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爆走ストルイピンカ

□ 足好忠僕出征餞 歴史短編 □

足好忠僕出征餞

 庭仕事をしていた越智信吉が、応接間で待つ高柳子爵のもとに呼び出されたのは、太平洋戦争も二年目半ばに入った昭和十八年九月の暑い日のことであった。



 高柳子爵家とは堂上公家のような響きだが、実のところは四国の山国の小大名である。それが幕末になると、時流を読みぬいて、いちはやく尊皇の旗幟を明らかにし、大政奉還の後は、中央政界で長閥の驥尾に付して入閣・叙爵をはたした。
 子爵家は小石川の藩邸跡に、ドイツ人・ヘッケナーの設計になる建築とニ百坪の和洋折衷の庭園をかまえている。藩士の娘だった母が国許から幼い信吉をつれて奉公にあがったのが二十年前、震災直後の大正十三年であった。
 信吉は尋常小学校を出て、いったんは谷中の仏具屋に奉公したが、器用さと実直さを見込まれて、今から四年前、すでに母の他界した子爵家に戻ってきた。現在は住み込みとして働き、老朽化した屋敷や家具の維持管理・修復にあたっている。
 たとえば居間の樫でできたドアのレリーフ、バルコニーや階段の欄干なども、現存するのは信吉が再現したものである。一度鑿(のみ)・鉋(かんな)の使い方を覚えた腕には、アールデコもロココ調も委細関係なく、唐草は唐草、蔦は蔦、ただ外形をなぞって彫り進めるだけだった。
 木を彫るだけが能ではなく、庭の手入れもやれば、水道管も埋める。その他の雑用も厭わずこなすので、信吉の存在は使う方からは重宝にちがいない。そして昨今の戦時下では、隣組の日常活動や防空訓練にも、この家からはまず信吉が参上して員数を合わせる。
 しかし言うまでもなく、それらの労務管理は家令の職掌であり、下男の信吉が直接、大身の殿さまと言葉を交わす機会などそうはない。わざわざ家令を介して応接間へ呼びつけるというのはよほどのことであって、信吉としては当然、その意味について期するところがあった。
 信吉は取り掛かっていた草取りを切り上げ、作業着から国民服に着替え、顔を洗ってから応接室の扉を叩いた。
「入りなさい」
 高柳子爵は還暦すこし手前、家にいるときも常に洋装である。オックスフォードに学んだ外交官で、入省間もない若き日には欧州大戦の終結にともなうベルサイユ条約の調印にも随伴した。
 それだけ将来を嘱望された青年貴族官僚が、近衛新体制運動以来、自由経済論と親英米主義をもって省主流と折り合いを悪くし、さらにここ数年来は半ば逼塞した日々であった。信吉など、子爵の晴れやかな笑顔なるものは記憶にないくらいだが、今日はひときわ深い苦衷の皺をその典雅な眉間に刻んでいた。
「座りなさい」
 信吉はおずおずと子爵の向かいの革張りのソファーに掛ける。これも舶来品、たしかイタリア製であったはずだ。
「来たよ」
 子爵はテーブルの上に一枚の葉書を示した。

 陸軍二等兵 越智信吉
 右臨時召集ヲ令セラル依テ左記日時到着地ニ参著シ此ノ令状ヲ以テ当該召集事務所ニ届出ヅベシ。松山連隊区司令部

 召集令状。赤紙である。通称を裏切って、実際は薄桃色をしている。人ひとりを死地に追いやるものにしては、紙質も驚くほど粗末である。松山は信吉の本籍地にあたる。記された日付はちょうど一週間後であった。
 信吉はため息をついた。殺生ではあるが、まだため息をつくだけの余裕があったともいえる。何と言っても信吉が徴兵されるのは初めてではなかった。かつて仏具屋にいたころ応召して、日華事変直後の大陸へも出征し、わずかながら実戦も経験している。軍隊生活も前線も、自分は必要以上に恐れてはいない。人は何であれ、知っていることにはまだしも耐えられるのだ。
 だが信吉の最初の感触を確認して、子爵は言葉を継いだ。
「軍機だから他言はしてくれるな。少し調べてみたが、連隊は南方へいく。南太平洋だ」
 目の前が暗くなった。
 この家の使用人である限り、子爵が何を言わずとも、戦局の悪化は肌で察している。すでに帝国陸軍はガダルカナルを失い、この五月には北太平洋でアッツ島守備隊が玉砕した。いまや敵はいよいよ勢いを上げて太平洋全域から日本軍を掃滅にかかっている。巨大なクジラの顎(あぎと)の中に自ら流れこんでゆく小舟の絵が脳裏を掠めた。
「当座必要なものを買いなさい」
 分厚い封筒が手渡された。見なくとも、額はだいたいニ千円くらいと分かっている。明治以来、何人もの男手を戦地へ送り出してきた由緒の家では、こんな際にも踏む手順というのは決まっている。壮行会のこと、菩提寺のこと、給与や恩給や年金のことで簡単な質疑応答があったあと、子爵はふと思いついたように言った。
「千人針にかからせよう。まずは寅どしの由美子にやらせるといい。あれはお前のことがお気に入りだったね」
 出征兵士の戦場からの生還を祈念する千人針は一人一針が約束ながら、虎は一日千里を駆けるという古諺から、寅どし生まれの女性に限り、特に年齢の数だけの運針が許されている。そして当家の令嬢由美子は、年の瀬に改元をむかえる大正十五年・丙寅(ひのえとら)の生まれであった。
