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爆走ストルイピンカ

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盲管

Author:盲管
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優勝メダル

 ここ最近、窓口で客の応対をしているさなかにも、どこからか、あらぬ声を聞くことがある。幼い子供の声である。男の声か女の子の声かは分からない。内容も聞き取れないことが多い。なぜか郁子はそれを、このさき生まれてくるわが子の声ではないかと思う。
 だが虚空に耳を澄ますのは、時と場所を選んだ方がよい。
「川辺さん、ボーッとするのも分かるよ。いや、今が一番幸せなときよ。実際一緒に暮らし始めると、そりゃあもうあんた、あんた、そりゃもう」
 結婚を来月に控えた女に、人はまさしく下世話で月並みなことを言う。これもひとつ新しい発見ではあった。

 昼休みに入ると、郁子は仲間の誘いを断り、弁当を手に近くの公園へ向かった。
 砂場の子供の声を聞きながらベンチに座る。大時計が12時10分をさしたとき、待ち人は姿を見せた。
 女子校のブレザーの制服に、袋に入った竹刀。そのうえ登山者のように剥き出しの防具の一式まで背負っている。
 ベンチの郁子を見つけて、大きく手を振って笑う。日焼けした顔に白い歯が浮いた。
 宮下千春。十八歳。大柄なその姿には、はやくも風格さえ漂っている。それもそのはず、この娘は剣道雑誌のグラビアを飾る斯界のホープなのだ。
 最終的に時と場所を決めたのは向こうだが、忙しい時期に呼び出してしまったかも知れない。郁子が詫びると千春は手を振った。荷物を降ろし、隣に座って脚を投げ出す。
「そこの体育館で、朝から西高との団体戦があったんです」
「勝った?」
「もちろんです」
 彼女が抜かれなければ、学校も最後には勝つ理屈である。実際、こんなところで躓くような器ではない。中学のときから関係者の注目を集め、今や近県の高校に敵はいないとさえ評される。

 それだけに、昨年の春の敗戦は、本人にも周囲にも驚きであったろう。同じ体育館で催された小規模の市民大会において、よもやの初戦敗退であった。それも「擦り上げ面」を真っ向から打ち込まれての完敗。その相手こそ当時三十歳の銀行勤務、市内剣道クラブ所属の川辺郁子四段であった。
 その後、場内の観衆は、「宮下を敗った選手」を、いくばくかの関心とともに見守ったが、これはベスト8の段階で、もうひとりの優勝候補の前にあえなく姿を消した。
 ロッカーで着替えた郁子が体育館を後にしようとすると、まだ道着をつけたままの少女が出口に立ち塞がった。
「川田郁子さん」
 名前を呼び違えているのは、貼り出されたトーナメント表の誤記そのままだから、いたしかたない。問題はそのたたずまい。両方の拳を体のわきで固く握っている。すでに泣き腫らした目で、声が憤懣に震えていた。
「携帯の番号、教えて下さい」

 数日後、会いたいと言われて、郁子は職場の近くの喫茶店を指定した。
「先輩」
 そのとき女子高生は年長者への呼称をそう改めていた。実際に自分は、彼女の高校の剣道部の出身だったのだが、十余年の歳月のうちに、顧問も師範も交替して、制服さえ自分の頃はまだセーラーだった。
 千春はテーブルに両手をついて身を乗り出し、
「あのとき、何をされたか分かりませんでした。あんなのは初めてです」
 大袈裟に頭を下げ、どうかあの技の秘密を教えて下さい、お願いします。
 いまさら自分に、出し惜しみするものなどなかった。だが自分の剣道には、ごくまれに、それを再現することも説明することもできない瞬間がある。それを言語化し、本当の意味で身につけることが出来ていれば、自分も二流・三流の選手では終わらなかったかもしれない。
 それを言うと、千春は声を落とし、
「部室の古いファイルとか図書館とかで、先輩のこと調べたんです」
 テーブルにスクラップブックのようなものを持ち出して来る。また随分と執心されたものだが、自分の残した実績の多寡は、自分が一番よく知っている。高校でも大学でも、そこそこまでは行った。だが本格的な指導者になるには不足だったし、第一そこまでの情熱がもはやない。今は趣味で竹刀を振って、たまに道場の少年部で基礎を教えたりしているのが精々である。
「でも」
 と千春は言葉を接ぎ、スクラップの中から雑誌の記事のコピーを取り出して見せる。
『ダークホース・川辺郁子。華奢な体躯ながら、静謐な構えから繰り出される流麗な太刀筋』
 昔の自分の小さな写真を目にしただけで、頬に血が上り、地の文の小さな字を目で追うことができなかった。
「先輩、これ何て読むんですか」
 女子高生の人差し指は、字画が潰れ気味の「謐」を示す。
 郁子は少し笑って首を振ったが、千春はひるまなかった。
「字は読めなくても分かります。こういう雑誌、普通こんな書き方しない。先輩は特別な人です」
 千春は最後に席を立つ段になって、
「今日はわざわざありがとうございました。これ、うちの畑で取れたから食べて下さい」
 携えてきた風呂敷づつみを開くと、トマトとセロリの鮮やかな彩が目を射た。

 その後も千春からの電話はときどきかかってきた。
 試合で負けて落胆したら慰める役割になるのだろうと思っていたが、そもそも彼女は負けなかった。まさしくあれから一度として。そして昨年の高校総体で、そのまま日本一にまで駆け登った。
 剣道の技術・技巧に関わる話は、もう自分から語る機会はなかった。ただ千春の話に、黙って耳を傾けた。そのたび郁子は、この娘は神の寵児かも知れぬと深く観じた。彼女が身を置くのは、すでに自分の知る剣道とは別の競技あった。そこは膂力とスタミナ、気力とスピード、そして必然的に勝ち星の数がはげしくインフレーションする世界。
 もしこれほどの力があれば、自分の前にも開けていたであろう眺望に、郁子はいつも目眩を覚えた。部員と部費と道場の面積が倍増し、地方紙や専門雑誌の取材が立て込み、市長が、文科大臣が、皇族までもが、立ち代わり表彰にやってくるメリーゴーラウンド。
 とはいえ宮下千春も、竹刀を置けば、所詮はひとりの高校生である。人間関係の問題などには、折に触れ、出来るアドバイスはした。曰く、他人の性質を簡単に見切ってはならない。曰く、トラブルの中にあってこそ、感情をしずめねばならない。それはありふれた人生訓を出るものではなかった気がする。だが千春は頷きながら聞き、とても参考になったと言った。

「おめでとうございます。いよいよですね」
 いま誰しもと同じく、千春も婚約指輪に目をとめる。
「あの取引先のひとですよね、この前写真見せてもらった」
 郁子は頷く。
「式、六月ですよね」
 また頷く。
「呼んでもらってもいいですか」
 微笑を返し、
「きっと退屈と思うけれど、それでもよければ」
「わたしが演武で盛りあげます」
 それから千春は少し思案し、
「剣道、続けるんですよね」
「出来る範囲でね」
 そしてふたりで弁当を広げ、初夏の陽気の中で、とりとめもない話を続けた。
 ブランコの鎖が甲高く軋み、すべり台では子供が段ボールを敷いてすべる音が鳴る。
 千春が弁当箱を包み直す頃を見計らって、郁子はおずおずと切り出した。
「頼んでたもの、もってきてくれた?」
 千春は屈託なく、
「あ、はい、これですね」
 立ち上がって、机上でつかう電卓ほどの大きさの平たい木のケースをポケットから取り出し、郁子に手渡すと、
「ちょっとトイレ行ってきます」
 そのまま敷地の隅の手洗いに向かって歩いて行った。

 第〇〇全国高校総体。手のひらの上のケースの表面に、その文字がある。
 かつて郁子が、「これ」にもっとも近づいたのは、高校三年ときであった。むろんここに記されているよりは、十も数字が若い。兵庫で開催された大会で、神戸の体育館から、青空の下に六甲の山並が見えたのを思い出す。
 肉薄した、といってもよかろう。強いことは誰からも認められていた。誰もが自分を警戒した。だが自ら優勝をもぎ取るには、仮借なく勝ちつづけることが必要だった。そのための必勝の信念と気迫が自分には欠けていたのか。頭では分かっても、胸の奥底では無念の思いが燃え続ける。
 部の寮に起居し、日々を節制し、鍛練し、鹿島大明神、香取大明神に手を合わせ、夢の中の景色さえ面金に縁取られ。
一体それ以上何が出来たというのか。才能が足りなかった。上には上がいる。そんな文句ですべての感情に片がつくのなら、人の世は何と平穏か。
 会場の拍手や声援は消える。人の記憶は薄れゆく。それが分かっていたから、あの日自分は、何にかえてもこれが欲しかった。ただの金属片とは知っていても。
 大学を出て就職し、竹刀を握ることはすこしずつ間遠になった。趣味は、ええと、剣道、でしょうか。ええ、まあ、学生の頃には。そうかそうか、結構結構、強盗が入ったら撃退してくれたまえ。そんな受け答えを繰り返し、人並みの年月が過ぎる。それでも自分は幸運だった。幸福な結婚の縁に恵まれたのだから。そして先頃いちはやく、およそ激しい運動からは遠ざかるべき身ともなった。よくある話、よく聞く物語。その中では上出来である。
 その幸運を疑ったことはない。だが願わくば一度だけ確認したい。過去の届かなかった夢の結晶を目の当たりにして、いまこのとき、どういう感情が胸に沸き上がってくるのかを。
 そっと蓋を開く。赤いビロード敷の上に、青い吊りリボンのついた金色のメダル。
 第〇〇回全国高校総体女子剣道個人。彫り込まれた図柄は抽象的な意匠で、特に剣道を示すものはない。裏を返すと、学校の名と「宮下千春」の刻印。
 意外に平静な自分に安堵を覚えて、メダルから指を引いたとき、軽い音とともに、真紅の布地へ二点の水滴が黒々と落ちた。
 郁子は狼狽して蓋を閉じ、ハンカチで目元を拭った。周囲を見回すが、当然気にとめる者などいなかった。子供たちは砂遊び、母親たちは立ち話。
 ハンカチをポケットにしまって、千春の姿を探した。すでに十分ほどが経とうかというところだが、幸い彼女はまだ戻ってこない。
 郁子はもう一度ハンカチをとり出して目がしらに当て、さらにコンパクトで自分の表情と目の色合いを点検した。ああ、わが身のなんと未練なことよ。だがとりあえずは異状無し。当然である。もうとうにいい大人ですから。亀の甲より年の功と、昔の人は言いました。
 
 さらにそのまま五分ばかり大時計の針が進む。鳩がその下を歩き回ってエサをついばむ。やがてようやくひとつの疑念が起こった。
 あの娘は一体いま何をしているのだろう。
 いまどきの娘は、ただのトイレにそれほど時間がかかるものなのか。頭にもうひとつ何かが引っ掛かる。思考をめぐらせて、その正体をつきとめる。
 時間を昨日に溯り、自分が電話でメダルを見たいと頼んだとき、千春は「分かりました。もって行きます」と即答した。一言も問い返さなかった。戸惑うような間さえなかった。普通ならば聞きそうなものではないか。「そんなの見てどうするんですか」と。
 郁子は立ち上がって、手洗いへと向かった。確信めいた予感とともに、そのまま足音を殺し、建物の裏手へと回り込んだ。黒ずんだ壁に身を寄せてそっと頭を出して覗く。
 はたして千春は、壁と植え込みの間の狭いスペースに立っていた。足を肩幅に開き、神妙にに手を体の前に組んで、何かを思うように瞑目しながら。
 慌てて首を引っ込める。そのまま壁にもたれながら、いつしか郁子の両手は、木製ケースを胸にきつく押しあてていた。

 千春がベンチに戻ってきたのは12時50分であった。
「お待たせお待たせ」
 また白い歯がこぼれる。郁子の手からメダルのケースを受け取るとポケットに突っ込み、
「それじゃお疲れ様でした。招待状、待ってますから」
「演武、本当にお願いね」
 千春はまた剥き出しの防具をかつぎ上げ、片手を挙げて踵を返した。
「あー、あの人、ケンドウしょってるー」
 砂場の子供たちが、その後ろ姿を指さして笑う。千春はわき目もふらず大股に歩み去ってゆく。
 郁子はベンチに残って聞きながら、その舌足らずな言い回しは訂正されるべきではないと思った。
 これまでもそうだったし、これからもこの娘は、剣道そのものを両肩に背負って行くだろう。そこにある負の部分までも含めて。
 またどこかから子供の声が響いた。
「お母さん、あの人に勝ったって本当?」
 郁子はややうつむいて応答する。
「ええ、本当ですとも」
 絵本に出てくる動物のお母さんのような口調だと、自分でおかしくなった。 

 了




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ヤコブの梯子(千畝伝拾遺)

●もう何十年も前のこと、私たち一家が東欧の古都に住んでいた頃の思い出である。
 リトアニアのカウナスは、外交官だった父の任地であった。欧州情勢の緊迫を受け、新設された領事館。そこへ語学能力を買われ、家族をともない着任した初代の領事が私の父であった。
 旧市街をのぞむ閑静な高台の一角に領事館はあり、その二階が私たち家族の住居になっていた。父と母、母の妹の節子叔母、長男である五歳の私、そして生まれたばかりの弟という家族構成であった。
 記憶の中の幼い日々は、母や叔母に本を読んでもらったり、あるいは近所の子供たちと遊んだりしているうちに暮れていった。そしてだいたい週末には、父の運転するビュイックで、一家遠出するのを楽しみにしていた。
 のちに分かったところでは、このドライブとて物見遊山ではなく、父の公務としての情報収集活動の一環であった。折しも第二次世界大戦前夜、暗雲は、すでに国土のそこかしこに影を落としていたはずである。
 それが幼い私の目にもはっきり分かる形であらわれたのは、ある日領事館の門前に、男たちの一団が詰め掛けたときであった。私は二階の窓から、母の腕に抱かれてそれを見ていた。彼らの服装は一様にくたびれていて、顔つきは暗く重い。それをカーテンの隙間から見下ろす母までも、苦しげに眉をひそめていた。父が彼らの代表を中に招じ入れ、しばらく何かの交渉に応じたあと、ようやく一団は、何度もこちらを振りかえりながら引き上げて行った。
 次の日、また次の日と何事もなく過ぎた。父の態度も、常とかわらず穏やかで揺るぎがない。だがその父のいない食卓では、母と叔母が、思いつめたような顔で、耳慣れぬ硬い言葉を交わしていた。深刻な調子は、内容を質すことさえためらわれる。ただ繰り返された「ホンショウ」と「クンレイ」という二つの単語だけが、幼い私の耳に残った。

 そして三日目の夕刻、私は母から下階の父の様子を見てくるよう言いつかった。夕食をどうするか聞いてこいというのである。一階の執務室にも父の姿はなく、現地人の事務員が、つい先ほどふと席を立ったと教えてくれた。
 車はそのまま車庫にあるので、いずれ近所を散歩だろうと目星をつけて、私は外へ探しに出かけた。夕刻どきとは言っても、太陽はようやく中天からすべりはじめたばかりである。緯度の高いこの国で、夏の陽は白夜と呼んでもいいほどに長かった。
 周辺をしばらく歩くうち、私は自分の遊び友達に出くわした。アンネローゼとカーラの姉妹二人づれ。青いお揃いのワンピース。家は工場を経営する実業家だとかで、たしかに二人ともいつも綺麗な身なりをしていた。
 そのうち私の相手といえば、やはり同い年のカーラの方であった。よくママゴトをして遊んだが、頬にそばかすの浮いた内気で温順な少女だったと記憶している。
 いっぽう二つ年上のアンネローゼは、おしゃまで気分屋だった。ある日にっこりして焼き菓子を握らせてくれたかと思うと、次の日は何の理由もなく腕をつねりあげられたりする。自分の思いついた遊びに強引に私たちを巻き込むかと思えば、こちらからいくら誘ってもまるで取り合ってくれなかったりと、どうにも理解が難しい。いま思えば、近所に同じ年恰好の遊び友達のなかったのが彼女の不幸であって、われわれ二人とともにあってリーダーとして振舞うか、あるいは幼き日々ときっぱり訣別するか、まだ態度を決しかねている節があった。
「ヒロキのパパなら、さっきあっちに歩いて行ったわよ」
 カーラが教えてくれた方向へ私は歩き出した。アンネローゼは腕組みしながら何故か終始黙っていた。

 そのカーラの指した方向には、たまたま私の秘密の遊び場があった。レンガ塀に囲まれた広い庭を抱える廃屋で、塀の破れ目から敷地へ出入りできた。白い漆喰にスレート葺きの瀟洒な家屋は、かつてはユダヤ系の富裕な商人の住まいだった。わが家が来るのと前後して、居住者はアメリカへ亡命していったのだと後に聞かされた。
 持ち主に捨てられた家は、雑草と小虫の天下で、草むらにイタチやキツネのような小動物の影を見ることもあった。噴水の池にアメンボが泳ぎ、別の一角で、セメントと混ぜ合わされる予定で放置されている白砂の山が、砂場のかわりになった。
 そのとき通りすがりざまに、何気なく塀の破れ目を覗いて、私は思わず声を上げた。
 藤棚の下のベンチにすわっている身なりのよいハンサムな東洋人。それが誰あろう、私の父なのであった。
「お父さん」
 勤勉な父が何故こんなところでぼんやり空など眺めているのか。
「やあ、弘樹くん」
 それでも父に笑いかけられると、疑問はすぐに掻き消え、「自分の庭」に賓客を迎えた晴れがましさが、幼い私の胸にみなぎった。さっそく泥団子や草笛といった作品を、隠し場所から取り出して披露するのを、父は根気よく聞いてくれる。そういうときの父の顔つきは、切れ長な目の造作と相俟って、どこか仏像の拈華微笑を思わせた。
 見せるだけのものを見せ終わってから、ようやく私は尋ねた。
「お父さん、ここで何をしてるの」
 父は再び空を見上げて、
「お父さんはね、ヤコブの梯子を探しています」
「それはお空にあるの」
「そう、お空にあります」
 父を真似て見上げた空では、全天に六割ほどの雲が、複雑に青い晴間と入り混じっていたが、そこに格別な何かがあるとは見えなかった。
 お互い黙ったまま、並んで空を仰いでいると、じきに私の喉から欠伸が出た。父は私の背にそっと手を当て、
「弘樹くん、先に家へお帰り」
「お父さんは帰らないの」
「もう少しここにいます。母さんにそう伝えてください」

 自然科学の書によるならば、「ヤコブの梯子」とは、雲間から梁のような陽光が幾条か地へと差す現象をいう。ときに1940年8月、皮肉にも不惑という年回りの父であった。
 あれから五十年、父の遺品となった黒い革表紙の聖書を紐解いてみると、いくつか気づかされることがある。
 まず奥付が、南満州聖書普及連盟による大正十二年の発行。父は二十代の時分、ハルピンで東方正教会の洗礼を受けていたから、そのとき残りの人生の座右に置くべく購ったのだとすれば筋が通る。
 だが傍線や書き込みの類は意外に少ない。冒頭から項を繰っていくと、最初に見える線が、『創世記第二十八章』。
「時にヤコブ夢見て、梯の地に立ち居て、その頂の天に至れるを見、また神の使者の其にのぼりくだりするを見たり。エホバその上に立ちて言給はく、我は汝の祖父アブラハムの神イサクの神エホバなり、汝が臥すところの地は、我これを汝と汝の子孫に与へん。汝の子孫は地の塵沙のごとくなりて西東北南にひろがるべし、また天下の諸の族、汝と汝の子孫によりて福を得ん」
 そして次の箇所が、『出エジプト記第十四章』。
「時にエホバ、モーセにいひ給ひけるは、汝なんぞ我に呼ばはるや、イスラエルの子孫に言ひて進みゆかしめよ。汝杖をあげ手を海の上に伸べて之を分ち、イスラエルの子孫をして海の中の乾ける所を往かしめよ」
 この項の欄外に、ただ一箇所、父の手になる書き込みがある。
「イニシヘノ猶太ノ神ノ何ト雄弁ナリシヤ!」

 以下、『近代のユダヤ・ヘブライ難民 モシェ・ローゼンブルム 1985』より抄訳、引用。
「この八月の三週間、杉原がユダヤ系ポーランド難民のために不眠不休で発行しつづけたヴィザの対象は、少なく見積もって六千人にのぼる。
 この善意の領事にとって、作業は身体的以上に精神的な苦役であった。なぜならそれは、東京・外務省の再三の戒告を無視しての独断によるものであったからである。この時点で杉原は、自分の官僚としての身分を棒に振ることを覚悟せねばならず、事実、日本外務省は戦後になって、このときの不服従を理由に彼を解雇している。
(中略)
 この六千人は、杉原の功がなければ、ほぼ確実にヒトラーの手で、ジェノサイドの祭壇に捧げられていた命である。しかし、そう言い切れるのは後世の目であって、はやくもこの時期に、事態の本質を見抜き得たものは、実際ほとんどいない。
 ユダヤ人差別そのものは、西洋社会の宿痾である。厳密に言えば、それはいつでもどこでもあった。フランスにもイギリスにもスペインにもロシアにも合衆国にも。
 ナチ・ドイツはすでにニュールンベルグ法を制定し、極端なユダヤ排斥を推し進めていたものの、「絶滅収容所」の象徴たるガス室のごときものは、まだ計画表にすらのぼっていなかった。どれほど厳しい為政者も研究者もジャーナリストも、この人類史上未曾有の悪の深淵を、この時点ではまだ予見しなかったのである。
(中略)
 客観的にみて、およそ同時代の日本の一官僚にとって、自分の地位保全と、異国の難民の上に及ぶであろう危機とのバランスの問題は、決して自明ではなかった。あるいはそもそも、彼以外の官吏ならば、問題の存在にすら気がつかなかったというべきか。そのなかで、杉原千畝ただひとりだけが、正確な知識に加え、天啓とも呼ぶべき特別な洞察を宿していた」
(引用終わり)

 五歳の私が、ベンチに父をのこし、塀の破れ目をくぐったところで、誰かにいきなり手首を掴まれた。先ほどのアンネローゼが、妹をともなってそこに立っている。彼女は塀のむこうへ視線を遣りながら、
「あんたのお父さんよね」
 青い瞳が冷たい色合いである。
「そうだよ」
 反射的にもがく私の耳元へ身を屈めて、彼女は命じた。
「あたしのことを紹介しなさい」
 この落ち着きのない娘がまた何を思いついたのか、とにかくベンチの前へと引き立てられ、私は余儀なくして、父に向かい彼女の名を告げた。
 そこからが見ものであった。彼女は片足を一歩前に出すと、スカートの裾を両手でつまみ、
「ご紹介にあずかりましたアンネローゼ・レーナ・クラリッサ・ラニティスですわ、ごきげんよう、大使閣下」
 私からすれば、はじめて聞く高い声音もさりながら、そんな長い名前とはついぞ知らなかった。
 つまり、このときの彼女は、社交とか、その延長上にある外交とかいった事柄の意味が、ちょうど分かりかける年頃だったらしい。
 いっぽう宮廷淑女の挨拶を受けた外交官、正確には代理領事であるところの父は、しばし目を丸くしていたが、やがて立ち上がり、会釈とともにゆっくり礼をした。
「立派なご挨拶、感心しましたよ、アンネローゼ」
 次に妹に目を移し、
「そちらのさらにお若いお嬢さんは」
 カーラははにかんでうつむきながらも、どうにか名乗った。
「いつも弘樹と遊んでくれてありがとう」
 そのあとアンネローゼが、手振りを交え、何かを父に滔々と語りだした。私にその意味は取れなかったが、どうも昨今の世界情勢にかかわる世間話だったようで、実際この娘は、年齢以上に利発な少女ではあった。
 父の細い目は、ふたたび拈華微笑をかたちづくっていたが、やがて一段落したところで、
「三人とも、もうお帰りなさい、夕飯の支度ができているでしょう」

 帰り道のアンネローゼは鼻唄を口ずさんでいた。唄の合間に、「一度着替えて来るのだった」やら、「国の美しい詩を教えてあげるのだった」やら、ひとり浮かれて口走っていたが、ふと立ち止まり、しごくまっとうな疑問を口にした。
「ところで大使は、あそこで何をしていらっしゃるの」
 私も立ち止まって頭を整理しながら、
「何とかの梯子が要るんだって」
「なんとかって何よ」
「えーと、ヤコブ」
「ああ、ヤコブね」
 こともなげに復唱したあと、アンネローゼは艶やかな金髪のポニーテイルをひと振り、即座に断定した。
「ヤコブ・ヒルシュなら、うちの庭師よ」
 そして私たち二人についてくるよう合図すると、いきなり下りの坂道を走り出した。
 こういうときの彼女は、行動の目的をすべてひとり胸に秘めていて、聞いても決して教えてくれない。ただ息を切らしてついていくよりないのである。
 目指す先は、どうやら彼女自身の屋敷であった。アンネローゼは勝手口をくぐると、敷地の片隅の物置小屋へと私とカーラを導きいれた。
「ほら、あったわ」
 暗がりに差し込む光条の中を無数の塵が舞う。彼女の指差す先には、古びた一丁の木製の梯子があった。八段で長さは2メートルあまり。格段上等とも見えなかったが、アンネローゼは両手を腰に当て、
「柿の木でできてる特別製だって威張ってたもの。間違いないわ。さあ、ぐずぐずしてちゃダメ」
 こうして彼女の号令一下、三人がかりでそれを担ぎ出す仕儀となった。最初はもうひとつ行動に確信が持てなかった私であったが、年長の少女の勢いに加えて、そこにたしかに「JACOB」と刻まれていたのが決め手になった。
 アンネローゼが先頭、カーラが真ん中、最後が私。緊急結成の少年少女行動隊は、梯子を御輿のように頭上に構え、息を切らせながら、一路もと来た坂道を上っていった。
 道の途中で、手押し車を押す若い郵便配達夫と行き会った。彼は我々に道を譲りながら、ひょうきん者らしく口笛を鳴らしたが、ただリーダーの少女から、「小人養い難し」という冷たい一瞥を浴びただけだった。
 廃屋へ運ばれたヤコブの梯子は、私が心配していたレンガ塀の関門も無事に通過し、いま駐リトアニア日本領事の座るベンチの前に、垂直に立てられた。
 片側を支えるアンネローゼが、ひとりだけレースのハンカチで額の汗を拭きながら、
「大使閣下、お探しのもの、お持ちしましたわ」
 晴れやかな笑顔で、所有者の名の刻印を示した。
 あれから五十年が過ぎた今でも、このとき父が少しも笑わなかったのを、私ははっきり覚えている。かわりに座ったまま、両手を膝に、日本式に深々と頭を垂れた。
「ありがとう、三人とも。よく探してきてくれましたね」
 父は立ち上がると、スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツを袖をまくりあげた。剥き出しの両腕で、私たちの支えている梯子を身近に引き寄せた。
「危ないから離れていてください」。
 その手が、梯子の下端を地に埋め込もうとするように力を帯びる。そして手で庇をつくり、太陽を一度ふり仰ぐ。
 続く動作は五歳の子供にも予想がついた。
 父は静かに梯へ革靴の足を掛けた。まず一歩、腕の力で体重を引き上げながら二歩、三歩。揺るぎない足取りは、本当にこの地から、空の彼方へ向けて出立するようだった。そう錯覚もしよう。どだい大人は寄る辺なく地に立てただけの梯子を上ったりしない。それは危険なうえ無意味だからである。だがそのときかぎり、廃墟の庭で、ヤコブの梯子は天を指しつづけた。私たちはただ息を止めて見上げていた。
 手の拠りどころが失われて、なお父はのぼり詰めた。そしてためらいもなく、ついに最上段を足下に踏まえたとき、白夜の日輪はその背に隠れた。均衡のために両腕をゆるやかにひろげた父の姿は、逆光のなか、数瞬、黒い彫像のように動かなかった。
 梯子を降りてきて、ようやく父は笑顔を見せた。
「用は済みました。これから一緒におうちまで返しに行きましょう」
 梯子の中ほどを横抱きにした父だったが、
「何が見えまして?」
 というアンネローゼの問いに答え、再びそれを地に据えた。ただし今度は、十分角度をつけ、頑丈なレンガの塀に立てかけての正しい用法である。そこへ父は、幼い私たちをひとりずつ抱きかかえてのぼった。まずカーラ、次にアンネローゼ。二人ともはじめは後ずさったが、じき、屈んで促す父の首へ、くすぐったげに腕をまわした。
 最後が私であった。父の腕は力強く、頭からは整髪料の匂いがした。抱えられて一歩ずつ上へ行くにつれ、涼しい風が、遮るものなく吹き渡るのが感じられた。
 塀の上からは視界がひらけ、眼下に古都の市街が広がる。うねるネムナス河の面が西日を散らし、はるかな寺院の鐘楼のまわりを、飛沫のような鳩の群れが飛びめぐっていた。
 私はそのとき、いちおう自分の頭上の空にも注意を向けた。しかし彼方で地平線と出会うまで、やはりそこに特別なものは何もなかった。

