
 そのとき女子高生は年長者への呼称をそう改めていた。実際に自分は、彼女の高校の剣道部の出身だったのだが、十余年の歳月のうちに、顧問も師範も交替して、制服さえ自分の頃はまだセーラーだった。
 千春はテーブルに両手をついて身を乗り出し、
「あのとき、何をされたか分かりませんでした。あんなのは初めてです」
 大袈裟に頭を下げ、どうかあの技の秘密を教えて下さい、お願いします。
 いまさら自分に、出し惜しみするものなどなかった。だが自分の剣道には、ごくまれに、それを再現することも説明することもできない瞬間がある。それを言語化し、本当の意味で身につけることが出来ていれば、自分も二流・三流の選手では終わらなかったかもしれない。
 それを言うと、千春は声を落とし、
「部室の古いファイルとか図書館とかで、先輩のこと調べたんです」
 テーブルにスクラップブックのようなものを持ち出して来る。また随分と執心されたものだが、自分の残した実績の多寡は、自分が一番よく知っている。高校でも大学でも、そこそこまでは行った。だが本格的な指導者になるには不足だったし、第一そこまでの情熱がもはやない。今は趣味で竹刀を振って、たまに道場の少年部で基礎を教えたりしているのが精々である。
「でも」
 と千春は言葉を接ぎ、スクラップの中から雑誌の記事のコピーを取り出して見せる。
『ダークホース・川辺郁子。華奢な体躯ながら、静謐な構えから繰り出される流麗な太刀筋』
 昔の自分の小さな写真を目にしただけで、頬に血が上り、地の文の小さな字を目で追うことができなかった。
「先輩、これ何て読むんですか」
 女子高生の人差し指は、字画が潰れ気味の「謐」を示す。
 郁子は少し笑って首を振ったが、千春はひるまなかった。
「字は読めなくても分かります。こういう雑誌、普通こんな書き方しない。先輩は特別な人です」
 千春は最後に席を立つ段になって、
「今日はわざわざありがとうございました。これ、うちの畑で取れたから食べて下さい」
 携えてきた風呂敷づつみを開くと、トマトとセロリの鮮やかな彩が目を射た。

 その後も千春からの電話はときどきかかってきた。
 試合で負けて落胆したら慰める役割になるのだろうと思っていたが、そもそも彼女は負けなかった。まさしくあれから一度として。そして昨年の高校総体で、そのまま日本一にまで駆け登った。
 剣道の技術・技巧に関わる話は、もう自分から語る機会はなかった。ただ千春の話に、黙って耳を傾けた。そのたび郁子は、この娘は神の寵児かも知れぬと深く観じた。彼女が身を置くのは、すでに自分の知る剣道とは別の競技あった。そこは膂力とスタミナ、気力とスピード、そして必然的に勝ち星の数がはげしくインフレーションする世界。
 もしこれほどの力があれば、自分の前にも開けていたであろう眺望に、郁子はいつも目眩を覚えた。部員と部費と道場の面積が倍増し、地方紙や専門雑誌の取材が立て込み、市長が、文科大臣が、皇族までもが、立ち代わり表彰にやってくるメリーゴーラウンド。
 とはいえ宮下千春も、竹刀を置けば、所詮はひとりの高校生である。人間関係の問題などには、折に触れ、出来るアドバイスはした。曰く、他人の性質を簡単に見切ってはならない。曰く、トラブルの中にあってこそ、感情をしずめねばならない。それはありふれた人生訓を出るものではなかった気がする。だが千春は頷きながら聞き、とても参考になったと言った。

「おめでとうございます。いよいよですね」
 いま誰しもと同じく、千春も婚約指輪に目をとめる。
「あの取引先のひとですよね、この前写真見せてもらった」
 郁子は頷く。
「式、六月ですよね」
 また頷く。
「呼んでもらってもいいですか」
 微笑を返し、
「きっと退屈と思うけれど、それでもよければ」
「わたしが演武で盛りあげます」
 それから千春は少し思案し、
「剣道、続けるんですよね」
「出来る範囲でね」
 そしてふたりで弁当を広げ、初夏の陽気の中で、とりとめもない話を続けた。
 ブランコの鎖が甲高く軋み、すべり台では子供が段ボールを敷いてすべる音が鳴る。
 千春が弁当箱を包み直す頃を見計らって、郁子はおずおずと切り出した。
「頼んでたもの、もってきてくれた?」
 千春は屈託なく、
「あ、はい、これですね」
 立ち上がって、机上でつかう電卓ほどの大きさの平たい木のケースをポケットから取り出し、郁子に手渡すと、
「ちょっとトイレ行ってきます」
 そのまま敷地の隅の手洗いに向かって歩いて行った。