「ほかに何か特に望むものがあれば言いなさい」
 信吉は視線を落とした。机に樹の枝が落とす斑の影が風でゆらぐ。
「はばかりながら」
 かねてから腹の底にあった願いが意識の表面に浮上し、そのまま一気に口をついて出そうになる。
「姫さまの履いたお靴下がいただきたく」
 だがそれは口に出さなかった。



 入営まで七日を残して家の役目から解かれた信吉は、赤紙を尻のポケットにつっこんで、まずぶらぶらとタバコを買いに出かけた。
 道すがら考える。思えば思うほど、自分の死は旦夕に迫ったらしい。前回の兵役で実戦を踏んだとはいっても、北支のどこかで、支那軍と川を挟んで撃ち合っただけだ。今度待っているのは密林と泥濘と戦病。そして見たこともない強大な火力を備えた米軍である。だいたい米潜水艦隊が猖獗する太平洋を、輸送船がその南方とやらに着けるかどうかすら怪しい。
 さてやり残したことは、と頭をめぐらせて、実のところこの世に取り立てて未練もないのだった。自分は薄ぼんやりといまだ結婚もせずに来たし、玄人素人を問わず、何かを懇ろに言い交わした女というのもいない。父はとうからなく、母もすでに見まかった。これといった親類縁者もいない。母の墓参りをしたついでに、まあ昔下駄を預けた仏具屋に挨拶くらいはしておくが、それは明日の半日あればすむ。整理すべき私物も財産も大して持っていない。
 こうしてみると空しい人生だと信吉は人ごとのように思った。過去に語るほどのことは何もない。ただ生きてきたというだけだ。そしてこの先待つのは、いよいよ個人の存在の意味など度外視した世界である。隊伍を組み、汽車に乗り、船に乗り、行き着いたそこはすでに「彼岸」と呼ぶしかない。歩きながら空を見ると、白い雲がゆっくりと流れていた。
「お靴を磨いてなかったか」
 信吉はようやくひとつ、これからなすべきことを思い出した。数ある雑事のうち、家の靴磨きは信吉の分担であった。自ら進んでやるので、おさんどんの女衆もこれ幸いと人任せにしている。また丁寧な仕事ぶりなので、家令もいよいよ信吉にやらせろとダメを押した。
 心はずむとはいえぬ子爵の靴は先日済ませておいて、令嬢の由美子の履物だけを残してある。これをむざむざ人にはやらせられぬ。信吉は仕事に際して計算高いたちではなかったが、何しろこれが今生の最後になるかも知れぬ。
 なぜそれほど娘の靴にこだわるかといえば、単純にまず女の足が好きだったからである。そこから派生して女物の履物類も好きになったにすぎない。
女性を前にしたとき、顔の次にどこを見るといって、信吉の場合は足先であった。かつてはひとなみに乳房や尻が好きだったと思うが、加齢とともにこの傾向は昂じ、一見朴訥の男の中に、決して口外できぬ後ろ暗い秘密を構成した。
 私物の行李の中には、すでに夥しい女優のピンナップや洋画雑誌の切り抜きが収集されている。すべて足先の様子が露わになった写真ばかりである。とりわけ、いずれも古代の貴婦人に扮したアラ・ナジモヴァ夫人やグロリア・スワンソン嬢が、しどけなく奴隷の頭や背を足で踏みつけているスチルは秘蔵であった。後者の出典は不明だったが、前者の「サロメ」を見るために信吉は三度も名画座に足を運んだ。
 収集は写真だけにとどまらなかった。いまではもっと生臭い呪物も隠し持っている。大方は誰のとも知れぬ、女物の足袋やソックス、草履。以前谷中にいた時分、器量よしで聞こえた後家さんの足袋が軒先になびいていたとき、信吉は生まれてはじめて盗みを働いた。ただし盗みっぱなしというのはいかにも寝覚めが悪く、そのときは庭石の下に、新しいものが買えるだけの硬貨を転がしておいた。
 その後も近所のあちこちで、同様な振る舞いに及ぶこと何度かにわたったが、すわ下着ドロ跳梁という風聞も立たなかったのは、それとない形で払ってきた代価のためではなく、ひとえにその性癖が世間の理解を絶しているからだろう。
 空き箱と交換で首尾よくタバコを得た信吉だったが、家へ戻ってきて、さて令嬢の靴にとりかかろうと勝手口へ回ったところ、すでに下駄箱の前に座り込んでいる人影があった。ハウスメイドの三千代である。かっぽう着の大きな背中がゆれているのは、今しも靴を手にして磨いているところらしい。
気配を感じて振り向いた彼女は、信吉を認めるといきなり大声を出した。
「あんた、信ちゃん」
 手にした靴をいったん置き、近づいてくるとドンと背中を叩き、
「気をしっかり持つんだよ」
 メイドといったって小娘ではない。三千代は、信吉母子のような旧藩に連なる人間ではなく、斡旋所の紹介で寄越された東京ものだったが、すでに二十数年も勤めて、気さくで裏表のない人柄で信望も篤い。
「仕方ないよ。お国のためだから」
 信吉は肩をすくめる。たしか彼女の息子もすでにマレー方面へ出征したときいている。
「千人針、用意するからね。お嬢様がお帰りになったらさっそくやってもらおうね」
 信吉はもごもごと謝辞をのべたあと、
「ミチさん、おれ、昨日のつづきでお靴を磨きにきたんだけど」
 三千代は目の前で手を振り、当然予想されたような言葉を並べ立てた。
「いいからあんたは好きなことしといで」
 信吉は落ち着いてゆっくり答えた。