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戯曲『A LA DESTRUCTORA』 

一幕一場   

〔登場人物〕 
●「革命家」 
 アレハンドロ・デル・ソルス 
 革命軍副司令官 三十七歳
 黒髪、顎ひげ  
 オリーブ色の野戦行動服         
●「娘」   
 ヴィオレータ
 十五歳
 栗色の髪、紫色の瞳
 白いフリルのついたブラウス、長いスカート

〔背景〕1950年代後半、中南米の某小国。
ただし、舞台となる一室は、必ずしも現実地上の時空の制約にとらわれない。

*   *   *   *

そこそこ広いが、質素な室内、ベッド、テーブル。
テーブルのうえに、ラジオと一冊の書物。
テーブルわきに椅子2脚。そのうち一脚の背に弾帯がかかっている。
正面にドア。
ドアをはさんで、上手(かみて)に中身の詰まった本棚、下手に植木鉢の並ぶヒナ壇。
部屋の中央に、大人の身の丈ほどもある砂時計。
砂時計の中身、その用途と構造にしたがって、開幕時のフル状態から、絶え間なく一定量ずつ流れ落ちつづける。

 革命家、ベッドで目を覚ます。
 娘、椅子に座り、本を読んでいる。
 革命家、ベッドから身を起こす。周囲を見回して、
「ここはどこだ。撃たれたと思ったが…」
 娘、淡々と、
「撃たれたわよ。サンタアナの市街で、司令部から前線へ移動中に、建物の屋根の上から狙撃されたの」
「これはまずいと思ったが、どうなったのかな」
 革命家、立ち上がり、服の上から掌で腹に触る。
「失血性ショックで意識不明になったわ。市内の設備のいい病院に移されたけど、後腹膜が損傷しているから、楽観はできない」
 革命家、砂時計の周りをひとまわり。
「そうか、つまりここは、まだ夢の中か、何かそんな気がしたよ。どことなく体がフワフワする。で、助かるかな」
「気力次第よ」
「気力か。(笑って両手を拳に握る) 気力ならあり余っている。いよいよ勝利が目前なんだ。ちょっとそのラジオを聞かせてくれ」
 娘、ラジオのスイッチひねる。
『…臨時速報。繰り返します。本日正午、革命勢力総司令ガルシア=エステンセロは、主要施設を含むサンタアナ市街全域の制圧を宣言。これを受け、首都サラゴサのオドリア大統領とその側近は、すでに亡命の途についたと見られ、ここに全土を掌握する革命新政権の成立が決定的…』
 革命家、ベッドに腰掛け、ポケットから葉巻を取り出し、火をつけて深く吸い込む。感慨無量の様子。
 娘、本のページを開いたまま、
「聞け、凱歌の響き。(わざとらしい口調で詠嘆) ここに圧制者は打ち倒され、人民の革命は成就せり。ああこれまで、草の根を噛み、泥水を啜りの艱難。若い命を散らせし同志のいくたりや」
 革命家、頭をあげ、娘を一瞥。
「お嬢さん、誰かは知らんが、そろそろ教えてくれないか。どうしたら生き返れる」
「何も慌てることはないわよ」
 娘、ラジオを消し、本を閉じる。
「お茶をいれるから、バタバタしないでちょっとくつろいだら。革命のほかに関心のあることはないの?」 
 革命家、立ち上がり、
「まだ何も成就などしていない。どうにか地ならしをしただけで、価値あるものの建設はこれからだ」
「ガルシア=エステンセロがやるわよ」
 革命家、再び葉巻を二三度、深く吸ってから、テーブルのまわりを一周。娘の対面の椅子を引き出し、腰掛ける。テーブルに両肘をつき、
「いいか。お嬢さん、たしかに彼はすぐれた指導者だが、ひとりで何もかもは出来ない。目の届かない分野もある」
「それって、医療の拡充? 拡大乳幼児死亡率の、いまの三桁から、40以内への引き下げ?」
 革命家、やや身構えて、
「そんな細かい数字まで、なぜ知っている。誰にも話していないぞ」
 娘、テーブルの上から書類のようなものを取り上げてめくる。
「これは、ええと、あなたの五年前の日記に見えるわね。3月10日くもり ディエゴスアレス村北方にて野営」
「きみは聖ペドロの下請けか。その帳面、ほかに何が書いてあるんだ」
「知りたい?」
「ああ」
「ええと、アレハンドロ・ホセ・エミリアーノ・デル・ソルス。192×年、ブルジョワ家庭の生まれ、葉巻とか吸ってるけど、生来の喘息もち。大学で医学を修め、大学病院で働くかたわら、社会運動を通じて知り合った女性と結婚。一女をもうけるが幼くして病死、妻とも交通事故により死別。間違ってる?」
「いや」
「転機は、志願して赴いた銅山の療養施設。器具がない、薬品がない。人手がない。電気水道さえままならない。北米資本の会社は、従業員の福利厚生など頭になく、監督すべき国の役人は自ら率先して物資を横流し。ある日、採掘現場で爆発事故が起こり、担ぎこまれたのが八人。金満病院ならどうってことない負傷者。だけどそこには何もなかった。二週間の獅子奮迅で、あなたの体重は三分の二になった。矢は尽き、刀折れ、終わってみれば、ただのひとりも助けられなかった。夜、空っぽのベッドが並ぶ真っ暗な病室で、あなたは何度も床を拳で打った。そして立ち上がったとき、白衣は野戦迷彩服に、手に取る医学書はゲリラ教程に…」
 娘、ページをめくる。
「具体的には、旧知の左翼運動家エステンセロの山岳武装闘争に身を投じたのね。はじめは軍医の役どころだったけど、シエラ・フエンテスの山中を転戦するうちに、ゲリラの作戦指揮官として頭角を表した。意志が強くて、禁欲的で、人望もあったから。一度は官憲に逮捕されて拷問されるけど、うまく脱走している。その後、部隊が農民の支持で力をたくわえ、都市部へ打って出るころには、事実上の副司令官の位置に。やがて運動は、各地で呼応した反政府諸勢力を糾合し、いよいよ要衝・サンタアナ市へ侵攻。その際、腹部に銃弾を受ける。これは不用意な単独行動による」
 革命家、脚を組み、軍靴の靴底に葉巻の先を押し当ててもみ消す。
「その先は書いていないのか。どうせならそれが知りたいものだ」
「ちゃんと書いてありますわよ」
「本当か! 未来の話だぞ」
「デル・ソルス副司令は死の淵から帰還しました。だけどそこからが良くない。せっかくあたためてきた政策案は、満足な形では受け入れられないの。あなたは革命の立役者だけど、新政権での居場所はない」
「なんだって」
「一時はもてはやされるし、医療保健長官のポストにも座るけど、長くはもたない。すぐに国際政治の荒波に晒されて、うるわしき男たちの団結に軋轢が生まれる」
 娘、またページをめくる。
「まず北米の干渉に対する国土防衛は焦眉の急でしょう。そのうえ革命の輸出を警戒する近隣諸国とも溝が深まり、経済の面でも孤立するの。エステンセロと革命評議会はソ連や中共の援助にすがろうとするけど、あなたひとりが異を唱える。それは再び頭上に支配者を戴くことになるから」
 革命家、目をすがめて娘を見つつ、
「お嬢さん、何が目的でそんな話をする。そもそも君は何者なんだね」
「当ててみたら」
 娘、言い捨てて、椅子を離れると、ポットを火にかける作業にとりかかる。
 革命家、しばらく娘を見つめるが、立ち上がって右往左往しはじめる。歩きながら、両手の指を折って何かを数え、娘と見比べたあと、大きく手を打つ。
「ヴィオレータ! ヴィオレータ・デル・ソルス」
 革命家、両手を広げながら、近寄って娘を抱きしめる。
「間違うはずがない、そうだろう、ヴィー」
 娘、抱かれながら淡々と、
「最初は気づかなかったくせに」
「無理を言う。お前が死んだのは七つのときだ。あれが八年前だからいまは十五という計算か。いつの間にか、もうこんないい娘さんか。それに元気そうだ」
 革命家、思い出したように、娘の腕をつかみ、袖口のボタンを外し、まくり上げようとする。娘、それを振りほどいて、
「やめて。心配しなくても、もう身体に斑点なんかないわよ」
「そうか、それならいい」 
 革命家、娘をしみじみ見ながら、
「こうしてみると、月並みな感想だが、ママの若い頃によく似ている。(見回して) そういえばママはこっちにいないのかね」
「いるわ。でも、来られなかった。お化粧が間に合わないって」
 革命家、大きく息を吐いたあと、再び娘を抱き、
「お前だけでも、よく来てくれた」
 間。
 砂時計の砂、このとき全体の三分の一が流れ落ちている。
 娘、革命家の腕をすり抜けて、椅子に戻る。
「ねえ、パパ、聞いていい」
「ああ」
「さっきの『何とか死亡率』の統計に、わたしのことは入ってるの」
 革命家、真顔になって、
「入っている」
「もし八年前、パパが国の保健長官だったら、わたし、死なずにすんだ?」
 革命家、やや思案して、
「それは少し問題が違う。エリテマトーデス(紅斑性狼瘡)は札付きの難病だ。当時もいまも、確立された治療法は世界のどこにもない」
「それなのに、パパにとって大事なのは、先端医療の進歩じゃなくて、社会の革命なの?」
「お前という娘は、何をしたって、もう帰っては来ないよ」
「質問に答えて」
「そうだな…、不治の病も、いつかは不治でなくなるかもしれない。医療革新、それがひとつ人類の進歩ということだ。誰もが願い、私も願った。だがそれを達成するのは口で言うほど簡単じゃない。ひとりふたりの病理学者が何日か徹夜で研究して、それでどうにかなることとならないことがある。どんな領域であれ、人間が、社会全体が、行進の隊列をしかるべく整えなおさなければ、結局大きくは先へ行けない」
 娘、あごに手を当てて、
「人類って、将来の目標に向かって行進していくものなの?」
「そうだ。そうでなければ、弱者は救われないからね」
「行進について行く気のないひとは?」
「やがて自覚する」
「そうかしら。そうなる前に、脱走未遂で処刑した人だっているでしょう」
「シエラ・フエンテスでの山岳戦でのことを言っているのか。むろんいる。といって、それは我々がゲリラだからじゃない。マルクス・レーニン主義者だからでもない。どんな民主的な国の軍隊でも、敵前逃亡は銃殺。ギリギリ過渡期の戦闘とはそういうものなんだ。ひとつ間違えばこっちが全滅する。だが我々が奉じる主義は、人間の蒙昧や卑怯臆病への寛容を、本来は含んでいる」
「マルクス…レーニン…」
 娘、卓上の一冊の書物に手を触れ、
「そういう立派なことが、どこに書いてあるのか、前から探しているのだけれど」
 娘、本を引き寄せ、項をめくる。肘をついて文字に目を凝らし、眉根を寄せる。
 革命家、立ち上がって娘の椅子の後ろにまわり、その肩越しに、開かれた本を見る。
「マルクスの『経済学ならびに哲学に関する草稿』か」
「読んでるけど、よく分からないの」
「難解だから無理はない」
「辛抱して読むだけの価値があるかしら、マルクス?」
「あるとも。労働と報酬、人間と世界について、これほど丹念に各論を追いかけて説明した人はいないよ。そしてひとが不幸で不自由になる仕組みを解き明かした」
「どんなふうに」
「いま、各論に立ち入る時間はないが…」
 革命家、本を引き寄せ、ページの一行を指差す。
「象徴的な文がここにある。第三草稿の四・貨幣論。『人間を人間として、また世界に対する人間の関係を人間的な関係として前提したまえ。そのとき君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ交換できる』」
 娘、首をひねる。革命家、笑って、
「十八歳のとき、ママとふたり、バイクで放浪の旅に出た。満天の星の下、誰もいない緑の丘にテントを張った。ママはすぐに寝てしまったから、ランプを木の枝につるして、ママが持ってきたこの本を読んだ」
「つまり個人的な青春の思い出に縁取られているわけね」
「それは否定しない。ただそれから二十年、折に触れ、あの星空とともに思い出す。この短い文に言い当てられている世界が、朽ちることのない、未来の夢でなかったら何が夢だろうか」
 娘、振り返った姿勢のまま、革命家をじっと見る。
 コンロにかけたポットの蓋がカタカタ鳴り出して、娘、席を立つ。
 砂時計、半分以上が滑り落ちている。 
 娘、コンロの火を止めて、テーブルに戻ってくる。だが元の椅子には座らず、立ったまま、
「パパ、驚かないでね」
「何?」
「いまのその本の、奥付を見て」
「アルゼンチン・ブエノスアイレスの出版社。1990年発行、というと三十年後…」
「カバーを外してみて」
 紙のカバーを取り去ると、表紙のカール・マルクスの顔写真の真上に、赤く大きく「A LA DESTRUCTORA(裁断廃棄)」の文字。革命家、顔をしかめる。
「役人の検閲か。その時代でも、まだこんなことをしているのか」
「パパ、違うわ」
「何が?」
「禁書とか思想弾圧とか、これはそんなロマンチックなものじゃないの」
「じゃあ何だ」
「そのハンコ押したのは、国家権力でも何権力でもない。単なるゴミ処理業者。この系統の本は、もう誰も読まなくて、誰もほしがらなくて、ただ場所ふさぎだから処分されたの。それが五十年後の歴史」
「馬鹿な」
「パパ、あそこにある本を見てみて。(本棚を指す) 二十一世紀になってから書かれた現代史の本。一冊二冊の話じゃない。いくらでもあるわ。いろんな国の、いろんな立場の人の書いたものが。開けばすぐ分かる。なぜそうなったかが」
 革命家、足早に本棚へ向かい、背を向け、一冊を手に取る。少しめくって中を見て戻す。また別の一冊を取り、開いては戻す。同様の作業を繰り返す。手当たり次第に本を取る動作には加速がつき、十冊目あたりからは、中を一瞥するだけで床に投げ捨てられる。本棚の中身が一冊ずつ床へと積もって山になっていく。三十冊ほどを取り捨てたところで、突然手が止まる。革命家、本棚に手を添え、よりかかったまま、ぴくりとも動かなくなる。
 娘、遠間から、
「パパ…」
 数拍の沈黙のあと、革命家の背中から発せられる低い声。
「Es el fin de la opresion del」
 最初は苦痛のうめきとしか聞こえないが、やがて陰鬱な祈祷に似た響きになり、さらに少しずつ声量が増し、発語に何らかの音楽的な抑揚がともないはじめる。
「pasado Hay que…」
 二連目に入って、節回しはようやくハッキリした輪郭をみせる。革命歌「インターナショナル」の勇壮なメロディー。
「EN PIE A VENCER… SUPREMO SALVADOR QUE AL HOMBRE LIBRE!」
「パパ、頭のうえ、気をつけて」
 革命家、娘の呼びかけにもいっさい応じず、背を向けたまま、ただひたすら、拳を振りたてながら、声量の限り歌い続ける。声かすれ、音程外れても、頓着せず。
「AGRUPEMONOS TODOS EN LA LUCHA FINAL! EL GENERO HUMANO!」
 本棚の天板のうえに大量に積み上げられた書籍、中途半端に抜き取られ、安定を失していたのが、ここで一気に雪崩れをうち、革命家の頭上に降りかかってくる。大音声。もうもうと舞い上がるホコリに、革命家、咳き込む。腰をかがめ、本棚に身体を預けるが、肩を上下させての咳の発作は止む気配もなく続く。
「パパ」
 娘、一度革命家のもとへ駆け寄るが、すぐ踵を返し、慌ててポットからカップへ中身を注ぎ、運んでくる。
「これ、飲んで」
 革命家、咳の合間を縫って、カップを口にはこび、啜る。それから二三回ほど小さく咳き込むが、それっきり止む。革命家、体を起こし、背筋をのばし、カップの中身をしげしげ見る。
「おさまった…」
 娘、鉢植えをもってくる。
「効いてよかったわ。これの葉っぱを煎じたの」
「すごい効き目だ。なんて名前の草なんだ」
「タチアオイの仲間。ちゃんとした名前は、まだつけていないの」
「つけていない?」
「ママとわたしでつくった種(しゅ)だから。あそこにあるだけがすべてなの」
 革命家、鉢の並ぶヒナ壇に近寄る。一つを持ち上げて、娘を振り返り、
「やはりこれは、ここから持っては出られないのだろうね」
「ええ」
 革命家、苦笑して鉢を撫でる。
「夢の草か」
「そう、夢。でも欲しいって言えば、すぐ空中から出てくるわけじゃないの。夢は夢なりに、こういうものを作り出すには思いの積み重ねがいる。この一鉢ができるまで、ふたりで三年かかったわ」
 革命家、ヒナ壇の下から、筒状に丸められていた紙を取り上げ、両手でひろげる。上から下までビッシリ書き込まれた交配系統図。革命家、娘を振り返る。
「ねえパパ」
 娘、椅子から立ち上がって、
「あっちに帰れば、また発作で苦しむでしょう。それを押して、もう今までだって、ひとの一生分も二生分も働いたわ。その結果がこれ」
 娘、指先で変形した銃弾を、つまんで見せる。
「とりあえず敵の弾みたいだけど、ことによったら、味方が銀三十枚でパパを売って、待ち伏せされた結果かもしれない」
「……」
「真相は、後世になってもハッキリしないの。いわゆる歴史のミステリー」
 娘、銃弾をカップの受け皿にカラリと転がす。
「でも、わたし、そんなこと、どっちだっていいの」
 娘、近づいて、両手で革命家の手を取って、
「むしろ、ちょうどいい潮時じゃない。ね、もうそろそろ、こっちでゆっくりしましょう。こっちにはママもいるし、これであんがい退屈なところでもない。ほら、もう一度あそこに座って。さっきのマルクスのことを教えて。わたし、きっと優秀な生徒よ」
 革命家、手を引かれるまま、元の椅子に腰をおろす。娘が新たに入れたお茶を飲む。一杯を飲み終えて、
「そうか、ヴィー、それを言うために来てくれたのか」
 革命家、片手で弾丸につまみ、また皿に落とす。マルクスのページを、漫然と前に後ろに繰る。
「ひとつ聞くよ。いまのお前とママに不足はないかね。いや、つまり、不足というのは、どこか痛いとか、苦しいとか」
 娘、大きく首を振って、
「大丈夫。しばらくいれば馴れるわ。こっちの世界では、どんな感覚も感情も、どこか間遠で穏やかなの。どう言えばいいかしら。同じ揺れを受けても、小さなコップの中身はでんぐり返るけど、大きなプールなら小波が立つ程度でしょう。ここでは、長くいるほど、自分と他との境目が曖昧で、痛みをおぼえても、すぐ広がって均される感じなの。湖に一滴、垂らされたインクみたいに」
「そうか」
「安心した?」
「ああ、少しだが安心した」
 革命家、カップを置き立ち上がる。ふたたび本棚に向かい、屈んで、床に散らばった本を拾い上げる。一冊ずつホコリを払い、また棚に差す。労をいとわず、一冊残らず拾う。時間をかけて本棚を整頓しおえると、自らの身づくろいにかかる。ベルトを締め直し、靴紐を結び直し、服のボタンを点検する。椅子の背に掛かっていた弾帯をたすき掛けにし、ベッドの枕元から、戦闘略帽を取り上げる。娘に向き直り、
「ヴィオレータ。ありがとう。だが行かなくてはならない」
 娘、駆け寄って、
「パパ、わたしの話、信じないの?」
「信じたよ。信じたからこそ余計に。大人には、現実に対する責任があるからね」
 娘、ふたたび本棚を示し、
「もう先行きは見えたでしょう」
「ああ、見てひとつ賢くなった。未来は、それによって、また変わるものだろう、ヴィー?」
 娘、ドアの前へ立ち塞がる。
「駄目。ここで何を見て、どんな決意をしたって、このドアを出れば忘れるわ」
 革命家、部屋全体を見回し、
「そういう仕組みなのか?」
 娘、ため息をつく。
「仕組みも何も、朝目覚めて、夜見た夢のことを気にかけるひとなんかいないじゃないの」
「……」
「そんなの大事な情報じゃないって、脳が判断して、記憶を『裁断廃棄』するんですって。これも未来の研究成果だけど…」
 娘、うつむいて、
「だから生きているひとに差し出すものは、わたしには何もないの。本当はもう死んだ人間だから」
 娘、指を目尻にあてる。 
 革命家、踏み出して、娘を抱擁。そっと髪を撫でる。
「違うよ、ヴィー」
「違わない。(小刻みに首を振る)」
「そうじゃないよ。それは近代からの話だ」
「近代?」
「そう。それ以前、古代・中世の王や聖人は、よく夢で神託を受け、大事な指針とした」
「嘘」
「嘘じゃない。たとえを言おうか。カルロス一世、トマス・アクィナス、小スキピオ、アリストメネスにラムセス、それから…」
 娘、くすっと笑い、
「パパ、行進が後ろへ後ろへ戻って行くわよ」
「ハハ、そうだな」
「だいたいパパ、史的唯物論のマルクス主義者のくせに」
「ハハハ、そうだったな」
 革命家、しばらく娘の髪を撫でつづける。娘、ぽつりと、
「言ったとおりだった」
「何が」
「結局、ママの言ったとおりになった」
「ママは何と?」
「今ここまでのパパの反応。一挙一動、口で言う内容まで、ママはあらかじめ分かってたみたい」
 革命家、苦笑して、
「ここに来るのを、とめられはしなかったかね」
「そんなことはないけど…」
「ないけど?」 
「ママ自身は、もう無駄に気持ちを掻き乱されたくないって」
「ハッキリしてるな」
「また別れるのが辛いんだと思う」
「ヴィーは今どう思う? 私は、ひとときでも、綺麗になったお前に会えたことが嬉しい」
 娘、一度見上げ、黙って革命家の胸に額をつける。
 やや長い間。
 砂の流れ落ちる音に、娘、ハッと顔を上げて砂時計を見る。砂の残り、もう一握り程度。
 娘、革命家の胸にてのひらを当て、
「急いで。早く行かないと手遅れになる」
 娘、自らノブに手をかけドアを開き、敷居の向こうへ革命家を送り出す。革命家が振り返ったところで、自分のブラウスのボタンに指をかけ、手早く脱ぎ去る。その下はTシャツ姿。背を向けたまま、なめらかで美しい両腕を広げて見せる。革命家の顔に、感嘆する表情が浮かぶ。
 砂時計、最後の一抹が滑り落ちる。同時に、敷居の外に革命家を残して、ドアがひとりでに閉まる。
 ひとりになった娘、やはり背中を向けたまま、元通りに服を着る。テーブルのマルクスに手を伸ばすと、ベッドに寝転び、横になったまま本を開く。しばらく文字を目で追っているが、そのうちウトウトと眠ってしまう。