 第〇〇全国高校総体。手のひらの上のケースの表面に、その文字がある。
 かつて郁子が、「これ」にもっとも近づいたのは、高校三年ときであった。むろんここに記されているよりは、十も数字が若い。兵庫で開催された大会で、神戸の体育館から、青空の下に六甲の山並が見えたのを思い出す。
 肉薄した、といってもよかろう。強いことは誰からも認められていた。誰もが自分を警戒した。だが自ら優勝をもぎ取るには、仮借なく勝ちつづけることが必要だった。そのための必勝の信念と気迫が自分には欠けていたのか。頭では分かっても、胸の奥底では無念の思いが燃え続ける。
 部の寮に起居し、日々を節制し、鍛練し、鹿島大明神、香取大明神に手を合わせ、夢の中の景色さえ面金に縁取られ。
一体それ以上何が出来たというのか。才能が足りなかった。上には上がいる。そんな文句ですべての感情に片がつくのなら、人の世は何と平穏か。
 会場の拍手や声援は消える。人の記憶は薄れゆく。それが分かっていたから、あの日自分は、何にかえてもこれが欲しかった。ただの金属片とは知っていても。
 大学を出て就職し、竹刀を握ることはすこしずつ間遠になった。趣味は、ええと、剣道、でしょうか。ええ、まあ、学生の頃には。そうかそうか、結構結構、強盗が入ったら撃退してくれたまえ。そんな受け答えを繰り返し、人並みの年月が過ぎる。それでも自分は幸運だった。幸福な結婚の縁に恵まれたのだから。そして先頃いちはやく、およそ激しい運動からは遠ざかるべき身ともなった。よくある話、よく聞く物語。その中では上出来である。
 その幸運を疑ったことはない。だが願わくば一度だけ確認したい。過去の届かなかった夢の結晶を目の当たりにして、いまこのとき、どういう感情が胸に沸き上がってくるのかを。
 そっと蓋を開く。赤いビロード敷の上に、青い吊りリボンのついた金色のメダル。
 第〇〇回全国高校総体女子剣道個人。彫り込まれた図柄は抽象的な意匠で、特に剣道を示すものはない。裏を返すと、学校の名と「宮下千春」の刻印。
 意外に平静な自分に安堵を覚えて、メダルから指を引いたとき、軽い音とともに、真紅の布地へ二点の水滴が黒々と落ちた。
 郁子は狼狽して蓋を閉じ、ハンカチで目元を拭った。周囲を見回すが、当然気にとめる者などいなかった。子供たちは砂遊び、母親たちは立ち話。
 ハンカチをポケットにしまって、千春の姿を探した。すでに十分ほどが経とうかというところだが、幸い彼女はまだ戻ってこない。
 郁子はもう一度ハンカチをとり出して目がしらに当て、さらにコンパクトで自分の表情と目の色合いを点検した。ああ、わが身のなんと未練なことよ。だがとりあえずは異状無し。当然である。もうとうにいい大人ですから。亀の甲より年の功と、昔の人は言いました。
 
 さらにそのまま五分ばかり大時計の針が進む。鳩がその下を歩き回ってエサをついばむ。やがてようやくひとつの疑念が起こった。
 あの娘は一体いま何をしているのだろう。
 いまどきの娘は、ただのトイレにそれほど時間がかかるものなのか。頭にもうひとつ何かが引っ掛かる。思考をめぐらせて、その正体をつきとめる。
 時間を昨日に溯り、自分が電話でメダルを見たいと頼んだとき、千春は「分かりました。もって行きます」と即答した。一言も問い返さなかった。戸惑うような間さえなかった。普通ならば聞きそうなものではないか。「そんなの見てどうするんですか」と。
 郁子は立ち上がって、手洗いへと向かった。確信めいた予感とともに、そのまま足音を殺し、建物の裏手へと回り込んだ。黒ずんだ壁に身を寄せてそっと頭を出して覗く。
 はたして千春は、壁と植え込みの間の狭いスペースに立っていた。足を肩幅に開き、神妙にに手を体の前に組んで、何かを思うように瞑目しながら。
 慌てて首を引っ込める。そのまま壁にもたれながら、いつしか郁子の両手は、木製ケースを胸にきつく押しあてていた。

 千春がベンチに戻ってきたのは12時50分であった。
「お待たせお待たせ」
 また白い歯がこぼれる。郁子の手からメダルのケースを受け取るとポケットに突っ込み、
「それじゃお疲れ様でした。招待状、待ってますから」
「演武、本当にお願いね」
 千春はまた剥き出しの防具をかつぎ上げ、片手を挙げて踵を返した。
「あー、あの人、ケンドウしょってるー」
 砂場の子供たちが、その後ろ姿を指さして笑う。千春はわき目もふらず大股に歩み去ってゆく。
 郁子はベンチに残って聞きながら、その舌足らずな言い回しは訂正されるべきではないと思った。
 これまでもそうだったし、これからもこの娘は、剣道そのものを両肩に背負って行くだろう。そこにある負の部分までも含めて。
 またどこかから子供の声が響いた。
「お母さん、あの人に勝ったって本当?」
 郁子はややうつむいて応答する。
「ええ、本当ですとも」
 絵本に出てくる動物のお母さんのような口調だと、自分でおかしくなった。 

 了






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Date:2007/08/04
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Thema:自作小説
Janre:小説・文学

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