「じゃあ、おれ、お靴が磨きたいよ。やりかけたことだから」
 一応の弁明はつけ加えたが、本心ではもう他人から何を思われようと構わない気になっている。人のまさに死なんとする、その言や偽りなし。
三千代に場所をゆずられた信吉は腰を下ろすと、女学生の靴の内部に手を入れた。顔の高さにあげて、息を吹きかけ手拭でこする。靴墨を乾かすのも、同様に息を吹けばはやい。
 その様子を三千代は後ろからじっと見ていたが、
「あんた、前から思ってたけど、お嬢様のお靴となるとほんとに熱心にやるねえ」
 信吉が見返すと、
「いや、何も旦那様のお靴で手を抜くって言ってるんじゃないけどさ」
さすがに見る目はたしかで、信吉の仕事ぶりをまさに正確に把握している。そしてとり繕うように、
「でもさ、ほら、寅の娘、それも貴いお姫さんが足に履くもんだからね。大事にしといたってバチは当たらないか」
 うまい解釈をつけるのも年の功であろうか。
「とにかく気をしっかり持つんだよ」
 三千代はそう言って立ち去った。



 通学用としてローファーシューズ、ストラップシューズ、紐靴、普段履きとしてサンダル、運動靴、浴衣に履く黒塗りの下駄。ここにあるのはそんなところで、夜会用の靴、乗馬ブーツ、振袖に合わせる履物などは別に管理されている。
 信吉は通学靴からはじめて丹念に艶を出す。誰が見ていなくとも、鼻をつっこんでみるなど、特に不埒なことをするわけではない。ただ度をこえて念入りに磨くだけだ。たとえ自分が変態性欲者でも、本来の仕事だけを通して思いを遂げる分には誰が咎めよう。
 妄執に駆られて盗みまで働く自分が、いまさら何の倫理、とは信吉は考えない。こと令嬢由美子に関しては、何もかもがおのずから別なのである。いったん由美子本人の前に出れば、まず女の足を見る信吉にして、そのほの白い足ばかりは直視できない。ふだん煩悩に振り回されている自分が、何がしか純直で一本気なもののように立っている。
 といって彼女は、目下のものに理不尽な緊張を強いる勘気の強い主人ではなかった。むしろ若さの割に情緒はたいへん安定しており、使用人に対する態度は公正である。思い遣りのない下知で人を困らせることもない。
 それでもこの十六の娘には、大人も及ばぬ独特の威厳が備わっているように思われる。人をして争わずに意に沿わせる何かが。これは他の使用人も夙に口をそろえる。その眼差しに晒されるとき、人は大なり小なり、できるならばこの娘の望むような存在になりたいと願うものらしい。
 彼女がしかるべきところで顔を合わせる宮家の軽薄な若さまでも、由美子の前では神妙に振舞うという。口さがない賄いの女たちも彼女の悪口だけは言わない。子爵の留守中、匕首と斬奸状を懐に乗り込んできた右翼壮士は、応対に出た女学生の娘にとり鎮められて帰った。親戚筋の十になる知恵おくれの娘さえ、なぜか本家の姉さまの言うことだけは聞く。
 それは「姫さま」だから。
 信吉は長いこと考えて、ようやく片言のようにその類推を得た。むろん華族の嫡出の娘を姫と呼ぶのは、今でも公式の表記としておこなわれているが、ここでいうのは明治の華族令などによらぬ、子どもの口から発せられるような「お姫さま」のことである。
 信吉が幼年時代を過ごした四国の山村からは城跡の石垣が見えた。戦国期に高柳美作守が長宗我部氏に抗して築いた出城にすぎないが、子どもたちは皆何となく、それを一国の領主の居城のように思っていた。さらに中には、昔そこにたいそう美しい姫がひっそりとおわしたのだと夢想を語る女の子までいたもので、ここではそういう現実味のない姫を思えばよい。
「いつ見きとてか恋しかるらむ」とカルタにもあるぐらいで、「姫」はただ存在するだけで憧憬の対象である。姫が姫であるというだけで、貴公子たちはその所望の品々を調達すべく東奔西走し、小剣士は比較さえおこがましい巨躯の鬼に針の剣もて立ち向かう。こうした古式を、神代から昭和の帝都にまで伝えるのが、かの美作守の裔・由美子姫というわけである。  
 もっともその姫本人は、歴史学徒を志すとまで言いながら、鹿鳴館で伊藤や大山に伍した子爵家の沿革にも、清和源氏の武門としての先祖の事跡にも、さしたる関心はないらしかった。
「あえて学ぶようなことでもなくてよ」
 何かの折、廊下の子爵家始祖の肖像画に視線を投げて、由美子がさらりと口にした言葉だが、その真意は信吉などのとうてい解するところではない。
ともかくも、彼女が関心を寄せる歴史というのはむしろ西洋の故事であった。
 由美子の通う学校は、女子学習院ではなくミッションの私立学園である。米英と開戦して国外退去になるまで、教員の多くを西洋人が占めており、いきおい教材の内容も、生徒の読書傾向も、向こうの素材が主体となるらしかった。
 高等科に入った頃から、由美子は昼のうち学校で読んだり聞いたりした事柄を、夕餉のあと信吉を部屋にお召しになり、話して聞かせるようになった。
 なぜその役をおおせつかるのがインテリの家令や書生でなく、彼らからすれば「目に一丁字ない」信吉であるかだが、まず気心が知れているのと、そして無学の徒にも分かるよう噛んで含めるように説明することを通して、由美子自身もより深い理解に達するらしかった。