 幕
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足好忠僕出征餞

 庭仕事をしていた越智信吉が、応接間で待つ高柳子爵のもとに呼び出されたのは、太平洋戦争も二年目半ばに入った昭和十八年九月の暑い日のことであった。



 高柳子爵家とは堂上公家のような響きだが、実のところは四国の山国の小大名である。それが幕末になると、時流を読みぬいて、いちはやく尊皇の旗幟を明らかにし、大政奉還の後は、中央政界で長閥の驥尾に付して入閣・叙爵をはたした。
 子爵家は小石川の藩邸跡に、ドイツ人・ヘッケナーの設計になる建築とニ百坪の和洋折衷の庭園をかまえている。藩士の娘だった母が国許から幼い信吉をつれて奉公にあがったのが二十年前、震災直後の大正十三年であった。
 信吉は尋常小学校を出て、いったんは谷中の仏具屋に奉公したが、器用さと実直さを見込まれて、今から四年前、すでに母の他界した子爵家に戻ってきた。現在は住み込みとして働き、老朽化した屋敷や家具の維持管理・修復にあたっている。
 たとえば居間の樫でできたドアのレリーフ、バルコニーや階段の欄干なども、現存するのは信吉が再現したものである。一度鑿(のみ)・鉋(かんな)の使い方を覚えた腕には、アールデコもロココ調も委細関係なく、唐草は唐草、蔦は蔦、ただ外形をなぞって彫り進めるだけだった。
 木を彫るだけが能ではなく、庭の手入れもやれば、水道管も埋める。その他の雑用も厭わずこなすので、信吉の存在は使う方からは重宝にちがいない。そして昨今の戦時下では、隣組の日常活動や防空訓練にも、この家からはまず信吉が参上して員数を合わせる。
 しかし言うまでもなく、それらの労務管理は家令の職掌であり、下男の信吉が直接、大身の殿さまと言葉を交わす機会などそうはない。わざわざ家令を介して応接間へ呼びつけるというのはよほどのことであって、信吉としては当然、その意味について期するところがあった。
 信吉は取り掛かっていた草取りを切り上げ、作業着から国民服に着替え、顔を洗ってから応接室の扉を叩いた。
「入りなさい」
 高柳子爵は還暦すこし手前、家にいるときも常に洋装である。オックスフォードに学んだ外交官で、入省間もない若き日には欧州大戦の終結にともなうベルサイユ条約の調印にも随伴した。
 それだけ将来を嘱望された青年貴族官僚が、近衛新体制運動以来、自由経済論と親英米主義をもって省主流と折り合いを悪くし、さらにここ数年来は半ば逼塞した日々であった。信吉など、子爵の晴れやかな笑顔なるものは記憶にないくらいだが、今日はひときわ深い苦衷の皺をその典雅な眉間に刻んでいた。
「座りなさい」
 信吉はおずおずと子爵の向かいの革張りのソファーに掛ける。これも舶来品、たしかイタリア製であったはずだ。
「来たよ」
 子爵はテーブルの上に一枚の葉書を示した。

 陸軍二等兵 越智信吉
 右臨時召集ヲ令セラル依テ左記日時到着地ニ参著シ此ノ令状ヲ以テ当該召集事務所ニ届出ヅベシ。松山連隊区司令部

 召集令状。赤紙である。通称を裏切って、実際は薄桃色をしている。人ひとりを死地に追いやるものにしては、紙質も驚くほど粗末である。松山は信吉の本籍地にあたる。記された日付はちょうど一週間後であった。
 信吉はため息をついた。殺生ではあるが、まだため息をつくだけの余裕があったともいえる。何と言っても信吉が徴兵されるのは初めてではなかった。かつて仏具屋にいたころ応召して、日華事変直後の大陸へも出征し、わずかながら実戦も経験している。軍隊生活も前線も、自分は必要以上に恐れてはいない。人は何であれ、知っていることにはまだしも耐えられるのだ。
 だが信吉の最初の感触を確認して、子爵は言葉を継いだ。
「軍機だから他言はしてくれるな。少し調べてみたが、連隊は南方へいく。南太平洋だ」
 目の前が暗くなった。
 この家の使用人である限り、子爵が何を言わずとも、戦局の悪化は肌で察している。すでに帝国陸軍はガダルカナルを失い、この五月には北太平洋でアッツ島守備隊が玉砕した。いまや敵はいよいよ勢いを上げて太平洋全域から日本軍を掃滅にかかっている。巨大なクジラの顎(あぎと)の中に自ら流れこんでゆく小舟の絵が脳裏を掠めた。
「当座必要なものを買いなさい」
 分厚い封筒が手渡された。見なくとも、額はだいたいニ千円くらいと分かっている。明治以来、何人もの男手を戦地へ送り出してきた由緒の家では、こんな際にも踏む手順というのは決まっている。壮行会のこと、菩提寺のこと、給与や恩給や年金のことで簡単な質疑応答があったあと、子爵はふと思いついたように言った。
「千人針にかからせよう。まずは寅どしの由美子にやらせるといい。あれはお前のことがお気に入りだったね」
 出征兵士の戦場からの生還を祈念する千人針は一人一針が約束ながら、虎は一日千里を駆けるという古諺から、寅どし生まれの女性に限り、特に年齢の数だけの運針が許されている。そして当家の令嬢由美子は、年の瀬に改元をむかえる大正十五年・丙寅(ひのえとら)の生まれであった。
「ほかに何か特に望むものがあれば言いなさい」
 信吉は視線を落とした。机に樹の枝が落とす斑の影が風でゆらぐ。
「はばかりながら」
 かねてから腹の底にあった願いが意識の表面に浮上し、そのまま一気に口をついて出そうになる。
「姫さまの履いたお靴下がいただきたく」
 だがそれは口に出さなかった。



 入営まで七日を残して家の役目から解かれた信吉は、赤紙を尻のポケットにつっこんで、まずぶらぶらとタバコを買いに出かけた。
 道すがら考える。思えば思うほど、自分の死は旦夕に迫ったらしい。前回の兵役で実戦を踏んだとはいっても、北支のどこかで、支那軍と川を挟んで撃ち合っただけだ。今度待っているのは密林と泥濘と戦病。そして見たこともない強大な火力を備えた米軍である。だいたい米潜水艦隊が猖獗する太平洋を、輸送船がその南方とやらに着けるかどうかすら怪しい。
 さてやり残したことは、と頭をめぐらせて、実のところこの世に取り立てて未練もないのだった。自分は薄ぼんやりといまだ結婚もせずに来たし、玄人素人を問わず、何かを懇ろに言い交わした女というのもいない。父はとうからなく、母もすでに見まかった。これといった親類縁者もいない。母の墓参りをしたついでに、まあ昔下駄を預けた仏具屋に挨拶くらいはしておくが、それは明日の半日あればすむ。整理すべき私物も財産も大して持っていない。
 こうしてみると空しい人生だと信吉は人ごとのように思った。過去に語るほどのことは何もない。ただ生きてきたというだけだ。そしてこの先待つのは、いよいよ個人の存在の意味など度外視した世界である。隊伍を組み、汽車に乗り、船に乗り、行き着いたそこはすでに「彼岸」と呼ぶしかない。歩きながら空を見ると、白い雲がゆっくりと流れていた。
「お靴を磨いてなかったか」
 信吉はようやくひとつ、これからなすべきことを思い出した。数ある雑事のうち、家の靴磨きは信吉の分担であった。自ら進んでやるので、おさんどんの女衆もこれ幸いと人任せにしている。また丁寧な仕事ぶりなので、家令もいよいよ信吉にやらせろとダメを押した。
 心はずむとはいえぬ子爵の靴は先日済ませておいて、令嬢の由美子の履物だけを残してある。これをむざむざ人にはやらせられぬ。信吉は仕事に際して計算高いたちではなかったが、何しろこれが今生の最後になるかも知れぬ。
 なぜそれほど娘の靴にこだわるかといえば、単純にまず女の足が好きだったからである。そこから派生して女物の履物類も好きになったにすぎない。
女性を前にしたとき、顔の次にどこを見るといって、信吉の場合は足先であった。かつてはひとなみに乳房や尻が好きだったと思うが、加齢とともにこの傾向は昂じ、一見朴訥の男の中に、決して口外できぬ後ろ暗い秘密を構成した。
 私物の行李の中には、すでに夥しい女優のピンナップや洋画雑誌の切り抜きが収集されている。すべて足先の様子が露わになった写真ばかりである。とりわけ、いずれも古代の貴婦人に扮したアラ・ナジモヴァ夫人やグロリア・スワンソン嬢が、しどけなく奴隷の頭や背を足で踏みつけているスチルは秘蔵であった。後者の出典は不明だったが、前者の「サロメ」を見るために信吉は三度も名画座に足を運んだ。
 収集は写真だけにとどまらなかった。いまではもっと生臭い呪物も隠し持っている。大方は誰のとも知れぬ、女物の足袋やソックス、草履。以前谷中にいた時分、器量よしで聞こえた後家さんの足袋が軒先になびいていたとき、信吉は生まれてはじめて盗みを働いた。ただし盗みっぱなしというのはいかにも寝覚めが悪く、そのときは庭石の下に、新しいものが買えるだけの硬貨を転がしておいた。
 その後も近所のあちこちで、同様な振る舞いに及ぶこと何度かにわたったが、すわ下着ドロ跳梁という風聞も立たなかったのは、それとない形で払ってきた代価のためではなく、ひとえにその性癖が世間の理解を絶しているからだろう。
 空き箱と交換で首尾よくタバコを得た信吉だったが、家へ戻ってきて、さて令嬢の靴にとりかかろうと勝手口へ回ったところ、すでに下駄箱の前に座り込んでいる人影があった。ハウスメイドの三千代である。かっぽう着の大きな背中がゆれているのは、今しも靴を手にして磨いているところらしい。
気配を感じて振り向いた彼女は、信吉を認めるといきなり大声を出した。
「あんた、信ちゃん」
 手にした靴をいったん置き、近づいてくるとドンと背中を叩き、
「気をしっかり持つんだよ」
 メイドといったって小娘ではない。三千代は、信吉母子のような旧藩に連なる人間ではなく、斡旋所の紹介で寄越された東京ものだったが、すでに二十数年も勤めて、気さくで裏表のない人柄で信望も篤い。
「仕方ないよ。お国のためだから」
 信吉は肩をすくめる。たしか彼女の息子もすでにマレー方面へ出征したときいている。
「千人針、用意するからね。お嬢様がお帰りになったらさっそくやってもらおうね」
 信吉はもごもごと謝辞をのべたあと、
「ミチさん、おれ、昨日のつづきでお靴を磨きにきたんだけど」
 三千代は目の前で手を振り、当然予想されたような言葉を並べ立てた。
「いいからあんたは好きなことしといで」
 信吉は落ち着いてゆっくり答えた。
「じゃあ、おれ、お靴が磨きたいよ。やりかけたことだから」
 一応の弁明はつけ加えたが、本心ではもう他人から何を思われようと構わない気になっている。人のまさに死なんとする、その言や偽りなし。
三千代に場所をゆずられた信吉は腰を下ろすと、女学生の靴の内部に手を入れた。顔の高さにあげて、息を吹きかけ手拭でこする。靴墨を乾かすのも、同様に息を吹けばはやい。
 その様子を三千代は後ろからじっと見ていたが、
「あんた、前から思ってたけど、お嬢様のお靴となるとほんとに熱心にやるねえ」
 信吉が見返すと、
「いや、何も旦那様のお靴で手を抜くって言ってるんじゃないけどさ」
さすがに見る目はたしかで、信吉の仕事ぶりをまさに正確に把握している。そしてとり繕うように、
「でもさ、ほら、寅の娘、それも貴いお姫さんが足に履くもんだからね。大事にしといたってバチは当たらないか」
 うまい解釈をつけるのも年の功であろうか。
「とにかく気をしっかり持つんだよ」
 三千代はそう言って立ち去った。



 通学用としてローファーシューズ、ストラップシューズ、紐靴、普段履きとしてサンダル、運動靴、浴衣に履く黒塗りの下駄。ここにあるのはそんなところで、夜会用の靴、乗馬ブーツ、振袖に合わせる履物などは別に管理されている。
 信吉は通学靴からはじめて丹念に艶を出す。誰が見ていなくとも、鼻をつっこんでみるなど、特に不埒なことをするわけではない。ただ度をこえて念入りに磨くだけだ。たとえ自分が変態性欲者でも、本来の仕事だけを通して思いを遂げる分には誰が咎めよう。
 妄執に駆られて盗みまで働く自分が、いまさら何の倫理、とは信吉は考えない。こと令嬢由美子に関しては、何もかもがおのずから別なのである。いったん由美子本人の前に出れば、まず女の足を見る信吉にして、そのほの白い足ばかりは直視できない。ふだん煩悩に振り回されている自分が、何がしか純直で一本気なもののように立っている。
 といって彼女は、目下のものに理不尽な緊張を強いる勘気の強い主人ではなかった。むしろ若さの割に情緒はたいへん安定しており、使用人に対する態度は公正である。思い遣りのない下知で人を困らせることもない。
 それでもこの十六の娘には、大人も及ばぬ独特の威厳が備わっているように思われる。人をして争わずに意に沿わせる何かが。これは他の使用人も夙に口をそろえる。その眼差しに晒されるとき、人は大なり小なり、できるならばこの娘の望むような存在になりたいと願うものらしい。
 彼女がしかるべきところで顔を合わせる宮家の軽薄な若さまでも、由美子の前では神妙に振舞うという。口さがない賄いの女たちも彼女の悪口だけは言わない。子爵の留守中、匕首と斬奸状を懐に乗り込んできた右翼壮士は、応対に出た女学生の娘にとり鎮められて帰った。親戚筋の十になる知恵おくれの娘さえ、なぜか本家の姉さまの言うことだけは聞く。
 それは「姫さま」だから。
 信吉は長いこと考えて、ようやく片言のようにその類推を得た。むろん華族の嫡出の娘を姫と呼ぶのは、今でも公式の表記としておこなわれているが、ここでいうのは明治の華族令などによらぬ、子どもの口から発せられるような「お姫さま」のことである。
 信吉が幼年時代を過ごした四国の山村からは城跡の石垣が見えた。戦国期に高柳美作守が長宗我部氏に抗して築いた出城にすぎないが、子どもたちは皆何となく、それを一国の領主の居城のように思っていた。さらに中には、昔そこにたいそう美しい姫がひっそりとおわしたのだと夢想を語る女の子までいたもので、ここではそういう現実味のない姫を思えばよい。
「いつ見きとてか恋しかるらむ」とカルタにもあるぐらいで、「姫」はただ存在するだけで憧憬の対象である。姫が姫であるというだけで、貴公子たちはその所望の品々を調達すべく東奔西走し、小剣士は比較さえおこがましい巨躯の鬼に針の剣もて立ち向かう。こうした古式を、神代から昭和の帝都にまで伝えるのが、かの美作守の裔・由美子姫というわけである。  
 もっともその姫本人は、歴史学徒を志すとまで言いながら、鹿鳴館で伊藤や大山に伍した子爵家の沿革にも、清和源氏の武門としての先祖の事跡にも、さしたる関心はないらしかった。
「あえて学ぶようなことでもなくてよ」
 何かの折、廊下の子爵家始祖の肖像画に視線を投げて、由美子がさらりと口にした言葉だが、その真意は信吉などのとうてい解するところではない。
ともかくも、彼女が関心を寄せる歴史というのはむしろ西洋の故事であった。
 由美子の通う学校は、女子学習院ではなくミッションの私立学園である。米英と開戦して国外退去になるまで、教員の多くを西洋人が占めており、いきおい教材の内容も、生徒の読書傾向も、向こうの素材が主体となるらしかった。
 高等科に入った頃から、由美子は昼のうち学校で読んだり聞いたりした事柄を、夕餉のあと信吉を部屋にお召しになり、話して聞かせるようになった。
 なぜその役をおおせつかるのがインテリの家令や書生でなく、彼らからすれば「目に一丁字ない」信吉であるかだが、まず気心が知れているのと、そして無学の徒にも分かるよう噛んで含めるように説明することを通して、由美子自身もより深い理解に達するらしかった。
 令嬢は自室の読書用の椅子にゆったり腰掛けて、足をフットスツールに休めながらテキストを片手に講義し、時おりミルクティーで喉を潤す。信吉は部屋の真中の絨毯に正座し、両こぶしを膝の上に据え、壁の一点を凝視しながらそれを傾聴する。由美子はその格好をトウの立った寺子屋の生徒のようだと笑い、「もっと楽にしていいのよ」と足先で男の膝を軽く突ついたりするが、そのたびいよいよ信吉は恐悦して固くなるのであった。
 いまでも信吉は、見つめつづけた壁のシミの形とともに、即座に遠い異国の物語の数々を、まざまざと思い出すことができる。
 陰謀に狂奔するグロスター公。乞食にマントを脱いで与える聖マーチン。我と我が都に火を放つネロ。神に背きクジラに呑まれるヨナ。一夜ごとに自ら成した織物をほどくぺネロープ。鉄騎隊を率いるのちの護国卿クロムウェル。
 幼い頃に母はろくに物語りしてくれず、話といえば「サロメ」と「八百屋お七」と「三十石舟」しか知らない下男に、夕な夕な西洋文明の精髄そのものが説き聞かされた。
 ひとつひとつは、時代も国も、虚実すら曖昧になってしまったが、いずれの話においても、人類の共通構造に根ざした深い真理と叡智のようなものが、無学の信吉にもつくづくと感得せられたのは、やはり語り手の功というよりない。
 そして思えば、自分がこれほどこの戦争の行く末に悲観的なのも、家風といえばそれまでだが、直接的には由美子の薫陶によるものなのであった。
一昨年の十二月、帝国海軍の空母機動部隊がハワイ真珠湾に集結する米戦艦群を強襲しこれを屠った。これにより日米戦争の火蓋が切られたのだが、この緒戦の大戦果の報に接したときは、信吉さえ気持ちの昂ぶりを沈めるのに苦労した。ついに帝国は太平洋と中国大陸の覇権を賭け、宿敵・米国と雌雄を決する。
 だがその夜、由美子は例によって信吉を座らせると、物静かな態度で、手に開いた原書の一節を訳しつつ朗読した。
「あなたがたは忠義と勇猛をもって戦争に勝つという。だがあなたがたは見たことがあるまい。ニューヨークの高層建築を。ピッツバーグの鉄鋼所を。フィラデルフィアの砲兵工廠を。そのうえ向こうには、数ドルそこらで命を捨てる人間たちが、ドイツから、アイルランドから毎日続々と入り込んでくる。それに引き換え我々には何がある。我々が持っているのは自負と綿花だけである」
 まず綿花というのがよく分からなかったし、ついに引き起こされた日米の衝突について述べたにしては、彼女の手にした本はいやに古かった。それについて信吉が質問すると、由美子は本をパタリと閉じ、
「手を出して」
 机に本を置くと、自らも座ったまま両手を伸べる。信吉は立ち上がり、いぶかりながらも従順に少女の白い手に自分の手を重ねた。両手をつないで正面から向かい合う形である。
「目をつむって」
 これも問い返すことなく従う。
 視界が閉ざされた途端、信吉の体は得体の知れない感覚に襲われた。まず下腹がすうっと竦む。高いところからはるかな地面を見下ろしたときの心地である。はたしてすぐに落下の感覚がはじまった。これは寝入りばなに時折体験することがあるが、それがはじめから醒めた意識でいるだけに、いつまでも途切れようとしない。いつまでも落ちつづける。
「まだ目を開けてはだめよ」
 いや、自分の意識は本当に醒めているのか。いま天地は晦冥し、信吉は由美子とふたり、ワイヤーの切れた昇降機のケージのようなものに閉じ込められていた。それが果てしなく深く暗いタテ坑を加速とともに滑空していく。外壁をこすり空気を裂く摩擦音が、鋭く高く、耳を聾するほどになるまでに。
 全身の産毛がそそけ立ち、信吉はこらえ切れず目を開けた。
 まず周囲を見回し、見慣れた令嬢の居室の調度を確認した。窓の外には、静かな星空に照らされたお屋敷街の宵闇がある。物音はしない。すべて世はこともなし。
「分かって?」
 目の前の由美子が、諭すように微笑んだ。
「今のは、何が?」
 由美子は手をおろすと、
「信吉がいま感じたとおりのことがはじまったのだわ」
 再び本に手を伸ばしながら、やや突き放すように言った。長い睫が伏せられる。その日の講義は終わりという合図だった。
 いま信吉は、磨き終えた靴を片付け始める。
 ケージが大地に激突して四散する日は、少なくとも自分に関しては目前に迫ったということか。



 靴磨きを終えた信吉だったが、時計を見れば二時半。由美子が学校から戻るにはまだ間がある。磨いている際、またひとつ大事な用件を思い出していた。
 マッチに灯油に新聞紙と、必要な一式を取り揃えると、信吉は裏庭の別棟にある使用人の居室に取って返し、衣装行李を引っ張り出した。スパイ映画よろしくご大層な二重底から、饐えたような匂いを放つ胡乱げな衣類が出てくる。
 信吉は人のいないのを見計らって、八方でセミが鳴きしきっている裏庭に出た。適当な地面に、抱えてきた呪物をうず高く積む。
 いま日の下で見ると、自分が犬のように拾い集めた品々は、あるいは犬でもそっぽを向くような代物であった。仏閣に納める弥勒や虚空蔵(こくぞう)を彫り出していた自分が、その合間に拝んでいたのがこんなものだと人は知らぬ。
 灯油をかけて火を放つ。炎は白日の中では透明で、ひろがっていく焦げ跡だけがその推移を示す。雑多な繊維が燃える煙は異臭というほどでもなかったが、燃えぶりは景気が悪い。立ち消えそうになって、あわてて火掻き棒でかきまわし、団扇で風を送ったとき、
「信吉、何をしていて」
 若々しい泉のような声に、突然後ろから呼びかけられて、両肩が反射的に跳ね上がる。こういう呼びかけをする者は家中にひとりしかいない。
 純白のワンピースの胸元に赤い文字の刺繍、ミッション女学校の夏服を着た少女は青芝を踏んで近づいてきた。
 高柳子爵令嬢由美子姫、芳紀十六歳。かぞえでは十八だが、長身五尺五寸の背をすっきりと伸ばし、色白の手足は健やかに伸びて、ハッとするほど立ち姿の美しい娘であった。まだ鞄を手にしているから、まさにいま帰宅したばかりなのだ。この学校が何人の生徒を擁するのか知らないが、これほどまでにこの清楚な制服が似合う娘はまたといまいと信吉は思う。
 信吉は急いで立ち上がり、胡乱な燔祭の現場を遮蔽するように少女に向き合った。とにもかくにも、ぎこちなく頭を下げる。
「姫さま。お、お帰りなさいまし」
 普段は他の使用人にならって「お嬢さま」と呼ぶところを、動転したいまは、一昔前の人間である母親譲りの呼び方が口から出てきていた。
 由美子はそれには答えず、立ち尽くす信吉に向かってまっすぐに歩を進めた。何の躊躇もなく距離を詰める由美子に対して、信吉は意に反して道を開いた。
 由美子はいったん膝を屈めると、呪物の山の隅から、端の焦げかかった足袋のこはぜをつまみあげた。怪訝そうに信吉の顔と見比べる。
 信吉はうつむいて由美子の視線を逃れ、体のわきで両の拳を握り締めた。自分の乏しい才能で今から言い訳を講じても、この聡明な娘には通じないことを知っているからどうにもならない。
 だが由美子は、足袋を無造作に再び火の中に投げ入れて、
「今そこで聞いたわ。赤紙が来たのですって?」
 この状況とは直接関係ないことを言う。
「いつここを立って?」
「じゅ、十二日でございます」
 由美子は火のそばを離れると、スカートの裾をたくして別棟の縁側に座った。娘は脚を揺らしながら空を見やる。信吉はとにかくはやく黒焦げに燃え尽きてくれないか自分の背後に気が気でない。
 一際強い風が裏庭を吹き渡り、少女のスカートと襟元、そして肩にかかる髪をかき乱した。軒に吊られた風鈴が鳴る。
 信吉は焚き火を背に、立ち往生のまま、女主人に告げるべき別れの言葉を頭の中で組み立てようとした。別れの沙汰に取り紛れて、不審な焚き火のことは忘れてもらおうという思惑も少しは働いている。
 由美子お嬢さま。長い間可愛がっていただきました。信吉は往きます。生きて戻ることはかないますまいが、お嬢さまのお美しさと優しいお心栄えは。
 そのとき唐突に蝉時雨の閑寂が破れた。ほど近くで一匹だけ、恐慌したようにけたたましく鳴き散らしはじめたものがいる。
 見れば一匹のアブラゼミが縁側の前の砂地に落ち、不自然な角度に羽根をひろげ、暴れ独楽のように地面を跳ね狂っている。砂に不規則な破線のような軌跡が残る。この季節よく見られるセミの断末魔の一相であった。
 このまま縁の下にでも転げ込んで息絶え、あとは蟻が群がり内臓を食い散らされる。そう思った瞬間、信吉が息を呑むようなことが起こった。縁側に座った由美子が軽く脚を伸ばし、目の前を掠め過ぎようとするセミを片足に踏まえたのである。
 信吉は戦慄した。美しい乙女のいわれない残酷の光景が、理屈ぬきに背筋を衝撃したのだ。だが驚いたことに、彼女の靴の下から、セミの逼迫した鳴き声がいまだに聞こえる。潰すでも逃がすでもない微妙な圧力がそこに保たれているとしか思えない。由美子の表情はここからでは読み取れない。
 その鳴き声が徐々に小さく間遠になってくる。信吉は背中を押されたように焚火の前から進み出た。由美子の前へ来るとやや腰を落とし、
「姫さま、お足元にセミを踏んでおいでになります」
 口にしてみると、二度と使い道のなさそうな奇天烈な一文ではあった。
 だが由美子は白い顔を向けさえせず、平然とこれを聞き流した。相変わらず鳴き立てるセミを踏まえたまま、やや細めた目で遠くの空を見つつ、やわらかで真っ直ぐな髪を風になぶらせている。何を考えているのかいよいよ分からない。
 弱々しくなっていたセミの声が途切れる。ついにたまりかねた信吉は、まず一礼すると、
「失礼いたします」
 腰をかがめてにじりより、もはや逡巡なく由美子の靴の下へ手を伸ばした。由美子の足はなおも動く気配がない。ローファーシューズの土踏まずから指を入れ、足先の方をさぐってセミの紡錘形の胴をつまんだ。セロファンのような軽いはばたきが指の腹を打つ。そのまま引き出すのは、まだ羽根などを損なうおそれがあった。
「姫さま、セミが死んでしまいます。どうぞお靴をおあげ下さい」
 だが信吉の懇願に対する姫君の声音はひややかだった。
「どうせすぐに死ぬわ」
 意地悪く少し靴先に力が込められ、間に挟まった熱い砂粒が手の甲に食い入った。セミがジ、ジと断続的に鳴く。
「それでも」
 咄嗟に受け太刀しようとして、信吉はすぐ言葉に詰まった。自分はいまから、この主でもある年若き師を相手に「惻隠の情」について説教を垂れようとしているのか。
 耳の火照りを感じつつ絶句していると、靴底から傍目には分からぬほどの微かなノックが伝えられる。
「それでも、何。最後まで言ってごらん」
 促された信吉は顔をあげ、とうとう生まれてはじめての形而上学を述べ始めた。もちろん目新しい内容とは自分でも思わない。
「はい。おそれながら申し上げます。それでもこのセミはまだ生きてございます。生きているものには生き続ける権利があって」
 喉が渇き舌がもつれ、太陽がジリジリと首筋を灼く。
 明日には銃を取り、ひとりでも多くの敵を撃ち殺そうという男が、この期へきて何の世迷言を吐く。第一自分自身がこのセミほどに儚い命なのに。だが信吉は、這いつくばって女学生の靴に手を踏まれたまま、自らの矛盾と滑稽に耐え言葉を継いだ。
「それを戯れに奪うことは、誰にも許されていないと信吉は思います」
 一気に言い放ったので、にわかには息継ぎのタイミングも取れない。その信吉に向かって、だが姫君は前髪を払いながら、大輪の花の開くようににっこりと笑んだ。同時に靴がのけられ、そのままスカートの中で脚が組まれた。
「貸してごらんなさい」
 ほっそりした手が差し伸べられた。乙女の白い腕をやわらかな産毛が薄い光のヴェールとなって包んでいる。信吉は最初意味を取りかねたが、どうやらこれしかないと観念して、つかみ上げたアブラゼミを娘の右手に乗せた。
 由美子はセミをてのひらに乗せたまま、左手の華奢な指先で羽根のつけ根をニ三度微調整した。そしてそれを口元に近づけると、そのみずみずしい唇を尖らせて息吹を送った。
「お行き」
 何という業(わざ)か、セミは嬉しそうな鳴き声とともに、一直線に飛び去っていった。
 おそらくは砂埃を吹き払う所作だったのだろうが、信吉にはその一息がセミの殻に命そのものを吹き込んだように見えた。