 令嬢は自室の読書用の椅子にゆったり腰掛けて、足をフットスツールに休めながらテキストを片手に講義し、時おりミルクティーで喉を潤す。信吉は部屋の真中の絨毯に正座し、両こぶしを膝の上に据え、壁の一点を凝視しながらそれを傾聴する。由美子はその格好をトウの立った寺子屋の生徒のようだと笑い、「もっと楽にしていいのよ」と足先で男の膝を軽く突ついたりするが、そのたびいよいよ信吉は恐悦して固くなるのであった。
 いまでも信吉は、見つめつづけた壁のシミの形とともに、即座に遠い異国の物語の数々を、まざまざと思い出すことができる。
 陰謀に狂奔するグロスター公。乞食にマントを脱いで与える聖マーチン。我と我が都に火を放つネロ。神に背きクジラに呑まれるヨナ。一夜ごとに自ら成した織物をほどくぺネロープ。鉄騎隊を率いるのちの護国卿クロムウェル。
 幼い頃に母はろくに物語りしてくれず、話といえば「サロメ」と「八百屋お七」と「三十石舟」しか知らない下男に、夕な夕な西洋文明の精髄そのものが説き聞かされた。
 ひとつひとつは、時代も国も、虚実すら曖昧になってしまったが、いずれの話においても、人類の共通構造に根ざした深い真理と叡智のようなものが、無学の信吉にもつくづくと感得せられたのは、やはり語り手の功というよりない。
 そして思えば、自分がこれほどこの戦争の行く末に悲観的なのも、家風といえばそれまでだが、直接的には由美子の薫陶によるものなのであった。
一昨年の十二月、帝国海軍の空母機動部隊がハワイ真珠湾に集結する米戦艦群を強襲しこれを屠った。これにより日米戦争の火蓋が切られたのだが、この緒戦の大戦果の報に接したときは、信吉さえ気持ちの昂ぶりを沈めるのに苦労した。ついに帝国は太平洋と中国大陸の覇権を賭け、宿敵・米国と雌雄を決する。
 だがその夜、由美子は例によって信吉を座らせると、物静かな態度で、手に開いた原書の一節を訳しつつ朗読した。
「あなたがたは忠義と勇猛をもって戦争に勝つという。だがあなたがたは見たことがあるまい。ニューヨークの高層建築を。ピッツバーグの鉄鋼所を。フィラデルフィアの砲兵工廠を。そのうえ向こうには、数ドルそこらで命を捨てる人間たちが、ドイツから、アイルランドから毎日続々と入り込んでくる。それに引き換え我々には何がある。我々が持っているのは自負と綿花だけである」
 まず綿花というのがよく分からなかったし、ついに引き起こされた日米の衝突について述べたにしては、彼女の手にした本はいやに古かった。それについて信吉が質問すると、由美子は本をパタリと閉じ、
「手を出して」
 机に本を置くと、自らも座ったまま両手を伸べる。信吉は立ち上がり、いぶかりながらも従順に少女の白い手に自分の手を重ねた。両手をつないで正面から向かい合う形である。
「目をつむって」
 これも問い返すことなく従う。
 視界が閉ざされた途端、信吉の体は得体の知れない感覚に襲われた。まず下腹がすうっと竦む。高いところからはるかな地面を見下ろしたときの心地である。はたしてすぐに落下の感覚がはじまった。これは寝入りばなに時折体験することがあるが、それがはじめから醒めた意識でいるだけに、いつまでも途切れようとしない。いつまでも落ちつづける。
「まだ目を開けてはだめよ」
 いや、自分の意識は本当に醒めているのか。いま天地は晦冥し、信吉は由美子とふたり、ワイヤーの切れた昇降機のケージのようなものに閉じ込められていた。それが果てしなく深く暗いタテ坑を加速とともに滑空していく。外壁をこすり空気を裂く摩擦音が、鋭く高く、耳を聾するほどになるまでに。
 全身の産毛がそそけ立ち、信吉はこらえ切れず目を開けた。
 まず周囲を見回し、見慣れた令嬢の居室の調度を確認した。窓の外には、静かな星空に照らされたお屋敷街の宵闇がある。物音はしない。すべて世はこともなし。
「分かって?」
 目の前の由美子が、諭すように微笑んだ。
「今のは、何が?」
 由美子は手をおろすと、
「信吉がいま感じたとおりのことがはじまったのだわ」
 再び本に手を伸ばしながら、やや突き放すように言った。長い睫が伏せられる。その日の講義は終わりという合図だった。
 いま信吉は、磨き終えた靴を片付け始める。
 ケージが大地に激突して四散する日は、少なくとも自分に関しては目前に迫ったということか。



 靴磨きを終えた信吉だったが、時計を見れば二時半。由美子が学校から戻るにはまだ間がある。磨いている際、またひとつ大事な用件を思い出していた。
 マッチに灯油に新聞紙と、必要な一式を取り揃えると、信吉は裏庭の別棟にある使用人の居室に取って返し、衣装行李を引っ張り出した。スパイ映画よろしくご大層な二重底から、饐えたような匂いを放つ胡乱げな衣類が出てくる。
 信吉は人のいないのを見計らって、八方でセミが鳴きしきっている裏庭に出た。適当な地面に、抱えてきた呪物をうず高く積む。
 いま日の下で見ると、自分が犬のように拾い集めた品々は、あるいは犬でもそっぽを向くような代物であった。仏閣に納める弥勒や虚空蔵(こくぞう)を彫り出していた自分が、その合間に拝んでいたのがこんなものだと人は知らぬ。