 立ったままセミの行方を見送っている信吉の手が、ついと引かれた。令嬢の目がうっすらと優しげに細められてこちらを見ている。信吉の手を取ったまま、かすかなスカートの衣擦れの音とともに娘は右足を上げた。まっすぐ伸びた脚が空中に美しい線を描く。
「靴、脱がせてね」
 取られた手がさらに下に引かれる。自分の足元にかがみ込めと娘は言っているのだ。
 信吉は抗わなかった。抗う理由がなかった。再び腰を落とすと膝立ちになり、右手をそっと令嬢の足首に添え、左手でローファーの踵をつかんで外した。由美子はそのまま脚をたたみ、無言で今度は左足を突き出す。それに対しても信吉は同じ作業を繰り返し、左右の靴を揃えて地面に置いた。
 あらためて由美子は両脚を空中に伸ばした。スカートの裾を膝に撫でつけながら、
「信吉は今までに一度も」
そこで言葉を切って何かを回想しているらしい。
「妾(わたし)を不躾に見たことってないものね」
『妾(わたし)の足を』という補足を、当の足首を軽く揺らすことによって入れる。
「忠義の家来をもって由美子は果報者でしたこと」
大時代な言葉づかいは、「姫さま」などと呼びかけられたことへのからかいが含まれている。そして「ふふっ」と笑い、
「でもね、今日という日は遠慮はいらないことよ」
 言葉と同時に、ソックスの足先が信吉の鼻先を掠め、ツバメのように翻って片頬を撫でた。それは一日の学園生活にやはり汗を帯びていたようで、しっとりとした湿り気が横顔に刷きつけられた。信吉の顔と指先から血の気が引き、奥歯が微かに鳴った。由美子はまた静かに命じた。
「次は靴下」
 問答は無用であった。信吉は三つ折りになった裾を一度伸ばし、裏返らないように、すべての部分を均等に少しずつつまんで手繰る。左右を終えるまでには相当な時間を要した。靴下は縁側の上に重ねられた。
 いまや一尺たらずの眼前に、思い描くことさえならなかった姫君の珠玉の足があった。由美子は後ろに手をついて、外気を呼吸するように、淡い桜色の足先を屈伸させた。
 通学鞄を指すと、
「その中の巾着にツメキリが入ってるの」
 フランス製の小さな銀色のツメキリを信吉が取り出している間に、由美子は少し体を縁側の奥へ送ると、両脚を軽く折り、膝を抱くようにして、透明な足のつめを縁の際に並べていた。足指を曲げればそのまま縁側の角をつかむ位置である。
 信吉は背を曲げ息を止めて、ツメキリの銀の刃を少女の足先に当てた。小気味よい音とともに、微かに伸びた少女の末端が切り離される。その破片は、指示に従って脂取り紙の上に並べられていく。少女の繊細な足指を細心に一本一本取りあげながら、信吉は理解していた。由美子姫は自分をして、このつめのかけらを形代(かたしろ)として戦場まで持たせるつもりなのだ。それは破片とはいえ、千里を駆ける虎の足そのものであった。
 ツメキリの把についたヤスリで十趾を整え終えると、由美子は丸くなった爪先をニ三度撫で、今度は少し悪戯っぽい目つきになった。
「そのままじっとしているのよ」
 信吉の肩に右足裏を乗せ、男の上半身をさらに踏んで沈める。そして左足がかろやかに旋舞したかと思うと、それはひたと信吉の眉間に所を決めた。
 クスッという笑い声。
 ひんやりした少女の土踏まずが、上気した顔から熱を奪っていく。そして信吉の鼻孔は、少女の素足から汐の香と革のにおいを吸い取っていた。折り重なるセミの声が、信吉の耳に遠く荘重な読経のように響く。
「どうか生きて帰ってきてほしいわ」
 由美子は真顔に戻って言いながら、その足先を鼻筋に沿ってゆっくりと滑らせた。
 信吉は朦朧としかかる頭で、
「い、生きて帰れば、また姫さまにお仕えできましょうか」
 やっとの思いで聞くと、姫君の眉宇にかすかな憂いの影が射した。
「この戦争が終わるときは、この国の滅びるときよ」
 どうやら一身の話では済まぬらしい。一国の命運がここでは占われる。しっとりとした足裏の肌理(きめ)を額と鼻筋に感じ取りながら、いま信吉は、亡国トロイの巫女姫カサンドラの託宣を聞いていた。
「悪くすれば国は焦土、国民は根絶やし、ましてや華族なんてお笑い種(ぐさ)ね」
 巫女姫は、世界の破滅の予兆を感じ取ろうとするかのように木漏れ日を振り仰いだが、その足では飽くことなく男の顔の造作を探っている。どこか遠くでヒヨドリの鳴く声が聞こえた。
 ようやく由美子が我にかえったのは、はずみで足先が男の上唇をめくりあげ、前歯に堰かれたときであった。彼女は少し目を見開くと、頬を染め、はにかんだような笑みを浮かべて信吉を見た。その按配を笑ったようでもあり、自分の行き過ぎた感傷を笑ったようでもある。
「それでも一番辛いのはやっぱり兵隊さんね」
 左足先は唇を割ったまま、空いている右足先で下顎がしゃくられた。
「いいこと、お茶目さん」
 やや蓮っ葉にそう前置いたが、続く言葉はいかにも真率な慈しみの情に溢れていた。
「戦地でやりきれなくなったら、今日のことを思い出しなさいな。少しは気が紛れてよ」
 足先が歯列を越えて口腔へ進入した。足指が草履の鼻緒を挟むように舌をつまんだ。
 形にならないものが胸にこみ上げてくるのを感じて、信吉は目をつむった。両方の目尻から涙がこぼれ落ちる。涙とともに去来するこの思いを何と呼べばいいだろう。
 火を見るよりも明らかに、自分はこれからジャングルの中で敵の銃火に伏すだろう。飢餓に苛まれマラリヤにのたうつかも知れない。すでに南洋に散った何千の同胞の兵たちと同じように、行き着くところ野辺に骸を晒すだけだ。
 それでも信吉は確信する。二十数年を生きた中で、今日この日、今この瞬間、天上の姫君にその雪白の足で嘉(よみ)せられたことだけは、この先何が起ころうと、片時も離れず胸中にあるだろうと。
 その間に由美子は、淑やかな身振りで、鞄の中から針と糸を取り出していた。

エピローグ

 1943年12月下旬、タラワ環礁を攻略した第二師団第一連隊に所属する連絡将校マイケル・ヘイズ少尉は、魚雷艇から船外機つきゴムボートに乗り継いで、ギルバート諸島のはずれに位置するルエ島にやってきた。
 砂浜で歩哨と挨拶を交わし、この島の戦況を聞く。大局は無論とうに決したが、山地でまだ散発的な抵抗があるらしい。マイケルはヘルメットの庇を押し上げ、繁茂したマングローブが朝露に光る山容をふり仰いだ。まだ特に掃討戦の銃声のようなものは聞こえない。
 中隊指揮所の所在を聞き、マイケルはトンプソン短機関銃とバックパックを背負い直すと、ひとり海岸沿いを歩き出した。視野の端に南太平洋の遠浅がぎらつく。生暖かい潮風が湿気を運び、並木のように生えた椰子がざわめく。脳裏に、これから会う派遣隊の隊長ランドルフ・ラモート少佐の顔がちらちらした。
 三年前アナポリスの士官学校を出て最初に配属されたペンドルトンのキャンプで、直属上官となったのがラモートであった。南部出身の悪辣な農場主のような風貌ながら、生粋の軍人たるラモートは、プリンストンで文化人類学の修士号まで取ったマイケルを「プレッピー」と呼んだ。
「で、アイヴィーでは何をお学びになったんだ」
 抽象的な学問全般への侮蔑を込めてラモートが聞いたとき、マイケルはここが勝負とばかりに、たじろぐことなく即答した。
「日本の朝廷の有職故実(カスタム・オブ・インペリアルコート)についてです」
 これにはさすがのラモートも、あまりの馬鹿馬鹿しさに一瞬毒気を抜かれた顔になったが、やがて持ち前の厭味を口元に漲らせると、
「それは願ったりだ。このマリーンにいれば、いまにイヤというほどジャップの生態を拝めるぞ。ひょっとすれば、お前の好きなミカドまでもな」
 これを慧眼というべきかマイケルは知らない。戦場で敵として日本人を殺すことについて、想像以上に葛藤は少なかった。だがひとたび南洋のおおらかな風景に心を移すとき、『菊と刀』などという扇動的な書物が喧伝される戦時の殺伐が厭わしく思われるのだった。
 軽戦車やハーフトラックの轍の跡を辿って内陸へ入り込む。やや行くと、機関銃座を据えた哨戒線の向こうに原住民の高床式住居が見えてくる。錨とマスケット銃を組み合わせたデザインの旗がはためいているから、中隊指揮所と知れた。そしてその手前に立っているカウボーイハットの大男こそランディ・ラモート少佐である。腕章をつけた野戦憲兵と何か話している。近づいてくるマイケルに目をとめると、
「いいところに来たな、プレッピー」
 ガダルカナルとタラワ、二度の死線をくぐり、赤銅のように日焼してなおこの挨拶である。
「お前のジャパノロジーの出番だ」
 ラモートは、手にしていた布切れの束を野戦用デスクの上にひろげてみせた。
「兵たちがジャップの死体から剥ぎ取ったものだ。幸運の護符だとか言ってな。一体これは何だ」
 マイケルは背の荷物をおろし、指先で布切れをはぐってみる。
「これは本来が、一種の近代日本流タリズマンです」
 学者風を吹かすのは本意ではなかったが、ラモートに目で促されマイケルは続ける。
「この縫い目のひとつひとつが、1000人の婦人の手によって、ひとつずつかがられると聞いています。センニンバリ。サウザント・ウィミンズ・スティッチーズです」
「1000人の女だと」
 ラモートはそのひとつをつまみあげて太陽に透かした。
「プレッピー、お前、1000人も女の知り合いがいるか」
 異国の奇習に接しても、あくまで実証的態度を忘れないといいたいらしい。
「街頭で行き会う婦人同士が相互に縫い合うのです」
 ラモートはふんと鼻を鳴らし、
「ロッキーから西は文明の光及ばざる土人ばかりというわけか」
 この中隊は西海岸の都市部の若者を主体に編成され、ラモートは彼らを享楽的で惰弱とみなしている。
「戦時国際法に反する。そんなさもしいだか臆病だか分からん兵は俺の隊に要らん」
 ラモートの視線が建物の横手のドラムカンへ鋭く向けられる。それは戦場における万国共通仕様の風呂であって、その下では薪が焚かれている。ランディ・ラモートは、あるだけのセンニンバリを武骨な手で荒々しくつかみとると、風を巻いて体の向きを変えた。どんな人間の心にも陣取る不合理なものたちを、もろとも一息に炎の中にくべてしまいたい衝動がその目に滾りたった。
 だがその嗔りは一瞬のうちに去った。踏み出しかけた一歩を戻し、胸のポケットからラッキー・ストライクを一本引き出し口に銜える。
「本国(ステイツ)に後送してスミソニアンにでも飾るんだな」
 センニンバリを机に置き、マイケルの方へと滑らせた。マイケルは感慨した。その数一万になんなんとする日本の女たちの見えない手が、結局はトロールのような南部男ランディをさえ押し戻したのか。
 そのとき建物の裏からレシーバーをつけた通信兵が顔を出し、ラモートを呼び立てた。35高地なるポイントが中隊長の指示を仰いでいる。
「中でコーヒーでも飲んでおれ」
 そう言い置いて、ランディ・ラモートは憲兵をともない、のしのしと歩み去った。
 残されたマイケルは、センニンバリを取り上げて丹念に繰って眺める。すでに民俗学者に戻っている自分に気がついているが、人目のないところでこの好奇には打ち克ちがたかった。
 一枚ずつめくっていくマイケルの手がふと止まった。かつて例のない不思議な一枚が目の前に現れたのだ。
 一枚の手拭に相当数の縫い目が施されているのはよいのだが、なぜかその一端にアップリケのような形で、木綿の白いソックスが片方縫い付けられている。よくみると、その靴下の裾から爪先にかけても一列の縫い目がL字に連なっている。
 まずマイケルは目を凝らし、その一枚すべての目の数をよんだ。1000。靴下の上に走っている十八の目を加えてちょうど1000になる。とすれば、この靴下は単なるはずみでここに置かれたものではなく、何かの確たる意図があるらしい。
 マイケルは古今東西の図像学の知識をあれこれ動員してみたが、このハンジモノを読み解くことは出来なかった。
 ようやく自分の腕時計の日付窓に目をとめたとき、はじめてマイケルは、ひとつ靴下について行われている呪術的な用途を思い出した。頭をめぐらして、いま一度この南海の風景を眺めわたす。この日本兵は、武運長久の祈りに飽き足らず、こんなところでサンタクロースのプレゼントまでせしめようとしたのだろうか。
 雪ぶかい故郷ニューイングランドに思いを馳せながら、靴下の布地を撫でるマイケルの指が、爪先の辺に微かな異物感をとらえた。何も考えず、靴下の裾から手を入れてみる。案の定、針は手拭の地までは通っておらず、マイケルの指は一番奥までもぐって、何かごく小さな薬包のようなものをつかみ出していた。
 自らの背をまわして風を除けながら、マイケルはハトロン紙の包みをそっと開いた。さらによく見るために中身を片手の上に空ける。
 小さな破片は、数えるとちょうど十あった。形からいっても、それは人のツメ以外のものではなかった。にもかかわらず、それは水晶か雲母のような透明感を湛え、手に乗せていても不思議に不浄を感じさせない。折りしも山の端から射した赤道直下の突き通すような太陽を受けて、自分の掌の上から十の光芒が放たれるのをマイケルは見た。



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ナターシャ・ガリエナの帰還1

1

 イルティシ河から水を引き、これから建つ小規模コンビナートに工業用水を供給するための浄水場の工事は佳境に入っていた。とはいえ建築屋の二期工事が始まらないことには、いくら早く仕事を上げても、僕たち電気工事屋は遊んでいるしかない。
 そんなわけで僕とコンスタンチン・イリイッチは早めに昼食をすまし、のんびり河原で日なたぼっこをしていた。僕は煙草を吸いながらタンポポの花が揺れるのを眺め、彼は芝に置いた新聞を見ている。だいぶ離れたところでは、僕と同期のフョードルが昼寝をしていた。
 コンスタンチン・イリイッチは不思議なひとだった。七年前、猫を入れた籠だけを下げて、あとは着のみ着のまま、身ひとつでシベリア鉄道に乗って東のほうから流れてくると、そのままここにいついてしまった。この電気設備公団に入るとき、どんな身分証明を見せたのかは知らないけれども、彼はなかなか手のはやい職人ではあった。
 彼の生まれがどこなのか知るものはいない。尋ねるものが、知るかぎりの極東の都市の名前を挙げても、彼はなぜかくすぐったそうに、もっと東、もっと東、というばかりで、しまいに聞く方が根負けしてしまう。一体どこまで東なのか、あるいはカムチャツカあたりの出身なのかも知れない。
 ラブレンティ・ベリヤの時代の流刑囚だったのではないかと噂するものもいたが、彼はまったく気にしていないようだ。優しいひとで、怒ったところを僕は見たことがない。彼が入った当初、まだ新米だった僕はずいぶん助けてもらったし、今でもよく御馳走してもらう。彼は結婚していないし博打もしないから、財布にいくばくかの余裕があるらしい。
 結婚していないかわりに、コンスタンチン・イリイッチは猫を飼っている。シベリア鉄道に揺られてきたあの猫だが、今では繁殖してかなりの大所帯になっているときく。彼の作業服には、よく灰色の柔らかい猫の毛が着いている。ひょっとするとそのせいなのかも知れないが、彼の仕草はどことなく猫に似ている。とくに今のように休息しているときなど、まだ四十代のはずなのに、どうしても見るものに老いた牝猫がまどろむさまを連想させる。
 外界の繁雑な利害などに関心がないように見えるコンスタンチン・イリイッチだが、なぜか新聞を読んでいるいまのような姿をよく見かける。読んでいるのも地方紙ではなく、プラウダかイズベスチャの全国紙が多い。これもまた一部では、シベリア収容所仲間の名誉回復や職場復帰の動向に目を凝らしているのではないかという憶測の種になっていた。
 そのコンスタンチン・イリイッチが、唐突にナターシャ・ガリエナの名を口にしたので僕は跳ね起きてしまった。
「知ってるかい。ニコライ」
 僕は平静を装って聞き返した。
「どこのですか。父姓は?」
「アレクサンドローヴナだって。町の人間らしい。おまえと同じ年だよ」
「それなら知っています。有名人でしたから」
「向こうはおまえを知ってるかな」
「きっと覚えてないでしょう。それがどうしたんです」
「いや、知り合いだったらすごいなあ、と思って」
 彼は読んでいたプラウダを僕によこした。僕は彼が指さす先の、枠に囲まれた記事を見た。

 速報

ソヴィエト空軍当局は、本日モスクワ時間午前八時、バイコヌール宇宙センターから打ち上げられ、衛星軌道を飛行する宇宙衛星船ヴォスクレセニエ1号(BOCKPECEHИE1)の搭乗者を、ナターシャ・アレクサンドローヴナ・ガリエナ空軍大尉(二十五歳)と発表した。

 写真はなかったが、そこにはガリエナの略歴が併せて記載してあった。見ればそれは、間違いなく僕の知っているナターシャ・ガリエナのことであった。
「じゃあ町のひとに間違いないんだね」
 コンスタンチン・イリイッチの顔に笑みがひろがっていく。それがどういう反応なのか一瞬分からなかったが、
「そうか、それじゃあまた酒が飲める」
 コンスタンチン・イリイッチはそのまま寝転び、新聞をふたつに折って顔の上に乗せてしまった。彼が猫のほかにもうひとつ必要とするものがあるとすれば、それは酒なのである。



 僕はすぐ立ち上がって便所に向かった。職人用仮設は便槽が一杯らしく、入り口にテープがしてあった。建物の本設の方は、配管屋が昼も休まず作業していた。結局僕は電気室のドアを開けた。ここはフョードルの持ち場だが、彼はまだ昼寝をしている。
 僕は公団貸与の腕時計で時間を確認する。ベルが鳴るまであと十五分。僕は自家発電機の隅の壁に背中をもたせた。ズボンを引き降ろし、自慰行為に及んだ。
 一連のイメージは、ウィリアム・シェイクスピアの悲劇の冒頭を詠唱する少女の声に導入される。すぐ目の前にある、金の産毛につつまれた二本の白い脚は、十六歳のナターシャ・ガリエナのものだった。赤い腕章と僕の手にあたる彼女の靴先の感触。
 発射は早かった。僕はその場にあったラス(手拭い・ぼろきれ)で、手ばやく出されたものを拭い取ると、ズボンを上げてベルトを締めなおした。始めてから今まで、その間は五分に充たなかった。
 僕はラスをポケットにねじ込み、ドアに向かった。そこへいきなりフョードルが現れた。どうやら僕がここへ入るところを見てやってきたのだろう。蛇というあだ名のこの男は、作業ズボンのポケットに手を入れ肩をふりながら近づき、僕の顔を見る。
「ここで何してんだ。ニコライ・ラザノフ」
 僕は答えなかった。フョードルはひくひくと小鼻を動かしたかと思うとズバリと言った。
「何か栗の花クサいぞ。お前、さてはコイてたんじゃねえか」
 ジロジロと僕の全身を見回す。僕は呆れたというように唇で笑った。余裕はあった。蛇とよばれるフョードルだが、今日の直感はさほど驚くにあたらない。ペトロイワノフスク市から来ている弱電制御屋が、自慢たっぷりに妙な写真の束を持ち込んでから、それを各自で活用するのが最近ここではちょっとした流行をみている。「栗の花臭」というのも、本当に鼻を利かせたのではなく、カマをかけているだけだと思う。
「朝やった端子の締め込みが心配になっただけだよ」
 僕は該当の箇所を指さした。フョードルは首をひねり、
「何かいいのが入ったんなら俺にもまわせよ」と下唇を突き出した。
「ない」
 僕は言い捨ててドアを出た。日差しの中で溜息をついた。そのまま建物の外壁にもたれて座り込んだ。
 煙草を取り出してくわえ火を点けた。僕は手をかざして青空を見上げた。
 空というやつは、ときどき思っている以上、びっくりするほど青いときがある。青色は下へいくほど深く、上へいくほど白んでいく。
 イルティシ河の対岸は、地平線までの穀倉地帯になっている。視野の右隅の一角にペトロイワノフスク市の工業団地が見える。僕は空の中にナターシャ・ガリエナの宇宙船を探した。たしかわが国の人工衛星船は、地球を一周するのにわずか八十数分しか所要しない。この北の地平線から現れて、南の地平線に沈んでいくまでの時間は、見当もつかないが、まあ十秒くらいか。見える大きさは米粒に満たないのだったか、あるいはそもそも肉眼では見えないのだったか。
 もちろん見つかるはずもなかった。



 ナターシャ・ガリエナが空軍に入ってパイロットの卵になったまでは知っていたが、さしずめツポレフの紅一点爆撃手としてチヤホヤされているか、せいぜいミグ19あたりに乗って、無意味にマフラーなど靡かせていると思っていた。
 たしかにただものではなかったから、いつのまにか大尉に出世していたことは驚かないが、まさか宇宙飛行士とは想像もしない。祖国の人材不足が案じられるが、あるいは彼女に先立つほかの飛行士たちも、地元では同じことを言われたのだろうか。
 ここでことわっておけば、すでに祖国ソヴィエト連邦は、三年前のヴォストーク1号の成功を皮切りに、Ю・A・ガガーリン少佐をはじめとする六人の飛行士を宇宙へ送り出している。女性宇宙飛行士の誉れも、先頃、ワレンチナ・テレシコワ少尉によって先んじられた。
 そこでこれまでの飛行に比べて、今回のヴォスクレセニエ1号にはどんな新要素が盛り込まれてあるかだが、朝新聞で読んできた限りでは、僕にはよく分からなかった。単独飛行、予定距離地球三十六周、滞空ほぼ二昼夜。祖国の有人衛星打ち上げが、はやくも年中行事の一種になった感じもする。
 だが町に帰ってみると、皆そんなことはどうでもいいようだった。コンスタンチン・イリイッチの期待どおり、宇宙飛行士を輩出した興奮に町の空気はざわめいていた。
 まず事務所に帰ってみると、届けられた新聞は、粒子の粗い顔写真と予定飛行コースの簡略な図を載せていた。それはチトフ少佐のヴォストーク2号以来の見慣れた図法であり、すべての大陸と大洋、そしてほとんどの国の上空を網羅するその軌跡は、電気工として言わせてもらえば、三相交流電圧のグラフをいくつも重ね合わせたものに似ていた。
 職人相手の行きつけの飲み屋に寄った僕は、そこでも日ごろの職種の垣根をこえて大きな輪が出来ているのに驚いた。
 壁に掛けられたラジオから、宇宙船の状況を知らせる中継が流されている。僕はいったん耳を傾けてみたが、一分おきに緯度と経度が読み上げられているだけなので、そう面白いものではなかった。
 集まった人々は、まず時計が七時を回るのをきっかけに一斉に乾杯した。それからガリエナ大尉なる人物が、自分たちの知るあのナターシャであることを、改めて全会一致のもとに確認すると、それを皮切りに、各自が持ち寄ったさまざまな事実を、唾を飛ばしながら交換しはじめた。
 彼女にまつわるエピソードは面白いように次から次へと出て来て、ひとつも提供できなかったのは、一度家の猫に餌をやってから戻ってきたコンスタンチン・イリイッチくらいのものだった。積極的には話さなかった僕なども、横から語り手の記憶の曖昧な点などを補ったりした。
 そして一軒の家を建てるにも似た建築職人たちの白熱の共同作業の結果、夜の十時をまわるころには、居酒屋の酒いきれと煙草の煙の中に、ソ連邦宇宙飛行士の、次のような少女時代が浮かび上がったことになる。



 すなわちナターシャ・A・ガリエナは、この町のはずれの一軒家に住んでいたペトロイワノフスク軍管区の有力者、一昨年物故したアレクサンドル・C・ガリエン大佐の娘である。
 結婚したときA・C・ガリエンは、祖国の役に立つ男児を望んだが、生まれてきたのは女児ばかりだったので、彼は心機一転、用意していた教育プログラムをすべて見所のありそうな長女に注ぎ込むことにした。
 その甲斐あって、ナターシャはすばらしく利発で活発で、おまけに見目可愛らしい少女に育った。学校創立以来の優秀な成績は神童と呼べるほどだったが、困ったことに実際の彼女の異名は「悪たれ小娘」であった。女の子らしい遊びは一切やらず、彼女はその辺の悪童たちと一緒になって野を駆け回った。
 この「一緒になって」というのは控えめな表現で、ありていには「先頭に立って」というべきである。競走でも雪投げでも木登りでも、彼女に敵するものは周囲の男子になかった。そしてひとりだけ父親に与えられた馬に乗っていたから、誰が一群の大将かは一目瞭然であった。
 ナターシャは子分を率いて夜中にスイカ畑やニワトリ小屋を襲い、戦利品を街道で行商人に売り付けた。誰かに怪我をさせたの、屋根の上を走って瓦を落としたの、どこかの戸口で謝罪するガリエナ夫人、ないし軍服を着たガリエンその人の姿はすっかりおなじみになった。だがここで戦争の英雄ガリエンは、腰を屈めながらも不屈な目の色で「必ず祖国のお役に立つ人間にしてみせますから」と頑張り抜き、ナターシャはついに性質の根本的矯正を免れた。
 しかし、少々のことではたじろがなくなった関係者さえ青ざめる事件も起こった。身近な大人をこまらせるのに飽き足りなくなったナターシャは、モスクワから来た視学官の座る特別誂えの椅子にノコギリで切れ目を入れ、満座の中で尻餅をつかせたのである。
 この後の処置は当然密室でなされたので、それに関する話ばかりはさすがに誰も知らなかった。なにごとも事大主義のあの時代に、子どもが中央の権力者を愚弄して、将来を閉ざされずにすんだというのは信じがたいことだ。だが特別この場合、ガリエン一族のソヴィエト軍部での地位と、エリート候補を特別優遇する党の教育政策と、名望高い教育者だった校長個人の寛容が、割引きのない大人たちの政治から彼女を守ったのだとしか考えられなかった。
 だいたい以上のような、ナターシャ・ガリエナに関する重厚なメニューが出揃ったところで、最後にいつも隅の方でひとり火酒をなめている鋳物工が、珍しくぽつりぽつりと口を開き、以下のごときちょっと爽やかな口当たりのデザートをテーブルに添えた。
 ある日、彼が作業場の表で働いていると、年の頃六歳か七歳、きれいなオベベを着た、ひとりのたいそうメンコい娘があらわれた。娘はひとなつっこく、しばらく鋳物師の首にしなだれついたりしていたが、ふと鋳物師がヤットコで挟んでいる真っ赤に焼けた鋳鉄の前にしゃがみこんだ。そしてそのメンコい娘が言うことには、「おじさん、あたしに5ルーブルくれたら、それをペロリってなめてあげる」。鋳物師はあまりに不思議な気がしたので、ついついポケットから、なけなしの5ルーブル札を出して手渡してしまった。すると娘はニッコリ笑い、その5ルーブル札を舌でペロリっとなめると、「さよなら」と言って走り去ってしまった。あとで聞けばそれが悪たれナターシュカだった。
 笑いの輪はじわじわとひろがった。
 ちょうどそれが潮となり、店主はラジオを消し、職人たちはドヤドヤと席を立った。僕は、気がつけばひとり鼾をかいているコンスタンチン・イリイッチを揺り起こした。
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ナターシャ・ガリエナの帰還2

2

 居酒屋から帰る途中、家並みが途切れたところに三人の百姓が集まっていた。彼らは正しくはコルホーズ職員とか農業細胞同志とかいうのだが、誰もそんなふうには呼んでいない。
 みな年の頃は初老といった感じで、中におばさんがひとり混じっている。おじさんのひとりは僕も居酒屋で見かけたことがあった。むかしカザフの方で農薬散布機の操縦士をしており、たしか今はトラクターの整備をしていると言っていた。
 僕は立ち止まって、彼ら三人の見ている方向に目を向けた。
 それはたしかに奇妙な眺めだった。穀倉地帯の間の細い道を、ライトを煌々と点した軍用トラックが三台ばかりうろうろしている。僕は彼らの間に混ざるともなく混ざり、会話に耳を傾けた。
元操縦士のおじさんがトラックを指さす。
「驚いた。空軍のトラックだわい。つけているマークに羽根が生えとるだろ。空軍がここらに何の用じゃ」
おばさんは、僕の知らない方のおじさんの顔を見上げた。
「ねえ、あんた、まさか空からあのナターシャが降ってくるんじゃなかろうね」
「それは明後日の朝だし、ここでもなかろうが」
「いや、わからんて。空で急にエンジンがくすぶりだして、しょうことなしに、勝手の分かったこの辺へ降りようという気になるかもしれん。飛んでいればようそんなこともあるんじゃ」
そう言ったのは元操縦士のおじさんである。おばさんは得心したらしく、足を横に開き腰に手を当てた。
「ああ、そうだ、あたしには全部わかったよ。あの小娘はまた性懲りもなく、うちの作物を台なしにするつもりなんだ」
 僕は黙ってその場を立ち去った。

 他愛もない会話だったが、家に帰って服を着替えても、それはずっと僕の頭を離れず、僕はついつい窓から見える麦畑を眺めていた。
 この麦畑にナターシャ・ガリエナが降りてくるか。何とも無茶をおっしゃる。宇宙衛星船は農業用の複葉機とは違う。空軍のトラックは、おそらく将軍が落とした財布でも探していたのだろう。
 そうとは分かっていても、月夜に白いパラシュートを引いて目の前に降りてくるヴォスクレセニエ1号の幻影がちらついて、僕はなかなか窓辺を離れかねた。
 ナターシャか。
 それにしても今宵はかなりの見ものであった。彼女のことを一番知っているはずの同年配の男たちは、ふだん「じじいは手が遅い」などと威勢がいい割に、今日の居酒屋ではみな一様に口が重かった。それはそうだろう。「悪たれ小娘」などと大人が笑うナターシャは、しかし等身大からみたときには、なかなか恐るべき専制君主であったのだから。




 僕がものごころついたとき、まだあの大祖国戦争は継続されていた。とはいえファシストもこんな東までは攻めてこなかったし、赤軍の猛反撃はすでにドストエル河まで前線を押し返していたので、町の様子はのどかなものだった。
 そののどかな町をわがもの顔で駆け回るナターシャは、なんと敏捷で、なんと目端の利く娘だったか。彼女がはじめた遊びは、プロペラ飛行機であれ、チェスであれ、スイカ畑への泥棒遠征であれ、何でもたちまち地域の「子ども共同体」を席巻した。たまに彼女の愛馬ブツェファルスにおそるおそる乗せてもらうのは、その共同体における最高の栄誉であった。
 かくいう僕は、実は共同体のはっきり外部にいたので、彼らの活動の実態についてはあまり立ち入って知らない。彼らが騒いでいるときにも、たいてい僕はひとりで本を読んでいたのだ。そんな僕の毎日が明るいはずはなかったが、その頃の校長先生の教育方針で、そういう立場の子どもにも、なかなか手厚い保護が加えられており、十分その位置での生存は可能だったのだ。
 ともかく、彼らを横から盗み見るだけだった僕にさえ、ナターシャは神秘の存在だった。何であれ、彼女の意志決定の無造作さは信じがたいほどだった。集団の意志とは権力者の意志であり、それはたえず彼女の頭上近くを浮遊していて、必要があれば手品のように取り出される。そしてそれがひとたび下に投げ渡されるや、今度は強固な拘束具となって人間の運命を決めてしまう。
 ひとつ、間近で見てはっきり覚えていることがある。
 わが町の子どもたちと、隣の地域との雪合戦は毎年の恒例になっていた。隣の地域と簡単にいっても、敵は精強な炭田労働者の子どもたちだ。彼らは何所帯もが犇めいて暮らすせいか、個々のしぶとさでも団結でも、町の子とは比較にならなかった。僕たちの年代の頃に彼我の格差は特にはげしく、休戦の条件をいれて僕らは彼らに朝貢していた。そう、この抗争史の舞台にナターシャが登場して、再び戦端を開くまでは。
 ある時点からナターシャは、もはや自ら雪玉を握らず、もっぱら馬上から軍勢を叱咤するようになった。まさかオヤツがわりに戦術書を読み聞かされて育ったわけでもないだろうが、彼女の指揮は相当ふるっていたらしい。すでに述べたような事情で詳しいことは知らないのだが、隘路がどうとか、後方撹乱がどうとか、雪で全身を真っ白にした兵士たちが嬉しそうに語っていたからには、彼女の軍配のもと、いつしか互角の勝負に持ち込めるようになっていたと思われる。
 問題のその日の勝敗がどうだったか僕は知らない。ともかく一戦が終わったあと、馬上の将軍と兵士一同の前に、二人のうなだれた兵士が引き出された。具体名をあげれば、理容師のところのウラジミールとコルホーズ会計員のところのミハイルである。
 検事役の少年が「勇敢を欠いた」だの「注意を怠った」だの罪状を並べたて、むごいことに弁護人なるものはいなかった。そして馬上の裁判官は荘重に判決を宣告した。
「被告両名が作戦を意義・意図を理解していなかったはずはなく、これを反革命的サボタージュ・利敵行為と見なす。十メートル、二十発」
 判決どおりの数の雪玉が丸められ、それが号令一下、全員によって判決どおりの距離から投じられた。
 壁を背にした二人の少年の全身は、汚れた上からさらに点々と白く汚れていった。二人は直立したまま聖セバスティアヌスのような表情でそれに耐えていた。馬上の少女はすでに関心を失ったように、後ろにまとめた金髪を雪風に流しつつ、目を細めてどこか遠くを見つめていた。
 そのとき以来僕は怖じけを震って、あぜ道の向こうからブツェファルスの蹄の音が聞こえるとすぐ針路を変えることにした。
 このように、垣間みえる彼女はたしかに専制君主そのものであった。しかし常識で考えて、女王はたぶん臣民に分け前も振る舞ったし、適宜にねぎらいも垂れたのだろう。だが僕が住むにすれば、やはりそこは野蛮な女神の支配するあまりに野蛮な国だった。このロシアの地において正教会による教化以前、われらスラブ民族未開土俗の様相とはかようなものだったかと、僕は生意気に腕組みをしながら思ったりした。





 多くの男子が子ども時代を捧げ尽くすこの「子ども共同体」も、その性質上、成員が十五やその前後になると、自然に解体する運命にある。その後のナターシャ・ガリエナがどうなったかは、他人より僕のほうがよく知っている。同じ年に中学を出た僕と彼女は、同じペトロイワノフスクの技術学校へ行ったからである。
 同じといっても就学の形態はまったく違う。彼女はペトロイワノフスク市内の同校の寮に住み込み全日制課程で機械工学をまなび、僕はこの町の電工設備公団に就職しながら、原則的に仕事が終わったあとバスで駆けつけ、夜間部の電気科の授業を受けたからである。
 ナターシャの変貌ぶりは見事であった。彼女はかつての悪さをぴったりやめ、エリートの上昇コースをわき目もふらずに進みはじめた。見た目にも馬上の日焼けしたガキ大将から、すっきりと小綺麗な娘になって、十字の帯に本をくくって颯爽とペトロイワノフスク郊外の緑豊かな学園を闊歩した。
 彼女はすぐにそこでも頭角を表し、優等生の令名は夜間部にまで聞こえた。かつて馬鹿にしていたコムソモール(青年共産同盟)のリーダーになったのをはじめとして、大人に認められるような文脈の中で、彼女は朋輩の上に立つようになった。スポーツはバスケット・ボールをやっており、これもかなりの選手だったようだ。
 そして休暇などで町に帰ったときでさえ、彼女はもうかつての彼女ではなかった。公共道徳を守り、町ですれ違う人には笑顔で挨拶をし、馬に乗るときでも、きちんとした馬具に乗馬服のお嬢さん乗りで、決して人が通る道を疾駆したりはしなかった。そうなるともちろんかつての悪童仲間のごときは寄りつけず、ここに過去はすっかり清算されたと見えた。
 おそらく、それからの彼女は学生として市民として模範的な生活を送った、と手記(そんなものが発表されるとして)には書かれるだろう。それで大筋は正しいのだろうが、それでも僕は、依然彼女の中に、強者を志向する一方、劣るとみなした相手は嘲ってはばからない野蛮な人格があったことを指摘することができる。
 それについて述べるにあたって、ここで僕は少し時間をとることにする。僕は今まで立っていた窓辺を離れ、ベッドに身を横たえた。寝まきのズボンの紐を解き、昼間の電気室の続きをする用意を整える。ベッドの下に、便所紙をためておいた紙箱を抜かりなく置いて、これで取り合えず準備は出来た。
 僕は目を閉じると、右手をしかるべきところへ持っていった。





 それは六月のことだった。僕はその前日、宿題に必要な図書を持ち帰るのを忘れていたために、その日は早めに仕事を上がって、ふだんより一時間半ほど早く登校した。さっそく自分の教室へ入ってみて、僕は驚いた。
 どういう都合でか、机がすべて教室の前に寄せられ舞台のようになっていたからである。椅子は教室中に二三個しか見当たらない。すぐに僕は合点がいった。全日制の学芸祭が近いのである。この学校で、夜間部は淡々と資格にむすびつく日々の授業をこなすだけだが、全日制の方には、文科系の学校に決して劣らない数の文化的行事が用意されていた。どこか劇をやるクラスが、校具をこういう配置にして、その練習をしていたものらしい。舞台の上には、そういえば大道具とおぼしきハリボテの岩がいくつか乗っている。
 ここで僕たちの授業が始まる前に、全日制の生徒たちが来て旧状に戻すのか、それとも僕たちが教室を移動するのか。とにかく僕は、机の密集状態と格闘しながら、首尾よく自分の机から必要な本を取り出し、さてこれからどうしたものかと思案した。
 まず両隣の教室にあたったが施錠されている。図書室は遠いうえに、もともと僕はあの雰囲気で勉強するのが得意でない。結局僕は教室の隅に転がっている椅子を取り、舞台の際まで持っていって、そこで宿題をやることにした。
 僕が電力量計算の課題に精を出しはじめて一時間も経った頃だったか。全日制の生徒はまだ片付けに現れない、などと思っていると急にドアが開いた。そこには全日制の三人の女生徒が立っていた。
 全日制で今年制定されたばかりの青い制服がまぶしかった。三人とも、成績優秀の証でもあるコムソモール執行委員の赤い腕章をつけており、そして三人とも発育がよく上背があった。その真ん中にいた娘こそ、僕が昔から知るあのナターシャ・ガリエナであった。そのときの僕の緊張は手汗となって表れ、丁度めくろうとしていたノートのページの角をよれよれにするに十分だった。
 三人は中に入ってきた。三人はそれぞれ教室を見回していたが、やがてナターシャではないひとりの娘が僕に向かって言った。
「教室、隣に移動みたいよ」
 隣の教室は鍵が掛かっている、と僕はどもりながら答えたように思う。
「それじゃあ、今日はこれ、もう動かさないから、そのまま勉強してたら」
 僕はうなずいて宿題の続きに取りかかる姿勢に戻った。戻りはしたが、三人がそこから動かない限り、電力量計算など手につかないことは自分で分かっていた。僕は彼女たちが立ち去るのを背中で待ったが、聞こえてきたのは逆に近づいて来る足音であった。
 僕のすぐ脇に立ったのはナターシャであった。
 彼女は僕にかからないよう、片手で髪をかき揚げながら、やや屈みこんで僕が舞台の上に広げているものの内容を見た。彼女の顔にはどんな表情も浮かんではいなかった。
 やがて身を起こした彼女は、つと舞台に片手をつくと、そのままバスケットボール選手のすばらしい跳躍力をもって、ひらりとその上に跳び乗った。
 ナターシャは近くにあったハリボテの岩を蹴って、それを僕の目の前まで寄せて来た。そして正面に回ると、スカートの裾を両手でたくし込みながら、ゆっくりと岩の上に座った。僕の手元が陰った。すぐ目の前に彼女のスカートの裾があって、そこからすんなりした脚が伸びている。彼女の黒く光る靴先は、ほとんど僕のノートを踏まんばかりであった。僕は鼻先に、今まで嗅いだこともない風を感じた。
 僕は抗議のかわりに首をねじって壁の時計をみた。もうはっきり夜間部に属する時間帯である。
 しかしナターシャはまるで気にする様子を見せなかった。かわりにほんの少しだけ、僕の目の前にある脚をぶらぶら揺らせた。彼女は上から僕の目を覗くように見ながら、うっすらした笑いを浮かべていた。
 誰も何も言わなかった。
 どれくらいたったろうか。やがて横手の方で、ごとりと音がした。僕は視野の端に、もうひとりのコムソモール委員が舞台に上がったのを認めた。彼女もまた別の岩を蹴り寄せ、ナターシャの手前斜め右、つまり僕が拡げている教材のすぐ右にそれを据えると、ナターシャと同様そこに座った。
 わずかに時間を置いて、三人目、いましがた僕と短い会話を交わしたあの娘が、今度は左から舞台に上がった。彼女は第三の岩に足を掛けると、先の二人の動作にならって、僕の左側にぴったりとつけた。
 気がつけば三人の娘の六本の脚が、僕を檻のように取り囲む格好になっていた。やはり誰も何も言わなかった。三人目の娘だけがほんの少し含み笑いのような声を漏らした。
 僕は一度だけ三人を振り仰いで見渡し、そのまま参考図書に目を落とした。便利な言葉を使わせてもらえば、僕は完全に見竦められてしまったのである。すっかり陰に置かれた小さな文字を読み取るため、読み取っているふりをするため、僕は机に顔を近づけねばならなかった。三人の女子学生の靴の先が二十センチにも満たない距離に迫った。
 僕はできるなら、自分のノートを隠したかった。急いで連ねられた汚い字や、積分計算にともなう初歩的な手続きのために、耳が真っ赤になるのを感じた。だいいちいま取り組んでいる主題自体も、彼女たちからしてみれば児戯の類であるかも知れなかった。
 はたしてナターシャは言った。
「Плoхoй Пoчepk(プローホイ ポチェルク・汚い字)」
 そして彼女の靴がひょいと上がって、僕が鉛筆を持つ手を軽く蹴った。僕の書いていた字は中断され、そこからノートの端までを野放図な太い弧が横切った。
 僕は今度こそムッとなった顔をつくって、正面に座る女を見た。左右の娘たちは含み笑いしたのに、当のナターシャ・ガリエナは、たまたまとでもいいたげな涼しい顔をつくっていた。
 そのときの彼女の顔ほど憎々しく、そのときの彼女の顔ほど美しいものを、僕は後にも先にも見たことがない。0
 ナターシャは、もう一度同じように足を上げ、再び僕の手を軽く蹴った。そしてそれと同時に、僕の頭越し、どこか教室の中央の方に向かって、澄んだ通る声で、何か呪文のような不思議な言葉を発した。
 後になって分かったことには、それは次のようなもので、まさしく呪文に等しいものだった。

“When shall three meet again?
In thunder,lightning,or in rain?"

 本当にまったく自然に、第二の娘が、やはり軽く僕の手を蹴り、新たな呪文を発声した。

“When the hurlyburlys'done,
When the battle's lost and won."

 そして三人目の少女がどうしたか、もう説明はいらないと思う。

“That will be ere the set of sun."

  いま僕のベッドの下にある、もう暗記してしまったその本によるなら、それ以下に続いた台詞は、次のようなものだったと推定される。

1Witch. Where the place?

2Witch. Upon the heath.

3Witch. There to meet with Macbeth.

1Witch. I come,Graymalkin!

2Witch. Paddock calls.

3Witch. Anon!

All. Fair is foul, and foul is fair:

Hover through the fog and filthy air.


 三人の娘たちはその台詞にあわせて、僕の手をコツッ、コツッと順番に蹴り続けた。そのたび、少女たちの体臭を含んだ風がまきおこって僕の鼻に絡みついた。最後の台詞では、もちろん三人が同時に足を出したのである。僕は動けず、声も立てられず、最後まで三人の魔女たちから、愛撫のように軽い足蹴を受けつづけた。
 最後の台詞が終わると、教室のベルがまるで計ったかのごとく鳴りわたり、一番鶏の声を聞いた三人の魔女たちはたちまち姿を消した。
 僕はその日、そのベルから十分後に始まる大事な授業に出席することが出来なかった。一時間半も早く来ておいて、授業にさえ出られないということが、その日校門をくぐったときどうして想像できただろう。
 それからほどなくして、全日制の「学芸祭演目一覧」という紙を見ていた僕は、「機械工学Б」というクラスの出し物が『マクベス』になっているのを知ったけれども、いそいそと対訳本を購入した以外には何もしなかった。
 つまり僕と宇宙飛行士ナターシャ・ガリエナとの直接の接点は、それだけ、本当にそれだけなのである。





 いま僕の個人的な運動も首尾よく目的を達した。
 僕は虚脱感の中でごそごそと身動きし、ひとつ困ったことに気がついた。紙箱の中に貯えておいた紙が、じつはもう品切れになっていたのである。この一点をおろそかにして、準備などとはとても言えたものではない。
 僕はしかたなく昼間電気室で使ったあのラスを、また使うことにした。汚い話だが、僕はその存在を昼から今まで忘れていたのである。横になったまま、ハンガーにかかるズボンのポケットからラスを引きずり出し、新しい面へと折り返す。
 そのとき、僕は意外なことを発見した。そこに何とフョードルの名前が書いてあるのだ。僕は舌打ちした。ラスにまで名前を書くとは、おかしなところでマメな男よ。
 その名前をじっと見ているうちに、僕はやや不安になってきた。
 あの後フョードルは、これがなくなっているのに気づいて、新たに不審を募らせなかっただろうか。
 あのときの状況を思い返してみる。やはり心配する必要はなさそうだった。僕は少し悪いとは思いながら、手の放せない用事のためにそのラスを使うと、ズボンを上げ、用を終えた布切れを焼却炉へ運ぶ紙袋に押し込んだ。
 フョードルよ。お前は僕の嘘を信じただろうか。たぶん信じたんだね。でなければ蛇があの程度の追及ですますものか。まったく、いかにしつこい邪推が売りもののフョードルでも本気では考えまい。ふだん君子とか木石とか呼ばれている僕が、昼間から自慰に励んでいようとは。
 あるいは蛇はもっと深い執念を秘めているのかも知れない。すなわち素知らぬふりで僕を泳がせておいて、いつか僕の猥写真コレクションを一網打尽に奪い、同時に気取った仮面を剥いでくれよう、というような。
 何にせよフョードルは徒労だけを得る。あれほど急に用を足すことはもうない(忘れたころにまた突然ナターシャが月にでも立つのでないかぎり)し、コレクションなどはじめから存在しないからだ。
 猥写真コレクション。僕は苦笑したくなってしまう。
 あの連中が弄ぶ写真の一枚を、前に僕も横からのぞいたことがある。そのとき先輩の職人に、見たいのならこっちへ来てちゃんと見ろと叱られた。僕の興味は単なるもの珍しさでしかない、といっても信じてもらえたとは思えない。おそらく彼らには永久に分からないのである。世の中には即物的な人間と、観念的な人間がいるということが。
 しかし、こう言ったからといって、どうか僕が得意になっているなどと思わないでほしい。ここで僕は恥をしのんで白状しておく。どうも僕は、その観念の人たるほんのケチくさい優越感と引き換えに、とても大事なものを失ってしまったらしいのだ。
 それが分かるまで、振り返れば長い月日がかかった。あれから十年が経つ。学校を出て、そのまま電気工としての現在がある。
 書いてしまえばそれで終わりだが、さすがに十年もの間には、僕も人並みに近い男女交際をしたし(相手は製薬工場に勤める二つ年下の空想好きの娘だった)、仲間との付き合いで悪所にも足を運んだ。
 だが、それにもかかわらず、あの日ナターシャから与えられた以上の性的な刺激と興奮は、ついぞ僕をおとずれることがなかったのである。
 今ではその娘とも別れたし、仲間ももう僕を悪所通いに誘わない。つけられたあだ名が君子である。何を気取っているんだと本気の忠告で言われても、僕には答える言葉がない。邪魔するものは何もない。欲望のエネルギーが希薄とも思わない。それなのに、なぜ自分は人の楽しいことが楽しくないのか。
 僕は子ども時分から偏屈だったから、別に世間なみの生き方がしたいとも思わない。だがいつまでもこうしてひとりのままでいるかと思うと寂しくなる。あのフョードルですら、熱愛のすえ昨年奥さんをもらったというのに。もちろん僕には、あのコンスタンチン・イリイッチのような超俗的に自足した生き方もできそうにない。
 今の状態について考えるための手掛かり、すなわち、あの日以前の性欲のあり方がどうだったか、あるいはそもそもそんなものがあったのか、それさえもう僕には思い出せなくなっている。何も分からない中で、僕はただひとつ、いまの自分の不具だけをよく知っている。
 やはり「マクベスの魔女」の呪いは本物だったのか。ときどきいたたまれなくなってつぶやくことがある。ああ、造化の神よ、ルイセンコ博士よ、ミチューリン博士よ、教えてください。僕の生物的基盤はどうなってしまったのでしょう。

ナターシャ・ガリエナの帰還3

3

 朝になってラジオをつけたら、宇宙衛星船ヴォスクレセニエ1号は、当たり前だが、涼しい顔でまだ空を飛んでいた。
 その日の現場、町の小学校につくられるプールで、僕は持ち込まれたラジオから、雑音に交じって、衛星軌道上で何か殊勝げなことを言うナターシャ・ガリエナの声を聞いた。

 …こちら春楡1…宇宙からご挨拶します…わたしの知っているみなさん…こんにちは…わたしの知らないみなさん…はじめまして…

 間髪いれずに校舎の方から、「こんにちはー」と声を合わせて呼応する小学生の声が響いた。
 夕方に仕事を終え、事務所で日報を書いて家に戻ると、朝にはまだ頑張っていた空軍のトラックももういなかった。
 結局その夜の明け方に、ナターシャ・ガリエナの船は、予定どおり地球を三十六回まわったあと、ここから千と百キロ北東、ロシア共和国の西シベリア低地北部、オビ河下流域に近い地点に着陸した。
 ソ連邦空軍がこれを回収したのは、ここの時間で昼の一時十五分。搭乗者のガリエナ大尉は、この後に精密検査を控えるものの、いまのところ無事で体調もきわめて良好。
 この報がラジオから流れたとき、町のいたるところで拍手が上がった。
 夕刻になると、ラジオは党幹部の長い演説のあとに、ガリエナの今後の日程に触れた。
 まず大尉は、モスクワで国家の指導者にまみえたあと、同市とレニングラード市で市民・労働者の歓待を受け、ついでブカレスト、ソフィアの盟邦各都市を歴訪する。それから彼女は、かつてその地に学んだことのあるオレンブルグならびにペトロイワノフスクでオープンカーに乗って目抜き通りをパレードし、その後ようやく故郷の人々と喜びを分かちあい、生家でしばしの休息を許される。
 たちまち町中が浮き立った。二週間後のガリエナ凱旋にむけて、歓迎委員会と顕彰委員会が組織され、地区書記局が、当日は学校も職場も休業し、挙町一致の歓迎にこれつとめるべし、との特別条例を発布した。
 町の広場には、巨大な日めくりカレンダーが立てられ、怠け者の職人・工員たちを急きたてにかかった。同じ広場に、宇宙船をかたどったハリボテの土台も据えられた。あちこちでこれから垂れ幕にする反物が道路に広げられ、役所の建物の屋上では長らく眠っていた旗が埃を払われた。
 合同ピオニールの吹奏楽隊が猛練習を開始し、町は朝から晩まで、宇宙飛行士を讃える歌・「われわれはおとぎ話を実現する」だの「ツィオルコフスキー頌」だのの断片的な演奏ばかり、いやというほど聞かされた。
 こういうときのためによく訓練されているはずの労働行進隊は、勘を取り戻すためといっては、わざわざ交通規制までして町をねり歩き、町を出たら出たで、ランニングシャツ姿のコルホーズ青年団が、休耕中の麦畑で、野太い号令を発しながら一列になってぐるぐる回っていた。