 灯油をかけて火を放つ。炎は白日の中では透明で、ひろがっていく焦げ跡だけがその推移を示す。雑多な繊維が燃える煙は異臭というほどでもなかったが、燃えぶりは景気が悪い。立ち消えそうになって、あわてて火掻き棒でかきまわし、団扇で風を送ったとき、
「信吉、何をしていて」
 若々しい泉のような声に、突然後ろから呼びかけられて、両肩が反射的に跳ね上がる。こういう呼びかけをする者は家中にひとりしかいない。
 純白のワンピースの胸元に赤い文字の刺繍、ミッション女学校の夏服を着た少女は青芝を踏んで近づいてきた。
 高柳子爵令嬢由美子姫、芳紀十六歳。かぞえでは十八だが、長身五尺五寸の背をすっきりと伸ばし、色白の手足は健やかに伸びて、ハッとするほど立ち姿の美しい娘であった。まだ鞄を手にしているから、まさにいま帰宅したばかりなのだ。この学校が何人の生徒を擁するのか知らないが、これほどまでにこの清楚な制服が似合う娘はまたといまいと信吉は思う。
 信吉は急いで立ち上がり、胡乱な燔祭の現場を遮蔽するように少女に向き合った。とにもかくにも、ぎこちなく頭を下げる。
「姫さま。お、お帰りなさいまし」
 普段は他の使用人にならって「お嬢さま」と呼ぶところを、動転したいまは、一昔前の人間である母親譲りの呼び方が口から出てきていた。
 由美子はそれには答えず、立ち尽くす信吉に向かってまっすぐに歩を進めた。何の躊躇もなく距離を詰める由美子に対して、信吉は意に反して道を開いた。
 由美子はいったん膝を屈めると、呪物の山の隅から、端の焦げかかった足袋のこはぜをつまみあげた。怪訝そうに信吉の顔と見比べる。
 信吉はうつむいて由美子の視線を逃れ、体のわきで両の拳を握り締めた。自分の乏しい才能で今から言い訳を講じても、この聡明な娘には通じないことを知っているからどうにもならない。
 だが由美子は、足袋を無造作に再び火の中に投げ入れて、
「今そこで聞いたわ。赤紙が来たのですって?」
 この状況とは直接関係ないことを言う。
「いつここを立って?」
「じゅ、十二日でございます」
 由美子は火のそばを離れると、スカートの裾をたくして別棟の縁側に座った。娘は脚を揺らしながら空を見やる。信吉はとにかくはやく黒焦げに燃え尽きてくれないか自分の背後に気が気でない。
 一際強い風が裏庭を吹き渡り、少女のスカートと襟元、そして肩にかかる髪をかき乱した。軒に吊られた風鈴が鳴る。
 信吉は焚き火を背に、立ち往生のまま、女主人に告げるべき別れの言葉を頭の中で組み立てようとした。別れの沙汰に取り紛れて、不審な焚き火のことは忘れてもらおうという思惑も少しは働いている。
 由美子お嬢さま。長い間可愛がっていただきました。信吉は往きます。生きて戻ることはかないますまいが、お嬢さまのお美しさと優しいお心栄えは。
 そのとき唐突に蝉時雨の閑寂が破れた。ほど近くで一匹だけ、恐慌したようにけたたましく鳴き散らしはじめたものがいる。
 見れば一匹のアブラゼミが縁側の前の砂地に落ち、不自然な角度に羽根をひろげ、暴れ独楽のように地面を跳ね狂っている。砂に不規則な破線のような軌跡が残る。この季節よく見られるセミの断末魔の一相であった。
 このまま縁の下にでも転げ込んで息絶え、あとは蟻が群がり内臓を食い散らされる。そう思った瞬間、信吉が息を呑むようなことが起こった。縁側に座った由美子が軽く脚を伸ばし、目の前を掠め過ぎようとするセミを片足に踏まえたのである。
 信吉は戦慄した。美しい乙女のいわれない残酷の光景が、理屈ぬきに背筋を衝撃したのだ。だが驚いたことに、彼女の靴の下から、セミの逼迫した鳴き声がいまだに聞こえる。潰すでも逃がすでもない微妙な圧力がそこに保たれているとしか思えない。由美子の表情はここからでは読み取れない。
 その鳴き声が徐々に小さく間遠になってくる。信吉は背中を押されたように焚火の前から進み出た。由美子の前へ来るとやや腰を落とし、
「姫さま、お足元にセミを踏んでおいでになります」
 口にしてみると、二度と使い道のなさそうな奇天烈な一文ではあった。
 だが由美子は白い顔を向けさえせず、平然とこれを聞き流した。相変わらず鳴き立てるセミを踏まえたまま、やや細めた目で遠くの空を見つつ、やわらかで真っ直ぐな髪を風になぶらせている。何を考えているのかいよいよ分からない。
 弱々しくなっていたセミの声が途切れる。ついにたまりかねた信吉は、まず一礼すると、
「失礼いたします」
 腰をかがめてにじりより、もはや逡巡なく由美子の靴の下へ手を伸ばした。由美子の足はなおも動く気配がない。ローファーシューズの土踏まずから指を入れ、足先の方をさぐってセミの紡錘形の胴をつまんだ。セロファンのような軽いはばたきが指の腹を打つ。そのまま引き出すのは、まだ羽根などを損なうおそれがあった。
「姫さま、セミが死んでしまいます。どうぞお靴をおあげ下さい」
 だが信吉の懇願に対する姫君の声音はひややかだった。
「どうせすぐに死ぬわ」
 意地悪く少し靴先に力が込められ、間に挟まった熱い砂粒が手の甲に食い入った。セミがジ、ジと断続的に鳴く。
「それでも」
 咄嗟に受け太刀しようとして、信吉はすぐ言葉に詰まった。自分はいまから、この主でもある年若き師を相手に「惻隠の情」について説教を垂れようとしているのか。
 耳の火照りを感じつつ絶句していると、靴底から傍目には分からぬほどの微かなノックが伝えられる。
「それでも、何。最後まで言ってごらん」
 促された信吉は顔をあげ、とうとう生まれてはじめての形而上学を述べ始めた。もちろん目新しい内容とは自分でも思わない。
「はい。おそれながら申し上げます。それでもこのセミはまだ生きてございます。生きているものには生き続ける権利があって」
 喉が渇き舌がもつれ、太陽がジリジリと首筋を灼く。
 明日には銃を取り、ひとりでも多くの敵を撃ち殺そうという男が、この期へきて何の世迷言を吐く。第一自分自身がこのセミほどに儚い命なのに。だが信吉は、這いつくばって女学生の靴に手を踏まれたまま、自らの矛盾と滑稽に耐え言葉を継いだ。
「それを戯れに奪うことは、誰にも許されていないと信吉は思います」
 一気に言い放ったので、にわかには息継ぎのタイミングも取れない。その信吉に向かって、だが姫君は前髪を払いながら、大輪の花の開くようににっこりと笑んだ。同時に靴がのけられ、そのままスカートの中で脚が組まれた。
「貸してごらんなさい」
 ほっそりした手が差し伸べられた。乙女の白い腕をやわらかな産毛が薄い光のヴェールとなって包んでいる。信吉は最初意味を取りかねたが、どうやらこれしかないと観念して、つかみ上げたアブラゼミを娘の右手に乗せた。
 由美子はセミをてのひらに乗せたまま、左手の華奢な指先で羽根のつけ根をニ三度微調整した。そしてそれを口元に近づけると、そのみずみずしい唇を尖らせて息吹を送った。
「お行き」
 何という業(わざ)か、セミは嬉しそうな鳴き声とともに、一直線に飛び去っていった。
 おそらくは砂埃を吹き払う所作だったのだろうが、信吉にはその一息がセミの殻に命そのものを吹き込んだように見えた。



 立ったままセミの行方を見送っている信吉の手が、ついと引かれた。令嬢の目がうっすらと優しげに細められてこちらを見ている。信吉の手を取ったまま、かすかなスカートの衣擦れの音とともに娘は右足を上げた。まっすぐ伸びた脚が空中に美しい線を描く。
「靴、脱がせてね」
 取られた手がさらに下に引かれる。自分の足元にかがみ込めと娘は言っているのだ。
 信吉は抗わなかった。抗う理由がなかった。再び腰を落とすと膝立ちになり、右手をそっと令嬢の足首に添え、左手でローファーの踵をつかんで外した。由美子はそのまま脚をたたみ、無言で今度は左足を突き出す。それに対しても信吉は同じ作業を繰り返し、左右の靴を揃えて地面に置いた。
 あらためて由美子は両脚を空中に伸ばした。スカートの裾を膝に撫でつけながら、
「信吉は今までに一度も」
そこで言葉を切って何かを回想しているらしい。
「妾(わたし)を不躾に見たことってないものね」
『妾(わたし)の足を』という補足を、当の足首を軽く揺らすことによって入れる。
「忠義の家来をもって由美子は果報者でしたこと」
大時代な言葉づかいは、「姫さま」などと呼びかけられたことへのからかいが含まれている。そして「ふふっ」と笑い、
「でもね、今日という日は遠慮はいらないことよ」
 言葉と同時に、ソックスの足先が信吉の鼻先を掠め、ツバメのように翻って片頬を撫でた。それは一日の学園生活にやはり汗を帯びていたようで、しっとりとした湿り気が横顔に刷きつけられた。信吉の顔と指先から血の気が引き、奥歯が微かに鳴った。由美子はまた静かに命じた。
「次は靴下」
 問答は無用であった。信吉は三つ折りになった裾を一度伸ばし、裏返らないように、すべての部分を均等に少しずつつまんで手繰る。左右を終えるまでには相当な時間を要した。靴下は縁側の上に重ねられた。
 いまや一尺たらずの眼前に、思い描くことさえならなかった姫君の珠玉の足があった。由美子は後ろに手をついて、外気を呼吸するように、淡い桜色の足先を屈伸させた。
 通学鞄を指すと、
「その中の巾着にツメキリが入ってるの」
 フランス製の小さな銀色のツメキリを信吉が取り出している間に、由美子は少し体を縁側の奥へ送ると、両脚を軽く折り、膝を抱くようにして、透明な足のつめを縁の際に並べていた。足指を曲げればそのまま縁側の角をつかむ位置である。
 信吉は背を曲げ息を止めて、ツメキリの銀の刃を少女の足先に当てた。小気味よい音とともに、微かに伸びた少女の末端が切り離される。その破片は、指示に従って脂取り紙の上に並べられていく。少女の繊細な足指を細心に一本一本取りあげながら、信吉は理解していた。由美子姫は自分をして、このつめのかけらを形代(かたしろ)として戦場まで持たせるつもりなのだ。それは破片とはいえ、千里を駆ける虎の足そのものであった。
 ツメキリの把についたヤスリで十趾を整え終えると、由美子は丸くなった爪先をニ三度撫で、今度は少し悪戯っぽい目つきになった。
「そのままじっとしているのよ」
 信吉の肩に右足裏を乗せ、男の上半身をさらに踏んで沈める。そして左足がかろやかに旋舞したかと思うと、それはひたと信吉の眉間に所を決めた。
 クスッという笑い声。