 僕たち電気工も例に漏れず、ガリエナ歓迎にむけて動員された。しかしそれが僕らの本分に則ったものだったのは幸せである。何やらおどろおどろしい話もあったようだが、僕らの上司のミハイル・フョードロヴィッチが防波堤となって堰きとめてくれたらしい。
 僕は包装紙工場をまわらされ、新しい機械に電源を送る工事に携わった。機械は三台あって、そのうち一台は宇宙船をかたどった風船をつくるものらしい。風船などよそでつくって、萎んだまま持ってくればよさそうなものだが、ひょっとするとここのエラいさんたちは、このヴォスクレセニエ風船を町の物産として、末長く商売するつもりかも知れない。
 最近の僕の相棒は、十六歳の見習い工ミーチャである。
 ミーチャは、かつて宇宙飛行士を目指していた。ことによるとまだ目指しているのかも知れない。上級中学校の試験に撥ねられたのは吃音のせいで、まだ挽回するチャンスがあると頑なに思っている様子だ。それを補償する意味でか、とても上手で丁寧な字を書くが、ほかに特別な取り柄といっては、僕からいえば目下探しているところだ。
 だがミーチャが現実から目をそむけているにしても、それもある意味無理のないことだと僕は思う。ヴォストーク1号の成功このかた、連邦中どこの職場のコムソモールでも、どの学校のピオニールでも、ガガーリン少佐の手記の朗読会が開かれなかったところは、おそらくひとつとしてない。
 僕らの少年の頃の英雄といえば、もちろんファシストと勇敢に戦った軍人であった。戦争が起こるかぎり、敵と戦う兵隊には誰でもなれるが、実際に宇宙を飛べるのはたぶん一万人にひとりぐらいだろう。残りの者には、多かれ少なかれ挫折を味わう結末が待っている。
 まったく、この国のバカな大人どもは、上から下まで、よってたかって太鼓を叩きまわり、空の一点ばかりを指さす。的に届かなかった矢たちの悲しみをどう回収するか何も考えずに。ミーチャは、自分が大人たちに失望を仕組まれたということにまだ気づいていない。あれだけ夢を掻き立てられた以上、求められているのはさらなる努力だとまだ信じている。
 ミーチャはいまナターシャ・ガリエナの話に夢中にである。
 一週間も二人で現場を回れば、さすがに話も出尽くしたというのに、反芻したいのかまだ聞いてくる。子どもは新たなお話ではなく、むしろすでに何度も聞いたお話の方をせがむ、と誰かが言っていたが、僕は何だか語り部の媼(おうな)のような気になってきた。
 だが僕は根気よく何度でも話した。話の内容も、他の職人にくらべて僕が一番豊富だとミーチャはいった。僕は彼に何でも話した。ただひとつの事柄を除いては。





 ガリエナ凱旋の日が迫るにつれ、町は過熱していった。
 まず、あんまり大勢の人間に押しかけられたナターシャの母親リュドミラ・イワーノヴナが本当に熱を発した。当局の意を受けた医師は入院をすすめたが、本人が、大事な鉢植えを人任せにできるか、本当にあの子は苦労ばかりさせる、といったので、結局隣に家のない彼女の家の四方何十メートルかにロープが渡され、応援にきた空軍兵士が警戒にあたることになった。
 歓迎委員会の日刊会報は、口から泡を飛ばすがごとき勢いで、そのくせどこかこじつけがましく、今回の飛行の新たな意義を強調しはじめる。

 十月革命から閲すること四十年、大祖国戦争に独裁者の暴政と、我々の道は決して平坦ではなかった。だが血の滲むような研鑽の果て、人民の科学と技術と教育の成果は、ついに資本主義をはるかに抜き去り(もはや振り返って気にする必要がないほどに)、ここに人類史は新たなる段階へと移行した。いま祖国において完全に軌道に乗ったのは、社会最先端における女性の能動的参画である。かたや因循な米帝を見よ。ことここに及んでも、女性宇宙飛行士の意義すら理解できず、当然その方法論も持ち合わせない。敬愛すべきウラジミール・イリイッチの言のとおり、反動的家父長制と資本主義とは、同じ病理におけるコインの裏表にすぎない。その支配主体は女性という対象を抑圧するつもりで、実は全体を抑圧しているのに気づいていない。今後、双発機である祖国・盟邦と、単発機である資本主義側との各差はひろがる一方であろう。


 発行部数三千だかのこんな紙切れに、きっぱり引導を渡されたアメリカこそいい面の皮だった。
 ラジオは行脚中のガリエナの足取りを逐一伝え、町のお偉方はその各都市の出方を子細に研究して、「英雄歓迎における郷土独自性の模索」などという会議を開いた。彼女をむかえる広場に面する建物の壁は、洗剤をつけたブラシでいっせいに磨かれ、所有者のいない老朽建築を取り壊すために、バカでかい鉄球を吊り下げたキャタピラ車が町をのし歩いた。
 十代の若者の間では、若く美しい故郷の英雄ナターシャ・アレクサンドローヴナに対する賛仰が危険の域に達していた。彼らは寄り集まると、作詞作曲者不祥の「英雄ナターシャの歌」をところかまわず放吟し、道路やバス停で、彼女の写真を奪い合うように回覧し、お調子者の一団が腕に「宇宙飛行士ナターシャ」の入れ墨を彫りはじめたといっては、この慌ただしいなか、また緊急対策会議が開かれたりした。
 そしてガリエナ凱旋まであと三日を数えるのみとなったとき、驚くべきか、やはりというべきか、ついに無謬のはずの歴史を改竄しようというおおらかな若者さえ現れた。
 僕が例の居酒屋にいたときである。隣のテーブルにいた見慣れない若い兵士の一団の中から、ひとりのまだ十代とおぼしき少年が、荒っぽく椅子の音をさせて立ち上がった。
「同志諸君、聞いてくれ、いま俺はみんなに言わずにいられない」
 そして彼は、仲間の兵士が打つ相槌に後押しされて、歴史的な時間に立ち会うことへの思いのたけを熱烈に語りはじめた。中身は町に溢れる言説のかわりばえのしない変奏曲だったが、ひとつだけ独創的なフレーズが混じっていた。
「この土地から最初に宇宙へと飛躍した女性が現れたという事実が」
 というものである。
 同じ意味の言葉が出た三回目に、僕はつい口を挟んでしまった。僕の方でもかなり酒が入っていた。
「待ってくれ。それは間違いだ。人類最初の女性宇宙飛行士は、ワレンチナ・ウラジミーロヴナ・テレシコワ少尉だ」
 言わずもがなの皮肉が続いて出て来るのが僕の悪い癖だ。
「それともあの人もここの生まれだったかな」
 少年兵はますます勢い込んだ。
「紡績女工あがりのにわか少尉だろう。あれは祖国の宇宙船ならばそこらへんの女でも乗れるという技術上の示威だ。その点ナターシャ・アレクサンドローヴナは生粋の空軍テストパイロットだ。そこからしても二人の任務の軽重は推し量れる。真の女性飛行士の名に値するのが誰かは明らかだ」
 若いのになかなか理論武装していると思ったら、彼はすぐ尻尾を出したようだ。
「その重責のぶんだけ、ナターシャ・アレクサンドローヴナは、テレシコワより美しい」
 僕はすかさず言った。
「兵隊同志。それは個人崇拝だ。われわれが克服したはずの危険な傾向だ」
 まさに危険な傾向だった。僕が言い終わらないうちに、まっしぐらに走って来た彼の握りこぶしが僕の顔に飛んできた。僕は椅子ごと後ろへひっくり返った。



ナターシャ・ガリエナの帰還4

4

 殴られた僕は、次の日、目の縁が腫れて熱が出た。僕は診断書をもらって仕事も休み、その次の日、つまりナターシャ・ガリエナの凱旋する当日もずっと家にいた。
 本来、歓迎式典への参加は職場単位で強制的に行われ、当局から式の前後に何らかの雑役を課せられる。
 参加しなければ、僕はそれを忌避したと言われるかも知れない。だいたい怪我した僕に同情する空気が薄いことは、行かなくても分かる。フョードルなら、あいつはふだん屁理屈ばかり言っているから、いつかこんなことになると思っていた、ぐらいのことは言うだろう。
 本当を言えば行けなくもない体調だった。正直な話、英雄ナターシャ・ガリエナ大尉の姿を見てみたくはあった。だが、僕が思うに、パレード・式典というやつは、あれでけっこう警戒に値する。それが下らないものの周りを回っていても、仰々しい道具だてでつい体が上ずってしまう。
 いろいろ秤にかけ、結局僕は行かなかった。
 そんなわけで、その日、この町で何がどうなったか、僕は夕方を過ぎて帰ってきた両親から聞いた。
 なんでも、朝から、ほかの町からもたくさんの人と車が押し寄せたらしい。饅頭やらジュースやら花輪やらを売る露店も登場した。子どもはみな手に手に、水素ガスを吹き込まれた、あのヴォスクレセニエ風船を持っていたらしい。
 式典そのものは空軍ジェット機の表敬飛行で幕を上げた。
 広場の群衆の中で待っていた両親の前に、合同ピオニールの鼓笛隊を先頭にして、いくつもいくつもの団体が行進してすぎた。
 やがてひときわ旗の動きと歓声が高まったかと思うと、騎馬警官と軍のサイドカーに護衛されたジルのオープンカーが現れた。その中に立つナターシャ・ガリエナ大尉はまばゆいばかりだった。空軍士官の婦人用軍服を着て、胸に金の勲章を佩用していた。
 車が広場の真ん中で止まると、割れんばかりの拍手の中、彼女は空軍儀杖兵とともに壇上にあがった。
 お決まりの国旗掲揚と国歌吹奏。
 そのあとまずマイクの前に立ったのは党書記であった。この男は昔のナターシャを知らないせいか、言うことはただひたすら無邪気だった。演説にともなう躍動は激しく、見えない交響楽団を指揮しているようだった。父の評によれば、勢いあまって、何か女衒の売り込みのようなことを言っていたらしい。
 見るがいい。郷土の大地と共産主義に育まれたこの女性の、のびやかな若さと美しさを。何ぴとがこれを否定できるか。いまこの場にリンドン・ジョンソンを連れてくるがいい。誰であれ階級の敵を連れてくるがいい。もしそれを否定できるものなら否定してみるがいいのだ。これこそはわれらの揺るがぬ勝利の証左であり、象徴である。彼女はこのさき宇宙時代の人類の指導者のひとりにさえなるだろう。
 それから次にもうひとり出て来たのは、僕たちの通った学校の校長である。校長といっても在校当時の校長先生ではない。先生はもう亡くなっていたので、そこにいるのは現校長、つまり一刻もはやくナターシャを放り出そうとした当時の副校長であったという、見る人が見ればいかにも皮肉なことになった。
 壇上の彼は、人がおやと思うほど背が低く、教育者というよりは、神経質そうに鋏を鳴らす列車の車掌にみえる男で、世間の噂もなるほどと思わせるところだった。しかし彼が自分でマイク立てを低く調整してからはじめたその話は、終わってみれば意外に捨てたものではなかった。

 ナターシャ・アレクサンドローヴナ。
 私は思い出す。いや、思い出すまでもなく、忘れたことは一度としてない。本当に、君という生徒は、何たる「おハネ」であったか。君が何かやらかすたびに私の髪の色は目に見えて白くなった。これを誇張とお思いの向きがあれば、私はそれを証明する写真を持ってくるのに吝かではない。
 私はそんな君の庇護者では決してなかった。君を庇護したのは、今は亡きピョートル・ペトロヴィッチ・ミトシェンコであった。私は彼の代理でここにいるにすぎない。したがって私が君のことを誇りにするなどと言えた義理ではない。今でも私は自分の立場が正しかったことを疑うものではない。
 しかしこれだけは本当だが、いま立派になって帰ってきた君をみて、私は心から嬉しく思う。君のこの姿をピョートル・ペトロヴィッチに見せて上げられないことだけが、私は返す返すも残念だ。
 ナターシャ、忘れないでほしい。ピョートル・ペトロヴィッチが何という忍耐で君を見守りつづけたか。彼だけではない。当時この町に住んでいた人々のすべてが、君の乳母でありお守りであった。そして、そのことが徒労だったという者はもういないのだ。君のこれからの将来においても、どうかこの二つのことを忘れないでいてほしい。

 このあと現校長とナターシャは、互いに抱擁し頬を合わせた。これは党書記の演説の後にはなされなかった、真味溢れる二人の身振りだったらしい。その際、彼女が膝を折って腰を屈めなければならなかったのを見ても、笑うものはなかったという。
 その光景に予兆されるように、つづけて返されたナターシャの挨拶も、関係各位への感謝やら、お集まりのみなさんへのお礼やら、党や祖国への賛辞などを取り去った要諦は、現校長の言葉に対応するものだった。

 わたしの不始末の数々を、父母に免じて忍んで下さった先生はじめ多くの方々の前に立たせていただくのは、本当に面映ゆいことです。そのたび亡父は、この娘を国家のお役に立ててみせる、などと安請け合いをしてまいりましたが、その成果をいくぶんなりともご報告に上がれるこの日が来たことほど嬉しいことはありません。

 そう語る彼女の目に光るものがあったか否か、両親の意見はふたつに割れた。
 大人から子どもまでの各団体の代表が花束を贈呈したあと、式は少し変わった趣向へ移っていった。
 車椅子に乗った老婆をふたりの屈強な兵士が抱えて上がった。この人がナターシャの母親かと思った観衆も多かったようだが、そうではないことを両親は知っていた。
 老婆は震える手をナターシャの方へさし伸ばし、口を動かして何かを言ったか、もしくは言おうとした。ナターシャは車椅子のそばに屈み込んで、その枯れ枝のような手を包み、何か言葉を掛けた。
 老婆は膝掛けを落として立ち上がった。そこからよろよろと十歩以上を歩くと、階段づたいに演壇を降りかけたところで足を縺れさせ、兵士に抱き支えられて階段を降り、そのまま見えなくなってしまった。
「リウマチが直った」
 突然誰かが叫んだ一声が、波紋のように群衆の間に広がっていった。
 その模様を語る父の頬には苦笑が刻まれている。僕には父の言いたいことがよく分かる。その老婆ははじめからさして悪くなかったのかもしれないし、委員会の用意したサクラだったのかも知れないし、心理作用として説明することもできようし、たまたま直る時期が来ていたのかも知れないし、とにかくこの分別くさい父に奇跡などというものの存在を信じさせることは金輪際できない。たとえ目の前で大海が真っ二つに割れ、背中から羽根の生えた赤ん坊が飛び回っても。
 その次に壇上にあがったのは泣き叫ぶ赤ん坊を抱いた母親だった。赤ん坊はまだ新生児らしく、母親がかなり高ぶった様子で、「名前、名前」とナターシャに叫びかけるのが両親からは聞こえた。
 ナターシャが赤子を抱き取ると、赤子は急に泣きやんだ。赤子だけでなく、並みいる群衆も合図でもあったかのように静まりかえった。
 同時に、突然彼女の背後から後光のようなものが射して、一同は驚嘆の声を挙げた。帝政時代を知る古着屋のアンナばあさんなどは、持った手提げカゴをバッタと落とし、大主教でもむかえるような、昔ながらのポーズで伏し拝みだした。
 母は、そこでしばらく思案してから、今にして思えば、彼女の制帽におさまり切らなかった金色のおくれ毛が、日光に映えてでもいたのだろうけど、そのときは自分にもそう見えた、と言った。





 残り物の夕食をすませて、僕は自分の部屋へかえりベッドに座った。
 名状しがたい感情の渦が、僕の中で沸き立とうとしていた。もっぱら部屋の中を照らし返す窓ガラスを見ながら僕は考えた。
 ひとつだけ確からしいことには、どうやら本日をもって、町と悪たれナターシャ・ガリエナとは劇的に和解したらしい。
 だがしっくりしない僕の貧乏揺すりはつづく。まさか壇上のナターシャが「ニコライ・ラザノフをのぞく町のみなさん」と呼びかけたのでもない以上、彼女の語りかけた対象には当然僕も含まれていいだろう。それなのに僕の中では、少しも新しい展開をむかえたという心境がおこらないのは何故だろう。また逆に、彼女の言葉が僕を動かさないのに、なぜ町の方はたやすく動かされたのだろう。
 僕にはすぐ答えが分かった。同時に自分の指先が冷えていくのを感じた。
 何と簡単なこと。それはつまり、僕が今日の歓迎会に参加しなかったからだ。僕が得たのは単なる情報にすぎない。
 僕は壇上のナターシャが「面映ゆい」というその顔を見、「今日ほど嬉しい日はない」というその声を聞いておくべきだったのだ。現校長の熱弁に一緒になって頷き、彼とナターシャとの釣り合いの悪い抱擁を見守っておくべきだったのだ。
 僕の手が自然と拳の形に握られていった。
 さらに、さらに言えば、もしそれで足りないのであれば、それにともなうパレードと式典そのものをも、僕は見なければならなかったのではないか。ピオニールの管楽器の重低音に鼓膜を揺すられ、空軍儀仗兵の威容に胸を打たれ、体を震わせて感動すべきだったのだ。
 パレード、オープンカー、ハリボテ、楽隊、それらすべての「虚仮おどし」は、一人の人間から発せられる言葉の重さを、受け手の頭数で割らずに届けるための仕組みではないのか。詐術的といえば詐術的だろうが、そこにはそれなりの手間だって注がれている。もし風船などを通したこの日への貢献が十分だったのなら、僕にもまた、ほとんど一人丸ごとのナターシャを受け取る権利があったのではないか。
 僕は、つい今朝の自分の小賢しさにいたたまれなくなり、叫び出しそうになった。どうして気づかなかったのだろう。空軍のジェット機さえもが、まさに僕のために空を飛んでいたのに。連れてこられるべきは、ホワイトハウスで鋭意執務中のリンドン・ジョンソン氏ではなく、歩いて二十分のところでフテ寝しているニコライ・ラザノフであった。





 僕は家を出てせかせかと町の広場へ向けて歩き始めた。酔っ払いの姿が多い。舗装には紙吹雪が散りしき、建物の隅にはリンゴの食べ滓が落ちていた。
 道すがら僕は、小さい頃の友だちの誕生会のことを思い出していた。
 その日は「ラドネジの聖セルゲイ」の祭日にあたり、その友だちの名もまたセルゲイだった。僕は招待されていなかったにもかかわらず、人恋しくなって、見栄えのしないプレゼントを見繕うと、今と似たような道のりを彼の家まで歩いて行った。そして門の前まで来ると、さすがに踏み込みかねてその回りをうろうろするしかなかった。
 そのとき突然ドアが開き、セルゲイが顔を出して言った。
「ニコライ、遅かったな。早く入れよ」
 その一日、セルゲイも、彼のお母さんも、ほかの友だちとまったく変わりなく僕を扱ってくれた。パイについても、ジュースについても、その他すべてについても。最後の方になると、僕自身が招かれて来たような錯覚に陥っていたくらいである。
 だが僕は、その日セルゲイの家に向かうときの暗い気持ちを、いまもよく覚えている。不安と焦燥とやっかみの入り混じったその気分が、今の心境に似ている気がした。
 二十分ほどで広場に出た。暗い中で投光器が焚かれ、後始末がなされていた。
 職人たちは梯子にのぼって垂れ幕を取り外しにかかり、楽隊が座っていたらしいパイプ椅子と銀の譜面台が、立ったまま片付けられるのを待っている。僕の知らない人間たちが地に這って拡声器のコードをさばき、空気を切る呼び子の音は搬出のトラックを誘導していた。ナターシャが立ったはずの演壇も、すでに作業員がバールを掛けて解体にかかっている。
 どうやら今の僕に出来ることは、もうその場につっ立って目を閉じてみることだけらしかった。
 歓声のどよめき。打ち振られる旗の数々。行進の靴音。
 人波から頭ひとつ出ているのは、父親に肩車された子どもで、その子の手からまたあのヴォスクレセニエ風船が上がっている。幼い子どもは母親に尋ねる。ねえ、あの人は何をした人なの。母親は父親の顔を見るが、父親も自信がないから知らない顔をしている。仕方なく母親は、空と風船を指さして、知っている限りの言葉をつかって説明しようとするが、子どもはいつまでも首を傾げている。
 宇宙飛行士ナターシャ・ガリエナは、車の上から笑顔で帽子を振って歓呼に応える。彼女の豊かな金髪が、力いっぱいに陽光を吸い込んで孕む。
 それを見て人々は、今日の日を忘れるものかと心に誓うだろう。そして実際、後々までもこの日のことを語り継ぐだろう。地球を三十数周した宇宙飛行士・あのナターシャ・ガリエナが帰ってきた日のことを。そして今年のことをさして、後世の人さえ呼ぶだろう。「悪たれナターシャが宇宙を飛んだ年」と。「ナターシャが飛んだ年に両親は出会って結婚し、ナターシャが飛んでから七年後に僕は学校にあがり‥‥」
 そのナターシャはきょう、町じゅうの祝福と喝采の中で、生まれたての赤ん坊にいったい何という名をつけたのだろうか。男ならピョートル、アレクサンドル、ユーリー。女ならリュドミラ、オルガ、マリアあるいはナターシャ。
 小ナターシャは、冬のストーブの前で母親の膝にもたれながら、どんな言葉で自分のなまえの由来を聞かされるのだろうか。もちろんどんな説明も、その場で小さな女の子を納得させることはできない。彼女は、何度も何度も問いと答えとを繰り返しながら、少しずつ成長するだろう。やがてようやく、春の遠足の途中でその少女、名付け親とは似ても似つかぬ内気な娘である小ナターシャは、それでもはにかみに耐えながら、どんなふうに言って自分のなまえを友だちに自慢することになるのだろうか。ここでも説明する方は空を指さし、説明される友だちは同じように首を傾げるのかも知れない。
 だがそれはまだ先のことである。今ここにあるのは、ただ歓声とどよめき、音を立てて打ち振られる旗の数々と、終わらない行進の靴音。風花のように舞い散る紙吹雪。
 何かを運ぶ台車が、立っている僕の身体を強く突いていった。よろめきから立ち直り、痺れる腰をさすりながら、僕は泣き出したいような気になっていた。
 解体作業をしていた顔見知りの建築屋に声を掛けられ、僕はそそくさと広場を立ち去ると、どこへともなく歩きだした。
 あらためて僕は、自分にとってこの上なく大事な樹の実を、手の中から取りこぼしたことを知った。ナターシャの歓迎会行脚は、もうこの地点であがりだし、かりに続きがあったとしたって、この町での挨拶はこの町きりだ。
 聞いた話の通りなら、今頃ナターシャは何年ぶりか何カ月ぶりかで、自分の生家に戻っているだろう。空軍によって封鎖されているというあの家だ。僕個人がいまさらナターシャ個人に会う手段もなく口実もない。
 僕の足取りは次第に重くなった。