 ひんやりした少女の土踏まずが、上気した顔から熱を奪っていく。そして信吉の鼻孔は、少女の素足から汐の香と革のにおいを吸い取っていた。折り重なるセミの声が、信吉の耳に遠く荘重な読経のように響く。
「どうか生きて帰ってきてほしいわ」
 由美子は真顔に戻って言いながら、その足先を鼻筋に沿ってゆっくりと滑らせた。
 信吉は朦朧としかかる頭で、
「い、生きて帰れば、また姫さまにお仕えできましょうか」
 やっとの思いで聞くと、姫君の眉宇にかすかな憂いの影が射した。
「この戦争が終わるときは、この国の滅びるときよ」
 どうやら一身の話では済まぬらしい。一国の命運がここでは占われる。しっとりとした足裏の肌理(きめ)を額と鼻筋に感じ取りながら、いま信吉は、亡国トロイの巫女姫カサンドラの託宣を聞いていた。
「悪くすれば国は焦土、国民は根絶やし、ましてや華族なんてお笑い種(ぐさ)ね」
 巫女姫は、世界の破滅の予兆を感じ取ろうとするかのように木漏れ日を振り仰いだが、その足では飽くことなく男の顔の造作を探っている。どこか遠くでヒヨドリの鳴く声が聞こえた。
 ようやく由美子が我にかえったのは、はずみで足先が男の上唇をめくりあげ、前歯に堰かれたときであった。彼女は少し目を見開くと、頬を染め、はにかんだような笑みを浮かべて信吉を見た。その按配を笑ったようでもあり、自分の行き過ぎた感傷を笑ったようでもある。
「それでも一番辛いのはやっぱり兵隊さんね」
 左足先は唇を割ったまま、空いている右足先で下顎がしゃくられた。
「いいこと、お茶目さん」
 やや蓮っ葉にそう前置いたが、続く言葉はいかにも真率な慈しみの情に溢れていた。
「戦地でやりきれなくなったら、今日のことを思い出しなさいな。少しは気が紛れてよ」
 足先が歯列を越えて口腔へ進入した。足指が草履の鼻緒を挟むように舌をつまんだ。
 形にならないものが胸にこみ上げてくるのを感じて、信吉は目をつむった。両方の目尻から涙がこぼれ落ちる。涙とともに去来するこの思いを何と呼べばいいだろう。
 火を見るよりも明らかに、自分はこれからジャングルの中で敵の銃火に伏すだろう。飢餓に苛まれマラリヤにのたうつかも知れない。すでに南洋に散った何千の同胞の兵たちと同じように、行き着くところ野辺に骸を晒すだけだ。
 それでも信吉は確信する。二十数年を生きた中で、今日この日、今この瞬間、天上の姫君にその雪白の足で嘉(よみ)せられたことだけは、この先何が起ころうと、片時も離れず胸中にあるだろうと。
 その間に由美子は、淑やかな身振りで、鞄の中から針と糸を取り出していた。

エピローグ

 1943年12月下旬、タラワ環礁を攻略した第二師団第一連隊に所属する連絡将校マイケル・ヘイズ少尉は、魚雷艇から船外機つきゴムボートに乗り継いで、ギルバート諸島のはずれに位置するルエ島にやってきた。
 砂浜で歩哨と挨拶を交わし、この島の戦況を聞く。大局は無論とうに決したが、山地でまだ散発的な抵抗があるらしい。マイケルはヘルメットの庇を押し上げ、繁茂したマングローブが朝露に光る山容をふり仰いだ。まだ特に掃討戦の銃声のようなものは聞こえない。
 中隊指揮所の所在を聞き、マイケルはトンプソン短機関銃とバックパックを背負い直すと、ひとり海岸沿いを歩き出した。視野の端に南太平洋の遠浅がぎらつく。生暖かい潮風が湿気を運び、並木のように生えた椰子がざわめく。脳裏に、これから会う派遣隊の隊長ランドルフ・ラモート少佐の顔がちらちらした。
 三年前アナポリスの士官学校を出て最初に配属されたペンドルトンのキャンプで、直属上官となったのがラモートであった。南部出身の悪辣な農場主のような風貌ながら、生粋の軍人たるラモートは、プリンストンで文化人類学の修士号まで取ったマイケルを「プレッピー」と呼んだ。
「で、アイヴィーでは何をお学びになったんだ」
 抽象的な学問全般への侮蔑を込めてラモートが聞いたとき、マイケルはここが勝負とばかりに、たじろぐことなく即答した。
「日本の朝廷の有職故実(カスタム・オブ・インペリアルコート)についてです」
 これにはさすがのラモートも、あまりの馬鹿馬鹿しさに一瞬毒気を抜かれた顔になったが、やがて持ち前の厭味を口元に漲らせると、
「それは願ったりだ。このマリーンにいれば、いまにイヤというほどジャップの生態を拝めるぞ。ひょっとすれば、お前の好きなミカドまでもな」
 これを慧眼というべきかマイケルは知らない。戦場で敵として日本人を殺すことについて、想像以上に葛藤は少なかった。だがひとたび南洋のおおらかな風景に心を移すとき、『菊と刀』などという扇動的な書物が喧伝される戦時の殺伐が厭わしく思われるのだった。
 軽戦車やハーフトラックの轍の跡を辿って内陸へ入り込む。やや行くと、機関銃座を据えた哨戒線の向こうに原住民の高床式住居が見えてくる。錨とマスケット銃を組み合わせたデザインの旗がはためいているから、中隊指揮所と知れた。そしてその手前に立っているカウボーイハットの大男こそランディ・ラモート少佐である。腕章をつけた野戦憲兵と何か話している。近づいてくるマイケルに目をとめると、
「いいところに来たな、プレッピー」
 ガダルカナルとタラワ、二度の死線をくぐり、赤銅のように日焼してなおこの挨拶である。
「お前のジャパノロジーの出番だ」
 ラモートは、手にしていた布切れの束を野戦用デスクの上にひろげてみせた。
「兵たちがジャップの死体から剥ぎ取ったものだ。幸運の護符だとか言ってな。一体これは何だ」
 マイケルは背の荷物をおろし、指先で布切れをはぐってみる。
「これは本来が、一種の近代日本流タリズマンです」
 学者風を吹かすのは本意ではなかったが、ラモートに目で促されマイケルは続ける。
「この縫い目のひとつひとつが、1000人の婦人の手によって、ひとつずつかがられると聞いています。センニンバリ。サウザント・ウィミンズ・スティッチーズです」
「1000人の女だと」
 ラモートはそのひとつをつまみあげて太陽に透かした。
「プレッピー、お前、1000人も女の知り合いがいるか」
 異国の奇習に接しても、あくまで実証的態度を忘れないといいたいらしい。
「街頭で行き会う婦人同士が相互に縫い合うのです」
 ラモートはふんと鼻を鳴らし、
「ロッキーから西は文明の光及ばざる土人ばかりというわけか」
 この中隊は西海岸の都市部の若者を主体に編成され、ラモートは彼らを享楽的で惰弱とみなしている。
「戦時国際法に反する。そんなさもしいだか臆病だか分からん兵は俺の隊に要らん」
 ラモートの視線が建物の横手のドラムカンへ鋭く向けられる。それは戦場における万国共通仕様の風呂であって、その下では薪が焚かれている。ランディ・ラモートは、あるだけのセンニンバリを武骨な手で荒々しくつかみとると、風を巻いて体の向きを変えた。どんな人間の心にも陣取る不合理なものたちを、もろとも一息に炎の中にくべてしまいたい衝動がその目に滾りたった。
 だがその嗔りは一瞬のうちに去った。踏み出しかけた一歩を戻し、胸のポケットからラッキー・ストライクを一本引き出し口に銜える。
「本国(ステイツ)に後送してスミソニアンにでも飾るんだな」
 センニンバリを机に置き、マイケルの方へと滑らせた。マイケルは感慨した。その数一万になんなんとする日本の女たちの見えない手が、結局はトロールのような南部男ランディをさえ押し戻したのか。
 そのとき建物の裏からレシーバーをつけた通信兵が顔を出し、ラモートを呼び立てた。35高地なるポイントが中隊長の指示を仰いでいる。
「中でコーヒーでも飲んでおれ」
 そう言い置いて、ランディ・ラモートは憲兵をともない、のしのしと歩み去った。
 残されたマイケルは、センニンバリを取り上げて丹念に繰って眺める。すでに民俗学者に戻っている自分に気がついているが、人目のないところでこの好奇には打ち克ちがたかった。
 一枚ずつめくっていくマイケルの手がふと止まった。かつて例のない不思議な一枚が目の前に現れたのだ。
 一枚の手拭に相当数の縫い目が施されているのはよいのだが、なぜかその一端にアップリケのような形で、木綿の白いソックスが片方縫い付けられている。よくみると、その靴下の裾から爪先にかけても一列の縫い目がL字に連なっている。
 まずマイケルは目を凝らし、その一枚すべての目の数をよんだ。1000。靴下の上に走っている十八の目を加えてちょうど1000になる。とすれば、この靴下は単なるはずみでここに置かれたものではなく、何かの確たる意図があるらしい。
 マイケルは古今東西の図像学の知識をあれこれ動員してみたが、このハンジモノを読み解くことは出来なかった。
 ようやく自分の腕時計の日付窓に目をとめたとき、はじめてマイケルは、ひとつ靴下について行われている呪術的な用途を思い出した。頭をめぐらして、いま一度この南海の風景を眺めわたす。この日本兵は、武運長久の祈りに飽き足らず、こんなところでサンタクロースのプレゼントまでせしめようとしたのだろうか。
 雪ぶかい故郷ニューイングランドに思いを馳せながら、靴下の布地を撫でるマイケルの指が、爪先の辺に微かな異物感をとらえた。何も考えず、靴下の裾から手を入れてみる。案の定、針は手拭の地までは通っておらず、マイケルの指は一番奥までもぐって、何かごく小さな薬包のようなものをつかみ出していた。
 自らの背をまわして風を除けながら、マイケルはハトロン紙の包みをそっと開いた。さらによく見るために中身を片手の上に空ける。
 小さな破片は、数えるとちょうど十あった。形からいっても、それは人のツメ以外のものではなかった。にもかかわらず、それは水晶か雲母のような透明感を湛え、手に乗せていても不思議に不浄を感じさせない。折りしも山の端から射した赤道直下の突き通すような太陽を受けて、自分の掌の上から十の光芒が放たれるのをマイケルは見た。





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Date:2009/05/16
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2010/07/24 【】  #

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