   ◇


 結局僕は町をだいぶ離れた、やや小高い丘まで辿りついた。子どものときからよくひとりで来た場所である。
 その頂上の長く横たわった岩の上に座っている男がいた。元同級生のアレクセイだった。手にはあのヴォスクレセニエ風船の糸を握っている。
「お前、式に出たのか」
 僕はその経験を有り金で買い取りたかったが、いずれにせよアレクセイは苦々しい顔つきで首を横に振った。僕はため息をつく。
「お前も変わってない」
 苦笑して、僕は岩のうえ、アレクセイの隣に腰を下ろした。
 薬剤師のアレクセイ。口ヒゲを生やし、もっともらしく白衣を着て歩いている。「科学者としての立場からすれば」というのが口癖で、どうやら寝るときも排便するときも科学者の自覚を忘れないものらしい。
 思えば彼もまた、あの「子ども共同体」の外部に甘んじてきた人物だった。
 はみ出者同士は、きちんとした友情が育てばよいが、ともすると逆にたいへん陰惨な関係になる。僕たちがそれだった。僕たちにあったのは、互いへの軽蔑と鞘当てであった。それでも寄る辺ない僕らは、好きでもないのに身を寄せあっては、世間に対する皮肉と冷笑の度合いを競い合った。
 いまのアレクセイは、勉強してそこそこ出世している。本人によれば少年時代の不遇の屈辱をバネにしたのだそうだ。彼の胸の中にはいつも生成中の立志伝があり、ときどき中間報告のつもりか、それを人に読んで聞かせるので辟易される。
 いまアレクセイは酔っているようだった。町の喧噪を不愉快なサカナに、部屋でひとりで飲んでいたという。アレクセイの不満は、製薬工場と運送公社がこの騒ぎでしばらく操業を休んでいることだった。女ひとりのために、なぜ一町の厚生機能が麻痺しなければならないのか、ニコライ、その答えを知っていたら教えてくれ。
 僕は答えずに、丘のまわりをめぐっている踏み分け道を見下ろした。いつかナターシャが、ここで炭田軍に正面戦を挑んでをこれを破り、残敵を掃討するために、配下の兵を引き連れて勇ましく森へ分け入っていったことを思い出す。思い出すはずだ。そのときも僕の隣にはこのアレクセイが座っていた。
 相変わらず僕らは、ナターシャ・ガリエナが巻き起こす騒動から、二人してイジけて遠巻きになっている。違うのは、彼女の遠征の距離が「中くらいの速さで走って一時間」から「地球三十数周」に、交通手段が「ブツェファルス号」から「ヴォスクレセニエ号」になったことだけだ。
 アレクセイはぶつぶつと言う。
「地球を一周したガガーリン少佐が、田舎の自分の村へ帰ってきて祖父に会った。じいさんは何と言ったと思う」
「さあ」
「ぼうず、ずいぶん遠くまで行ったそうだがひとつ教えてくれんかね。どこに行ったらこのランプの替え芯が手に入るんだね」
 僕の中で、この男に対する習い性となった皮肉が頭をもたげた。
「いいじゃないか。ナターシャ・ガリエナの手が触れれば病気は直る。ロシア版ルルドの泉だよ」
その先を僕は口の中でひとりごちた。
 ここにもひとり厄介な病人がいるんですが、私も遅ればせながら、その奇跡とやらの功徳に浴させてもらえないでしょうか。
そのときアレクセイの十八番が出た。
「科学者としての立場から言わせてもらえば、それはひとつの心理作用だ」
「そうかね」
「だがニコライ、お前の比喩は正しい。ヴォストーク以降の宇宙計画なんか何の現実的意味もない。何という予算、何という人手、あんなものは人民の膏血を固めてつくった醜怪な中世ゴシック伽藍の復活だ。そしてあの女も教会の尖塔にとまったメスの風見鶏にすぎん」
 僕はアレクセイの持っている風船を指さし、さらに囃し立てた。 
「面白くなってきたぞ。こうなりゃここに東方教会ならぬ復活教会を建てるか。十字架のかわりにそれを戴き、聖ナターシャのイコンを掲げ、世界中から病人が集まって、治ったと嬉し泣きしては、松葉杖やら車椅子やらを残して帰る」
 その折りには、ぜひ僕もフョードルのラス以外のものを残して帰りたいものだ。
 アレクセイは真顔になった。
「祖国の保健厚生に、奇跡など必要ない。その種の心理作用が必要なら、それはそれできちんと我々が方法化する」
 アレクセイは出し抜けに立ち上がると、持っていた風船の糸を手繰りよせ、岩のうえでそれを踏み破ろうとした。どうやらはじめからこの男は、人知れずこの作業を実行するためにここまで上って来たらしい。
 だが風船は踏みつぶされる直前にするりと身を躱した。また手で捕らえては足の下から逃げられ、また手で捕らえては足の下から逃げられ、宇宙船ヴォスクレセニエ1号を追いかけて、白衣の男は岩の回りをバタバタと暴れ回った。
 僕は肘をついて、自分の顎を手のひらで支えた。だいたい対象を固定もせずに大袈裟な足の振り上げ方をするから、踏みおろすときの風圧で軽い風船は逃げてしまう。さっきからそれの繰り返しだ。科学者としての立場から考えて、どうしてそんな簡単な理屈が分からないのだろう。
 だがあるとき、足の下から逃げ出した風船は、捕らえようとする手から、何かのはずみで大きく水を開けた。風船はそのままふわふわと漂い、僕らの後ろに立っている木の陰に入り込もうとした。
 そこに突然、ひとりの民警の制服を着た警官が現れると、片手でその風船を捕らえた。もう片手には自転車を押している。見かけない顔だから、どこかから増派されてきた人かも知れない。彼は僕らに近づいて来た。アレクセイを見て、
「薬剤師同志、党の政策に対する独創的な見解をお持ちのようですな」
 警官は慇懃に言ってニヤニヤ笑っている。
「まあそれは聞かなかったことにするが、いずれにせよかなり悪酔いしておいでのようだ。今日はこれぐらいにしておきなさい。本官が家まで送ります」
 そして僕に向かってヴォスクレセニエ風船を差し出すと、
「本官が責任をもつゆえ、あなたは何も心配しないでよろしい」
 アレクセイは警官に連れて行かれた。僕は立ちあがって彼に挨拶した。
「達者でな。アレクセイ」
 二人の姿が見えなくなると、僕は岩に座り直した。だが僕は本当は、今日のアレクセイには少し感心していた。薬剤師アレクセイの態度は真剣であった。クサってはいたが、僕のような屈折の色はまるでなかった。
 彼の場合、本当に式典など必要ないものらしい。
『脆弱なるわが同窓ニコライ・ラザノフとは異なり、神聖な薬事業務に邁進するワガハイ、アレクセイ・ネフスキーはそんなものを少しも必要とはしなかったのである』
 相変わらずの似たもの同士も、中身は外見ほど単調ではなかった。


  ◇


 どれくらいたった頃か、警官が手渡していった風船の糸がつと僕の手を離れた。
 だが僕は別にそれを捕まえようとは思わず、飛んで行くにまかせることにした。先刻アレクセイを弄んだ風はもう止んでおり、風船はほとんど垂直に上がっていく。僕の後ろ首の角度がだんだん険しくなっていった。
 僕は立ち上がって距離を取り、あらためて上がる風船を見つづけた。
 風船は少しずつ小さくなる。
 いつからか想像の上で、僕の視点は、風船からの視点に移しかえられていた。
 そこからは僕自身が見える。岩が見える。木々。警官に連れられ千鳥足で丘を降りるアレクセイ、炭田跡へつづく小道が通る森。町全体が視野に収まり、すぐそれも小さくなる。穀倉地帯の中に北へと流れる夜のイェニシテ川とペトロイワノフスクの灯。
 風船は闇に紛れて見えなくなった。
 僕は岩の上に座りなおして想像する。あのナターシャ・ガリエナも、こうやってただひとり闇の中へ放り出されたのだ。
 もちろんここからではなく、ガガーリン少佐と同じ、東カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から。船体に「CCCP」と刻まれた最先端の宇宙船で、数千万馬力のロケットに押し上げられて。その時間も夜ではなかったはずだ。しかし明るかったら危険でなくなるわけでもなし、どのみち一定の高度に達すれば夜と同じことだ。
 高度に達した衛星は、流星のような速さで地球をまわりはじめる。衛星軌道を回るということは、平たくいえば落ちていくということだ。落ちる放物線の弧と地表面のたわみが平行になっているから、衛星は地面に激突することなく、無限に落ちつづけることができる。
 その数一千を超える計器類を相手に、休みなくいろいろな調整をこなしながら、彼女は何度も歯を食いしばり、首筋を伝う汗を感じたと思う。無重力で体験されるという吐き気とめまい。僕には想像すらつかない孤独と重責。心の隙間には真に暗い虚空が入り込もうとする。アメリカ人など、厳しい選抜と訓練を経てさえ、ひとたび宇宙に出れば興奮剤と鎮静剤を交互に服用しつづけるという。では祖国の飛行士たちは、一体どんな人間だというのでそれに耐え得ているのか。
 僕は、古戦場である炭田跡への踏み分け道を見下ろした。
 ほかの飛行士たちのことは知らず、ナターシャ・ガリエナにあっては、故郷での野蛮な振舞いのすべてが、それらの苛酷に耐え切るための準備であったか。彼女からあの不埒な冒険の数々を取り上げて、なお彼女は彼女たりえたか。
 Faul is Fair、Fair is Faul
 ナターシャの美しくも憎々しい英語の発音を唇で真似てみる。そうなのだ、あの不羈で驕恣だったナターシャ・ガリエナは、人間を代表してこの世の果てへ赴いたのだ。
 大陸と大洋を次々に突っ切って果てしもなく落ちつづけながら、彼女は見たのである。ニューヨーク・マンハッタン島のまたたく灯火を。支那の万里の長城を。キリマンジャロの冠雪を。あるいは紺碧のカリブ海を、ヒマラヤ山脈を、アルゼンチンのパンパと南極大陸を。エーゲ海に浮かぶ白い島嶼を。
 想像力に恵まれた魂にとって、その二昼夜あまりは、一生涯にも匹敵する経験であったに違いない。
 僕は煙草に火を点け、深く吸い込んだ。
 地球周回三十数周を経て、やがて船は減速する。大気圏再突入はまた困難をきわめる。進入角度が浅ければ船体は大気層にはじかれ、深すぎれば摩擦で燃え尽きる。正確無比の操船をしてなお、船体の表面は灼熱し、赤紫の炎が窓の外を狂奔するという。それをつきぬけて、パラシュートを引いた宇宙船が白々としたシベリアの大地に降りたのは、明け方の時刻であった。
 ナターシャは気密ヘルメットを脱いで金髪をあふれさせると、ハッチを開けて迎えを待った。
 新鮮な空気を吸いこんで、針葉樹の木立ちの間からのぼる曙光を見ながら、彼女は何を思ったろうか。踏みしめている大地と祖国への敬虔な愛を感じなかっただろうか。
 僕は芝生の上に膝をつくと、両手を胸の前で組み合わせた。
 ああ、神よ。ルイセンコ博士よ。ミチューリン博士よ。僕はナターシャその人にも劣らぬ熱誠を込めて祈ります。この世の深遠なる物理法則をほんの少しだけ案配して、僕がもう一度ナターシャと会えるように取り計らって下さい。
 こうして祈るだけで足りなければ、僕はいま一度風船を調達し、そこに手紙を結び付けて飛ばします。




ナターシャ・ガリエナの帰還5

5


 岩のうえで長い観想をした僕は、家に帰って布団にはいり、明け方ごろにはやっぱり自慰をした。暗闇に浮かんだのは、あいもかわらずの赤腕章と靴とシェイクスピア。紙くずを捨てながら、さすがに今度は僕もげんなりした。
 たしかに僕たちは和解に失敗した。しかし間尺に合わない話だと思う。
 昨夜、広場で病人を癒す聖ナターシャの像も、シベリアの大地に祈る宇宙飛行士のそれも、けっこう身に迫って感じられた。いまでも僕は、それを積極的に支持したい気でいる。それはつまり、僕を苦しめてきたあの魔女はいなくなったということではないか。それなのになぜ僕は今も片輪なままなのだろう。
 一度ためしに誰かから例の弱電屋の写真を借りてみてもいいが、そう考えるそばから、冷めた意識は、それが空しいごまかしであると知っている。つまり僕は生まれつきそういう人間だったということになるのか。それではあまりに救いがないから、また長い時間をかけて別の答えを探さねばならない。そう思うとため息が出てきた。
 服を着替えて食卓についた僕は、そこにあった新聞からまたひとつニュースに接した。ヴォクスレセニエ1号の飛行を記念する切手が発行されるというのである。
 これは前例からいって十分予想できたことだ。僕は指先で新聞を反転させて、そのデザインを見た。
 さすがに見慣れた宇宙船のシルエットを背景に、宇宙服姿の「H・A・ガリエナ大尉」の顔はこよなく美しかった。その形よく整った唇のあたりをじっと見ていると、僕を見下ろしていたまだ若い魔女の唇が被さってきて、またズボンに圧迫される股間が痛くなってきた。
 僕はすぐ新聞を裏返した。
 やれやれ、敵はこの騒ぎが収まってからも、なお毎日のようにわが家まで侵入してくる魂胆らしい。いつまでも若いわけでなし、家に手紙が届くたびに勃起していたら身がもたない。まあ僕が電気工事員で郵便配達夫でなかったのがせめてもの幸いか。実際、あやうく僕はもうすこしで逓信局へ就職するところだったのだ。
 父が向かいの席に座り、新聞を取り上げ読みはじめた。そうするとまずい具合に、魔女の瞳が正面から僕を見据える形となった。食事の途中だったが、僕は前かがみになったまま席を立ち、家を出て事務所に向かった。
 時間帯の割に閑散としている朝の道を、僕はふだんより速く自転車を走らせた。
 魔女から逃げ惑う僕は、そのとき事務所で待っているものを予想しなかった。あらかじめ言っておけば、驚くべきことに僕の昨夜の祈りは聞かれたのである。





 見たところ、町はどこも開店休業状態であった。僕たちの公団でも出勤している職人はそういないだろうと予想できた。
 僕は自転車を事務所の倉庫に止め階段をあがった。
 そこには主任職長のミハイル・フョードロヴィッチと蛇のフョードルだけがいて、ふたりは机をはさんで黙って向き合っていた。五十をやや出た熟練の主任職長は、でっぷりした体と濃い口髭で、わが公団の看板男である。
 職長はこっちを見た。
「ニコライ、熱はもういいのか」
「はい、おかげさまで」
「それはよかった。さて、これで昨日の馬鹿さわぎに加わらなったメンツが揃ったわけだ」
 職長は何かと忙しい地位だが、フョードルまでが参加しなかったのは意外だった。
「それがニコライ、困ったことだよ」
「何です」
 職長はちょっと勿体をつけてから
「部屋に断線があるとか電話してきた。ラジオと同じ声だ」
 …コチラ春楡1…ワタシノ知ッテイルミナサン…コンニチハ…。
 ミハイル・フョードロヴィッチは中継の台詞を真似ながら、その合間に拳を口元に当てては、雑音の忠実なる再現につとめた。
「ガリエナですか」
 職長は頷いた。僕は最大限の努力でもって落ち着いて言った。
「宇宙飛行士が帰ってきたのは、じゃあボロ屋の点検のためだったんですか」
 職長は鼻毛を抜く。
「結局そういうことだ。母親は前からもういろいろ動くのが億劫らしい。そろそろ娘息子に世話してもらう年だよ。あそこには息子はいないが」
 職長はもうひとりの方を見る。
「そこで手待ちになっているこのフョードル君にお願いしたんだが、どうも色よい返事をもらえんのだ」
 僕はフョードルを見た。ふつうそんなわがままが通らないことくらい、この男だって知っているだろう。フョードルは視線を移ろわせながら手を揉んでいる。その落ち着かない顔を見ているうちに、僕は思い出した。この男に最初に「蛇」という辛辣な、しかもおそらく生涯に及ぶであろう命名をしたのが誰だったかを。フョードルはあの「子ども共同体」の末端構成員であった。
「二日酔いでへばってる奴が多くてな」
 職長は工程表を見る。僕の心臓は鳴り出した。血液が耳元で音を立てる。僕は奥歯を噛んだ。ここが勝負どころだ。
「僕が行きます。今やってるプールは後で責任もってきちんと追いかけます」
 ほうほう、と職長はうなずき、
「フョードル、プールへまわれ」
 フョードルがきまり悪そうに無言で背中を向けて退室する。
「部屋うちの断線が一か所だけですか」
 つい意気込んで早口になった。
「行ってみなきゃ分かるものか」
 職長はのんきに鼻毛を抜く。
 僕は机上の「市内近郊配車地図」をにらんで、ガリエナ邸の所在を指で押さえた。まずいことに、それはぎりぎりで三輪バイク使用区域の中に位置していた。僕は職長の顔を伺う。
「自動車、使ってもいいでしょ」
「どうしてだ」
「どうしてって、相手はいまをときめく祖国の英雄です。車ぐらい乗っていってもバチはあたらないでしょう」
 職長はこっちに向き直った。
「英雄だぁ?」
 太い眉を寄せると、ゲラゲラ笑い出す。
「むかしあのアマッコの一味がな、電柱に登って何しているのかと思ったら、盗電して川の魚を取ってるんだよ。水面に感電した魚がプカプカ浮いててな。俺が追いかけていったら、その魚を投げつけてきやがった」
 職長は引き出しから葉巻を取り出した。
「かなり追いかけたがな。あのアマッコのケツを張り上げて、馬に乗れないようにしてやろうと思ったんだ。だがあいつらはすばしこい。当時の俺の体型をもってしても駄目だった」
 出っ張った下腹に向かい、両手で逆三角形を描いて笑う。
「まったく何が英雄だ。さあ、早く行ってこい。すぐ来てやっただけ感謝しろと言え」
 ミハイル・フョードロヴィッチのこういうところが僕は好きだった。別にナターシャに限らず、相手が地区政治委員だろうが党書記だろうが、まったくその調子を変えない。いつでも葉巻を吸い、鼻毛を抜きながらガハガハ笑う。
 しかし今度ばかりは事情が違う。僕は食い下がった。
「聞いてください。ミハイル・フョードロヴィッチ。僕もあの女を昔から知っているんです。乗り物が三輪では、みっともなくて宇宙飛行士の前に出られません」
 彼の前では、僕もずいぶん素直に言葉が出るものだ。ミハイル・フョードロヴィッチはニヤリと笑った。
「今日はばかに頼もしいことを言うな、君子ニコライ・ラザノフ。そうだ。男は女の前で見栄ぐらい張らんといかんぞ。俺の考えが足りなかった。Дa4をつかってよし。それからミーチャを横に乗っけていけ。受勲者未亡人世帯だから割引表を見るんだぞ」
 僕は彼に感謝した。
 うなずいて背を向けた僕のうしろで、ミハイル・フョードロヴィッチは、よほど気に入ったか、さっきの雑音入りの物真似をまたやりはじめた。
 …コチラ春楡1…ワタシニ魚ヲブツケラレタミナサン…コンニチハ…はーい、こんにちはー、ひさしぶりー
 僕の気も知らぬげに、興に乗ってひとりで返事までしている始末だ。





 駐車場に降りると、待っていたらしいフョードルが近づいて来た。
「悪いな」
「いいよ。俺だってこの間、お前のラスを間違って捨てたから」
どさくさに紛れて僕は旧悪を謝った。フョードルは僕の肩に手を置いて、おもねるような薄笑いを浮かべる。
「貧乏くじ、引かせちまったな」
「お前と違って俺は観念的人間なんだよ」
 僕はフョードルの手を払った。
 だが歩み去りながら、僕は少し考えを直した。こいつはこれでも家に奥さんを待たせているのだ。今のナターシャがどうあれ、そういう身空で、昔彼女の家来だった思い出なんか胸新たにしたいはずがない。それは自分に対するより、むしろ今の奥さんに対する侮辱的事実と感じられるのだ。
 僕は車に近づいた。職長のいったДa4はクラッチが真ん中にあるイヤなタイプだが、排気量2000ccと大きいから見栄えはそう悪くない。僕とミーチャはワックスをかけて車を磨き、車内の道具と材料を整理した。ただし艶の出たそのボンネットに、ガリエナ大尉歓迎委員会から支給された花輪飾りをつけることはしなかった。僕たちはまだ和解していないのである。
 僕らはペンチをはじめとする道具に潤滑油を差し、動きを確認した。
 ペトロイワノフスク電気公団第四出張庁舎を出発してから、僕は一度後ろを振り返った。建物の正面に「知識は力なり」という銘板が貼ってある。古代アレキサンドリアだかに由来するという格式ばった語の意味を、分かりやすい形で僕たちに見せてくれているのが、党書記の前で鼻毛を抜くあの職長である。だが知識なら僕にもそこそこあるつもりだ。何しろ職歴十年、宇宙飛行士が学芸会などやっていた頃から僕は電気工だったのだ。
 横を見ると助手席では、ミーチャが口の中で何かブツブツ言っている。吃音に悩む彼は、何か腹にあるときは、よくこうして発言の予行演習している。
「祝辞を言うなら作業の後にしてくれよ」
 僕は彼に釘をさした。
 市街を出て、イェニシテの支流である小川を渡る橋のところで、道端に歩哨小屋のようなものが見えてきた。空軍の服を着た兵士が近づいてきて誰何された。僕が身分証を見せると、兵士は腕で前方を指し、僕たちは直進し橋を渡った。僕たちの後ろから来ていた養豚所のトラックは、川沿いに迂回させられていた。
 橋を渡った一角はいたって閑静であった。
 ガリエナ未亡人は体が悪いらしいし、ナターシャだってわざわざ職人を呼ぼうというのだから、まさかコルホーズの田吾作どもの表敬訪問や、自称古い友人連中の対応に忙殺されていないことは分かっていた。しかしこれほど人の気配がないとは思わなかった。車がガリエナ邸の前に到着すると、静寂はいよいよ深くなってきたようだ。
 白い壁に茶色いスレート葺の屋根、緑のドアと窓枠のガリエナ邸はまさにひっそりと佇んでいた。廐はもう取り壊したらしい。
 車の左右のドアから同時に出た僕たちは、脚立を車の屋根からおろし、一式を収めた腰道具を身にまとう。
 小川のせせらぎと鳥の声を聞き、風の匂いを嗅ぎながら僕は何か不安になった。ちょっとこの寂寞感はどうだろう。こうして人の家に上がり込む商売だから、僕はその家の空気というものが多少は読めるつもりだ。少し立ち止まって工具を点検するふりをしながら考える。どうやらその正体が分かった気がした。
 ここの主人だったガリエン大佐はいまやなく、あのいまいましいブツェファルスもとっくに馬肉の缶詰にでもなったはずだ。母親はいるが、妹は嫁いでいて、そう長く家を空けられるはずもない。せっかくの凱旋も、いまのナターシャにとっては、むしろ喪失感をかきたてる帰郷であったと思うのが自然である。言うまでもなく、僕も好きだったあの校長先生もまた亡くなった。
 僕は、五年前に一度だけ会ったことがあるアレクサンドル・ステパノヴィッチ・ガリエン氏のことを思い出した。機甲兵舎の工事の視察に来た連隊長、プロホロフカの平原に、ファシストの戦車隊・パンツァーカンプグルッペを蹴散らした勇士は、僕のような小僧(本当に使いっぱしりの小僧だった)の挨拶にも、実に厳正に答礼したものである。
 遅かりし、大尉どの。十年前、少女の頃にこの土地を離れたあなたが、遠い隔離されたところで、水にもぐって無線機のオモチャを組み立てたり、天秤のバケモノみたいな遠心訓練機に振り回されたり、その他いろいろ益体(やくたい)もないことばかりしているうちに、何と多くの時間が経ってしまったことでしょう。
 僕は垣根をくぐると、緑塗りのドアをノックした。





 すぐに若い女が出て来た。はじめ妹かと思ったが、どうやらそれがナターシャ本人だった。長い髪をまとめないで垂らし、襟のある白いシャツに若草色の長いスカート。何も不思議ではないが、時の人にしては、あまりにさりげない服装という気がした。
 僕が身分を名乗ると、彼女は部屋へ向かって僕たちを案内した。
 後ろから観察して歩くが、やはり意外であった。背は女性にしては高いほうだろうが、しかし僕の知っているナターシャ・ガリエナはこんなに華奢なひとだっただろうか。いまのこの姿では、たしかに春楡というたとえがよく当たっている。
 僕はさっそく通された部屋で脚立を立て、天井をのぞき込んで見た。故障箇所はすぐ分かった。大したことではない。被覆電線がネズミに齧られているだけだ。僕は安堵もし、拍子抜けもしたが、同時にやや忸怩とした思いにもなった。
 こんなものは、その気になって道具があれば誰でも修繕できる。ましてやわれらがソ連邦宇宙飛行士ともなると、幼少のみぎりから電柱の架空高圧を扱っていらしたというではないか。ひとつ問題があるとすれば、その白いシャツが埃で真っ黒になるということか。
 しかしまあ暗黒の宇宙空間はともかく、この程度の暗闇はたしかに僕らの領分だった。
 僕は呟いた。せめて「活線」でやるか。穴から顔を出してミーチャに言った。
「開閉器、落とさなくていい。足場板いるぞ」
 僕は彼が運んできた足場板を梁の間に渡し、脚立に乗ったまま上半身をそこに乗せた。もちろん薄い天井板に直接体重をかけないための措置である。
 それをするとき、僕は自分の手が震えているのに気がついた。こんなことは本当に何年ぶりだろう。故障が隠蔽箇所だったのはまったく幸いだった。
 身を乗り出して、ぎりぎり届く位置の切断箇所をつかんで引っ張る。梁に線を止めてあったごく小さな電工カスガイが飛んだのを拾い集める。電工ナイフで新たな芯線を剥き出し、圧着莢の中でひとつにしたとき、体を入れている穴から電灯の光が差し込んでくるのが分かった。
 僕は莢を圧着ペンチで力いっぱいかしめ込み、その上から絶縁テープを巻きつけた。普通の工事ならここでやめる。だが僕は口の中でぶつぶつ言いながら、さらに工事をすすめた。
「郷土の誉れに」。もう一重にテープを巻きつけた。
「祖国の英雄に」。それを接続箱のなかに収めた。
「将来の人類の指導者に」。入念に、見えている線のよりを取って、新しいカスガイを金槌で梁に打ちつけた。
 それらの作業で必要とされた道具と材料の、手持ちに足りない分は、すべてミーチャが穴の隙間から送ってくれた。
 僕はいったん脚立を降りて、天井板を元どおりに収めた。それからナターシャに向かって、採取した米粒状のネズミの糞をみせた。
「ネズミを退治しないと、またおこります。ちなみに役所で配る殺鼠剤は、もうまったく効きません。嫌いでなければ、猫を飼うといいと思います」
 ナターシャは頷いた。
 僕は彼女に所定料金を請求し、受け取った。それから領収書束の表紙をめくると、そこに「二級強電気工事員」という資格スタンプを押し、あとに「ニコライ・ラザノフ」と自分の名を書き込んだ。 
 僕はそれをミーチャに手渡した。ミーチャは腰を落として金額を書き入れる。達筆ミーチャは大まじめな顔付きで片目まで閉じ、活字に近いというよりは、ほとんどカリグラフィーともいうべき華麗な字を並べている。ここになかなか珍しい領収書が誕生し、支払い人の手に渡された。
 さしもの見聞の広いナターシャも、これには目を瞠った。
「Пышный Почepk(プィーシュヌィ ポチェルク・綺麗な字)!」
 それから彼女は、その領収書と僕の顔を見比べた。
「ご父姓は何とおっしゃるの」
「パブロヴィッチ」
 さらに僕は一気に言った。
「ペトロイワノフスク技術学校・夜間部電気科卒業です」
 ナターシャ・ガリエナはなにを思うか、その目にはただ柔和な光があった。
「ありがとう、ニコライ・パブロヴィッチ」
 彼女は振り返ると、すぐ後ろのテーブルの上から何かの包みを取り上げた。
「どうかお持ちになって」
 菓子折りとおぼしきその包みは、モスクワかレニングラードのデパートででも売っていそうな垢抜けた包装だった。だが僕は即座に、いままで一度たりとも思ったことのない内容の台詞を言い放っていた。
「われわれはすでに十分な俸給を得ています。ナターシャ・アレクサンドローヴナ」
 ナターシャは困ったようになってミーチャの方を見た。
 そのミーチャが直立不動になって出し抜けに言った。
「同志大尉、遠くまでお務め、ご苦労様でした」
ナターシャ・ガリエナ大尉はしばらく目を瞠いていたが、微笑すると背筋を伸ばしてミーチャに敬礼を返した。さすがにエリート士官だけあって、くだけた服装でもその姿は堂に入っていた。決まった姿勢のどこかが、微妙ながら決定的に素人とは違っていた。
 そして僕はそのとき、突然彼女の背後からはっきりと後光が射すのを見たのである。





 僕たちは車に乗ってガリエナ邸を後にした。僕は運転しながら、あの後光のナゾについて考えようとしたが、すぐにそんなことは消し飛んでしまった。
 バックミラーに、見送りに出て来てくれたらしいナターシャの姿を認めたとき、僕のハンドルを取る手は再び震えはじめた。何となれば、その彼女の右手の指には、あのヴォスクレセニエ風船の糸が絡められていたからである。あれは昨夜、僕が飛ばした二個目の風船ではないのか。
 僕は必死になって、昨夜自分がそこに結ぶために書きつけた文面を思い出した。
 どうか深遠なる物理法則をほんの少し案配して、僕がもう一度ナターシャに会えるよう取り計らってください。
 そして末尾に、たしかに正確を期して署名した。電気工事員ニコライ・ラザノフ。
 彼女はあれを読んだから、工事にかこつけて僕を招いてくれたのだろうか。そういえば僕らにくれようとした菓子折りだって、誰にでも渡すというわけでもないだろうに、いかにも用意されていたようだった。
 しかしまさかそんなことはないだろう。だいたい風船はどれもみな同じだ。もう僕は自分で分かっていた。たぶんこの先何年経ようと、僕はそんなことを信じるほど耄碌はしないだろう。少なくとも今の父パブロと同じくらいの年齢までは。
 そして実を言えば、奇跡に頼らなくても彼女に会える奥の手を、もう僕はひとつだけ見つけていたのである。つまり校長先生ピョートル・ペトロヴィッチの墓前には、ナターシャもひとりで参ってくるだろうということだ。
 たとえ僕が下世話な待ち伏せのダシにしても、たぶん棺桶の中の校長先生は怒ったりなさらなかったと思う。なぜなら僕もナターシャも、それが唯一の有機的共通項であることに、あの先生の変わった教育の申し子であったから。先生がいればこそ、かつて彼女は大人の力から守られ、僕はほかの子どもから守られたのだ。
 僕は角を曲がるときにもう一度バックミラーを見たが、すでに垣根からナターシャの姿は消えていた。
 助手席を見るとミーチャは泣いていた。
「ひ、光が、ひ、光が」
 嗚咽しながら繰り返している。どうやら彼もまた、あの後光を見たらしい。
 僕は片手で煙草を吸いながら、アレクセイではないが、技術学校卒業生らしく、冷静に科学的仮説というやつを立てはじめた。
 これはひょっとすると、彼女が宇宙で浴びてきた未知なる宇宙線が及ぼす作用ではあるまいか。それならば病人を癒す奇跡というのもあながち実体のないものでもないかもしれない。
 そしてふと僕の頭にコンスタンチン・イリイッチの顔が浮かんだ。
 あのひとは最近、また猫の子が生まれたといっていなかったか。



コロンナ33遅き午餐 FT短編

 よく晴れた昼下がり、単騎、丘をのぼってゆく影は、若い乙女であった。馬上、黄金の髪は風になびき、衣服から出た手足は透けるように白い。細身の体は、まだ少女の姿をとどめているが、額に輝くティアラと、腰に佩いた宝剣、そして身にまとう張りつめた空気は、ただの娘のものではなかった。
 たどり着いた丘の頂上からは、はるかに四方が見渡せた。集落を囲む濃緑の大海原。一族の来たりし南からは、ひとすじの開削のあとが続いているが、北へ目を転じれば、そこはまるまるが未踏の地平である。
 その北へ向かって、フードを頭から被った老人が、三脚に据えた測距儀の照門を覗いていた。
 身近で蹄の音が止まるのを聞いても、しばらく未練げに腰を屈めていたが、やがて、
「姫さん、来る頃と思うていただよ」
 フードを取って振り返ったその顔は、見る者を後ずさりさせる異形のものだった。さらに注意深く全身を眺めれば、右脚が義足であることにも気付かされる。

 書簡のやり取りはあっても、向き合うのは二年ぶりだった。即位の礼を経たフェリスタの身は、もはや姫ではない。それを示す宝冠と剣が、目に入らぬはずもない。
 それでも老人が呼称を改めないのは、その一党とともに式典に参列しなかった立場を受けてのことだろうが、それだけでもないと思える。その隻眼にやどる光は、過ぎた日々を懐かしむかのように柔らかかった。
「あの悪ガキが、ようもまあ立派に。亡き母御に、生き写しだで」
「痛み入ります。先生は、お変わりなく」
 普通の挨拶だったが、ここで老人は唇を歪めた。
「皮肉だかね。姫さん」
 フェリスタは落ち着いて答える。
「いいえ先生。それは意味のないことです」
 老人は自嘲して、
「それは違いねえ。しかし現実、儂(わし)は変わっただよ。これまでお上がくださるものは、位も褒美も突っぱねただ。ツルハシ屋の勲章は、開通した道そのものと、信じてここまできただ。それを今になって、身内の若えもんのおだての言葉にはホイホイ乗せられただ。実際、あんなに心地のいいもんはねえ。そのうち、手もなく、高えハシゴの上へと担ぎ上げられただね」
「ご本意ではないのですか」
「いんや、本意だ。錐の先ほどの紛れもねえだ」
 そこでふと声を落して、
「これから他所もお周りになるだか」
「いえ、こちらだけで済ませるつもりです」
 キッパリ答えると、老人は一転、嬉しげに何度もうなずいて、
「有難えだ。いやいや、それなら急ぐこともねえ。ゆっくりしていきなさるだよ」
 芝生の上に敷物をひろげると、いそいそと パン、干し肉、オレンジ、果実酒の壜を、袋から出してきて並べる。
「これも若いもんがくれただ。儂には過ぎた上等だで、きっと姫さんのお口にも合うだ」
 こんな無邪気な師を、フェリスタははじめて見たと思った。
 
 伝承によるところ、かつて世界は、温暖な気候と豊沃な土壌に抱かれ、安寧と自足のうちにまどろんでいたという。人々は自らを、文化・国土までも含めた有機的一体として「エラス」と呼び、それはまた多くの場合、全世界と同義であった。
 揺籃はある日、地の怒りによって突き上げ覆され、その残骸さえ降灰によって深く埋められる。
 数少ない生き残りは、活路を求めて「周縁」の原生林へ分け入った。誰も実情を知らず、知ろうともしなかった森は、はたして地形峻険、植生が人を拒む瘴癘の魔境だった。これを開削しながら歩を進めることが、そのときからエラスの使命の全てになった。
 定住は片時しか許されなかった。たえず新たに地を割って迸り出る溶岩流に加え、切開された森は、倍する力で再び異物を押し包もうとする作用を持っていたからである。
 追われるエラスは、その存亡を賭して一匹の蟲と化し、濃緑の絨毯を、遮二無二食い進んだ。そうして百年四代。人口をさらに三分の二にまで減らし、後に捨ててきた停泊地は三十二を数え、なお広大無辺の樹海はその出口さえ見せなかった。

 コロンナ28の地で、フェリスタ王女が十をむかえたとき、早くもその英邁の資質は、世襲王権に批判的な者の目にさえ隠れなく、王族としての修身に加えて、次代の指導者として必要なあらゆる知識の注入が計画された。
 農学、天文地学、博物学一般。それぞれの分野の第一人者が事にあたり、わけても最重要の土木分野の進講を任ぜられたのが、「片目のグルヌー」であった。
 これは一代の奇人である。その顔と手に見える疱瘡の跡がどこまで及んでいるのかは誰も知らない。とにかく偏屈で人交わりを嫌い、住処まで村はずれに構える難物だったが、測量と構木に関しては、当代無双の知見を認められていた。
「姫さんもヘチマも、勘の鈍い子には何を教えても無駄だで、そのときは弟子か師匠かを取り換えるよりほかに手がねえだ」
 特有の泥臭い語法が、最初はクスクス笑えて授業にならなかったものだ。その不行儀をグルヌーは叱らなかった。笑われるのに慣れきった者の達観で、黙って辛抱強く、相手の関心が、自分の言葉の内実へと向かうのを待った。
 そのかわり、こと学業になると、態度の厳しさは最初の口上さえ上回っていた。決して褒めず、わずかな怠慢や浅慮も、辛辣な皮肉と舌打ちで報いられる。癇癪に声を荒げることも少なくない。
 もっとも生徒のほうも、さすがに見込まれただけの素材ではあった。多くの時を経ずしてフェリスタは知る。この奇怪な外見の男の中にある知への情熱、真理への意志、すでに擁している黄金の体系、美しい数理の公式の数々を。
 師事して三月目に、フェリスタは師の前に進み出た。
「先生、お詫びすることがあります」
 師は机の書き物から、ちらとだけ視線を上げた。
「七歳のとき、道で先生に木の実を投げつけました。一緒にいた子たちもそれを真似ました。皆、祭のお面をかぶっていました」
「それだけだか」
 不機嫌な表情はこの男の常である。
「この化け物、と言いました」
「他にもあるだか」
「毒が伝染る、死んじゃえ、と言いました」
 一度唇を噛んだが、いっそう背筋を伸ばし、目はそらさなかった。
「フェリスタは、卑怯な愚か者にふさわしい罰を受けます」
 しばしの後、師の表情が歪み、その手が伸びてきたとき、フェリスタは頬をつねりあげられることを覚悟した。ちょうど前日、農学の教師にされたように。だが乾いた手はそっと頭のうえに乗せられ、すぐに離れ去った。
「姫さんはええ子だの」
 初めて見るその表情が、師の笑顔であったことを理解するまでしばらくかかった。
 
 師の失われた片目は、大昔、「地獄の釜」と呼ばれた難工事で、エラスが支払った多大の犠牲の一部だったというが、その隻脚の歴史は比較的浅い。
 七年前のコロンナ31。二度の越冬を経たあとの、エラスの次なる針路が問題だった。王党が国是として掲げる北進策に対して、西進を唱える一派がにわかに台頭し、対立はエラスを二分するかに見えたが、決着は一夜にして訪れた。
 未明、王の禁衛隊が政敵を急襲し、降りそそぐ朝日のもと、政庁前の広場にその首級を並べた。特別驚くには当たらない。それはコロンナ2で13で20で、繰り返された政治の手続きにすぎなかった。
 そしてこのとき、大臣の名前すら満足に言えぬ隠遁の人グルヌーも、縁座を問われ、片脚の膝から下を奪われたのである。
 十五歳のフェリスタが師の寓居を訪れたとき、その主は寝台に横たわっていた。
「今日はこの恰好で失礼するだ。姫さんはそこの机の上の問題を解いて、口で読んで聞かせてくれればいいだ」
 フェリスタは師の寝台の足元に屈みこんだ。赤黒く染まった包帯を取り換えようとした手が、邪慳に振り払われた。
「そういうことをするために、来てなさるんでねえ。ええから、早く問題を解くだ」
 そう言われて机に向かってはみたものの、身の入るものではない。頭では、父王の武断への疑問と不満が渦巻いている。並んだ首の中には、幼いころからフェリスタを姫、姫と可愛がってくれた重臣も含まれていたのだ。王自身が少年時代から苦楽を分かってきたものたちと、なぜ円満な話し合いの道を探りつづけることができなかったのか。
 解法の筆の音が完全に止まって、どれくらい経った頃か、
「…王は、間違っていなさらねえ」
 振り返ると、グルヌーは身を横たえたまま天井をじっと見つめていた。フェリスタは耳を疑った。これまで政道の話など、一度も師の口から出たことはなかったからである。
「姫さん、聞くだよ。儂のようなツルハシ屋にも、ひとつ分かることがあるだ。橋であれ、坑道であれ、強い木の組み方というのは、突き詰めれば一通りしかねえ。それを知るものはどうせ一人か二人。頭を寄せあって大勢の意見を聞いたところで、屁の役にも立ちはしねえだ」
 フェリスタは向き直った。
「あの人たちはあの人たちで、自分の信じる道を行く自由があったのではないですか」
「何を言うだかと思えば、またタワケたことを。何度言わせるだか。現場の作業には頭数がいねえと話にならねえだ」
 エラスを割ることは双方の自滅を意味するというのである。
「父は本当に『正しい木組み』を知っているのでしょうか。父より年上で、経験に富んだ人もいたというのに」
 グルヌーは寝台の上で手を振った。
「トシなぞ、杉の木でも毎年ひとつ取るわ。逆だで、逆。父御は王の器だで。そしてまだ老けこんで頭の鈍る年ではねえだ」

 それから二年を経た十七歳のとき、フェリスタは原生林の海で遭難しかかったことがある。
 コロンナ32を発した先遣踏査で、崖から転落して本隊を見失った。そしてまる二日間、ひとり氷雨を避ける巨木の洞の中、血まみれの膝を抱いていた。
 募る絶望とともに思うのは、出発前のひとつの失敗だった。
 外出が億劫になった師が、物理理論の教材として、二年ごしで組んでいたアーチの模型があった。それは数千本の針から成り、直線と弧の玄妙精緻な組み合わせが蝋燭の火に映える様は、見る者に溜息を催す。
 その中のほんの一本を、好奇心から動かしたことで、すべてが跡形もなく崩れ去ったときの驚きと悲しみが忘れられない。
「一度見たらそれでええ。形あるものは必ず壊れるだども、形を成り立たせる仕組みは変わらねえ。それをじっくり覚えるだ」
 師が責めなかった刹那の過誤を、自分ではまだ悔いている。この有り様で、この地の果てで、こんな木の俣に嵌り込んだ今もまだ。
 あの美しい均衡を見た者も、それが示唆・体現していた諸法則を、おぼろげにであれ、理解している者も、年嵩の師本人以外には、自分しかいないのである。誰にも伝えず死ぬことが許されようか。
 そこで後悔が方向を転じ、かえって力が呼び起こされ、顔を上げることができたのは、後から思えば奇異なことであった。
 そして帰り着いた王女フェリスタの報告をもとに、それから約一年後、まさにその巨木の地点を中心として、エラス・コロンナ33が切り開かれることとなる。

 さらに四年の月日が移り、いよいよエラスは記憶されるべき日を迎える。一本伐り残された巨木の前に、文武百官が居並び、六家十二門の旌旗が風に鳴る。またその周囲をコロンナ総出の群衆が取り巻いている。
 文字通りの、まだ昨日のことである。今日へと続く青天の下、戴冠した若き女王の、凛然と響く聖旨の声は、あまねく人波の上を渡った。
 聞くがよい。五年前、ここで、まさにこの地点で、道を見失っていた自分は、本来の国土から切り離された今のエラスの比喩である。
 人間そのものが、もし道半ばにして滅んだら、事象の背後にある黄金律の数々はどうなるか。馬や猿や鳥によって、いつか再発見される日を待つとでもいうのか。
 諸秩序は人間の観念によってしか見出されないが、当の人間よりも、個々の自然現象よりも、世界の上位を占めるものだ。
 その構造は、いまは師のごとき天才の直観によってとらえられるにすぎないが、継承と発展の過程で、ありふれた実用知識に均されることを歴史は教えている。
 そうなったとき、エラスの民は、かつて幻に描いた橋を本当に渡るだろう。たとえ長旅による淘汰の果てであれ、真理が架ける橋を渡り、いつか再び辿り着く。人間が、自然の奴隷であることから解放され、真に自らの主人たりうる、新たなるエラスの地へと。
 湧き立った歓呼の渦の中にも、師の姿はないことを、フェリスタは知っていた。

 午後の風が少し冷気をはらむ頃、師弟の遅い午餐が終わる。
 食器をとりまとめつつ、口を開いたのは師のほうだった。
「こうしていると、つくづくと思うことがあるだ。姫さん、いまの、この儂の腹が読めなさるだかね」
 師のこれほど感傷的な言葉を聞くのも初めてだったが、あらためて伝えるべきを伝えるときが来たと思った。
 フェリスタは居ずまいを正し、両手を膝の上で組み合わせる。
「先生から受けた教えは、私にとって、エラスにとって、唯一無二のものでした。この命が尽きる前に、それは下の世代に譲り渡します。お考えになってきたことが、ただ無に帰すとは、どうかお思いにならないで」
「……」
「先生のお導きで、私も気がついたのです。自然の背後にある不壊なるものと、人間だけに与えられた恩寵の…」
「そんな話では、ねえ!」
 昔日を思わせる語気に、一瞬身が竦んだが、今の師は急に恥じ入るがごとく、
「姫さんや。今そんなややこしい立派な話をしたがるような、そんな立派な男ではねえだよ、もともと儂は」
 師の役割のペルソナが、はじめてひび割れ、欠け落ちていく。その視線が、弟子の肩ごし、はるか南の地平線に向けられる。
「もう三十年も前になるだか、人生でただ一度だけ、ひとを好きになっただ」
 まだ意味が取れず、フェリスタは目をしばたたいた。
「沢水の精、エラスの残照と謳われたひとだで。同じ年頃の男は、誰も彼も恋焦がれただ。いんや、それは惚れた腫れたより、もっと大仰なもんだっただね。あのとき、エラスが崖っぷちに立った『地獄の釜』の岩盤掘削で、儂らは岩塩を舐めながら、互いにこう言うて励まし合っただよ。人間て生き物は、自分らのような薄ら汚ねえ野郎だけでねえ、たまにあのひとのような者も生み出すというのに、こんなところで擦り潰されてなくなるのは、さすがに勿体がなさすぎる」
 たちのぼる陽炎の底で、男たちがひとしく仰いだ名。それは語り伝えられた遠い楽園の揺籃の記憶に結びついていたのかも知れない。
「そのひとは、どうなったのですか」
「さて、そこが笑うところだで。どうもなりはしねえ。とうから婚約者がおりなさった。当然すべてがピカイチ、王の器をもった偉丈夫だっただよ」
 はたと双眸に射られ、隻眼が伏せられる。
「だいたい儂なんぞ、そんでのうても、身の程はよく知っているで、まあハナからそんなに多くを夢見たわけでねえ。ただあの髪に、頬に、唇に、一度この手で触れられたら、どんな心地がするだか、それだけの思いに体中の骨が曲がる気さえしただよ」
 若き日の師の姿が瞼に浮かぶ。思いを仲間にさえ打ち明けられぬ、片目で疱瘡の青年グルヌー。けれどもその彼が、脳裏に浮かぶ面影を、抱き、払い、また抱きつつ、かじりついた机からは、数式を乗せた紙が切れ目もなく流れ出る。紙のタペストリーは風になびき、ひるがえりながら、どこまでも地に着くことなく伸びていく。
 自然に笑みがこぼれた。
 フェリスタは、額のティアラに指をかけて取り去った。一度小さく頭を振り、向き直って膝を前へ進める。老人の膝がしらと隙間なく接するまでに。
「先生、試してごらんになりますか」
 声を微笑が彩り、息が相手の鼻先をくすぐる。ささえるように、うながすように、自らの指を師の腕に添えると、母の姿をうつす娘は、ゆっくり瞼を閉じて、白い喉をあらわに反らした。
 片目のグルヌーは、「ウッ」と一声呻いたなり、かなりの間、呼吸さえ忘れていた。
 ようやくにして、滑稽なほど震えながら伸べられた手は、目の前のなめらかな頬を微かに撫でたが、それは結局、そっと女弟子の頭のうえに乗せられた。
「姫さんはええ子だの」
 老人は銀の装身具を拾い上げると、震えの残る両手で、注意ぶかく、まだ瞑目している若き女王の額へと当てた。
「けんど年寄りをからかうもんではねえ」

 フェリスタが再び目を開いたとき、師はすでに敷物の端で、座ったまま背を向けていた。
「さて、早いとこ、ご用を済ますだ。そのために来なすっただね」
 再び振り返ることもせず、
「儂の勉強を引き継いで下さるというお言葉、有難かっただよ。ええ土産が出来ただ」
 見上げれば、空にかかる陽は、いまや黄味を帯びて西へと傾いでいた。祝祭と休息の二日が過ぎようとしている。明日よりまた、日々の歩み、まだ見ぬコロンナ34へ向け、備えを積み上げる営みが続いていく。
 胸の奥から込み上げてくるものを抑えながら、フェリスタは師の背にかける最後の言葉を探そうとした。

 終

シレーヌの封蝋

 春の訪れを告げる西風の日に生まれたから、叔父の通り名は「西風(ゼフィルス)」といった。
 麻畑がひろがるこの村一帯の織元の家で、ゼフィルスはその当主の三男として生を受けた。兄二人とはかなり年が隔たっていたため、叔父といっても、私から見れば、ほんのひとつ年上なだけだった。
 三十年前のゼフィルスという若者は、本当に風のように颯爽としていた。
 弓矢をとっても筆をとっても、村で誰よりも達者だったが、ことに竪琴と歌にかけては、近隣では比べるものさえない。
 徒党を組むことが嫌いで、竪琴を傍らにひとりでいることの多い彼を、娘たちはみな遠くから見て憧れ、噂しあった。
「でもあのかたは、いつまでもこんな村にいるようなかたじゃないわ。お名前のとおり、じきどこか遠くへ旅立ってしまわれるのよ」
 同じ年の娘がうっとり言ったのを今も私は覚えている。

 名といえば、私の通り名は「帆布(パヴィア)」だった。
 母が機を織っているとき急に産気づき、織られている途中の布を慌てておくるみにした。
 由来はそれだけでも、育ってみればそれは私に似合いの名だった。
 ざっくりした日用品。変哲のない平織で、目が詰んでいて、安価で耐用性に富む。
 実際私は、地味で面白味のない娘だった。
 背ばかり高く痩せていて、おしゃべりに混じるよりは、ひとり家事に精を出すほうが気楽だった。そしておよそ大人から叱られた記憶がないほど、聞き分けがよく、情緒が平坦だった。
 あの春まで、私は自分を、特に取り柄もないかわり、過ちもない人間だと思っていた。

 春祭の日のことだった。
 十五の私は、同じ年頃の村の娘たちと一緒に、新しい白い服をおろし、花輪で髪を飾り、唇にはじめての紅を乗せた。
 一団になって通り過ぎる私たちに向かって、露台で酒に酔った男たちが、「間違いを起こすな、散るな、早まるな」と、お定まりの歌で囃したてた。
「馬鹿なことを」と思ったものだが、その日私に生じた間違いは、俗謡よりもずっと深刻なものだった。
 私が踊りの輪からはずれ、樹にもたれて休んでいると、頭上から微かに竪琴の音が聞こえてくる。見上げればゼフィルスが木の枝に腰かけていた。
 目が合うと彼は笑顔を見せ、黙って私の手を取って引き上げた。並んで座ると、衣装の白が新緑に染まる。枝々から芽吹く葉の勢いは、すでに私たちの姿を人目から隔てるに十分だった。
 ゼフィルスは横にいる私にだけ聞こえる音で、竪琴かきならし歌った。即興の叙事詩だった。真っ青な海を進む白い帆船。はるかに島影をのぞみ、白い航跡を引きながら、水平線の果てを目指して。
 海さえまだ見たことがない私は、その日、自分の花輪を彼に捧げた。

 それからのひと月は、私のこれまでの人生でも、またとない目まぐるしい日々だった。
 片時の仕事の合間を縫って、人目のない野山で私たちは会った。そして気持ちの昂るままに、ふたり草の上を転げ回るようなことさえあった。上になり下になり、視界の端を緑と青が交互にめぐり、私たちは汗と草いきれに包まれて笑った。
 むろん畏れがなかったわけではない。
 昼はそうして、古い戒めをふたりして笑いのめしても、夜にはひとりの床の中、おのれの罪深さにおののいた。他人に告げることもできず、紐解くべき本もなく、窓から差し込む月光に照らされて、私ははじめて孤独というものを知った。

 ひと月目のある夕方、馴染みの草の上でふたり寝そべっている姿勢から、ゼフィルスは半身を起こした。
「そろそろここを出なくてはいけない」
 視線は東の彼方へ投げられている。茜雲が山並みの向こうへと流れてゆく。
 それが「どこへ」という話は別として、「何故に」ということなら、私にも痛いほどよく分かった。
 こんなことを続けていれば、いずれに人目に付く。噂が立つ。このままでいられるはずがない。といって自らの意志ではこの関係を断ち切れないことも、わずかの間に何度も試みたとおりだった。
「そもそもおれは、こんな村で一生終えるつもりはないんだ」
 不遜の響きに、すこし眉を顰めた私の目の前に、手が差し伸べられた。
「一緒に来い」
 それは突然身に降って来た告示のようでもあり、ずっと前から予期していた約束のようでもあった。
「お前なら、髪を切ればおれの弟で通る。船にだって乗れる。どこへだっていける。誰も追いつけやしない」
 咄嗟に何も言えないでいる私に、ゼフィルスは憐れむような微笑を浮かべた。
「発つのは明日の晩だ。それまで考えてみてくれ」
 言葉とともに、それまでどこにあったのか、大きな巻貝の殻を放ってよこした。
 見比べる私に、ゼフィルスは振り返って、拳を耳につける仕草をした。
「海の音が聞こえるんだ、それは」

 一度家に帰ってみれば、だが私には幼い弟がいた。世話するべき祖母も、山羊も、また織りかけの反物も。
 翌日の夕刻、煮え切らない返事だけを胸に、前日の場所に向かってみると、ゼフィルスはすでに出立していた。
 とりあえずはひとつ息をついたというのが、そのときの正直な気持ちだった。
 しばらくの間、私は放埒の報いとして、まず自分の身を案じ、異変がないと分かると、ようやく去っていった彼への神罰というようなものが心配になった。
 ゼフィルスの消息はすぐに途絶えた。
 折しも東の海の彼方で大きな戦争があった。世界の中心での、世界の帰趨を決める戦い。トロイ王国と諸国連合の衝突は、オリンポス山の神々の世界をさえ二つに裂いたという。
 神々、王たち、英雄、美女。名だたるものたちがひしめき、膨大な人員と物資が注ぎこまれて、坩堝のように煮えたぎるその当地へ、彼は立身と成功を求めて赴いた、と風の噂に聞いたのが最後だった。
 田舎出の若者ひとり、坩堝は跡形もなく溶かし去ったようだった。どうなったのか誰も知らない。どこにも伝わらない。
 私はときどき彼を思い、窓辺で貝殻を耳に当て、潮騒を聞いた。

 それから二十年が経った。
 私は相変わらず機を織り、やがて親のすすめる年下の男性を婿に取り、四人の子に恵まれた。
 数字に明るかったので、父の亡き後は、商売の帳簿をあずかり、人手や材料をも差配する立場についた。
 さまざまな条件に助けられ家業は隆盛した。生産量は伸び、販路はひろがり、わが家の工房でつくられた麻製品は、海をこえ四方へ散っていった。
 その中には、本当に船大工に納める帆や索具などもあったわりに、私はいまだその海というものを見なかった。山の向こうにもこれという用事がなく、踏んだのは五里四方の山に囲まれた土地にすぎない。
 けれど私はそれを引け目には感じなかった。すでに世の中の仕組みならばじゅうぶん理解していると思っていた。
 冬のあとには春夏秋がつづき、昼のあとには夜が来る。水は高きから引きに流れ、月は満ちてまた欠ける。
 商売の道もまた世の道理に沿う。良いものをつくって売れば良い評判が立ち、悪いものを送り出せば疎まれる。
 たしかにごくまれには、春に風花の舞う日もある。真昼に太陽の欠けることさえある。けれどもそれはただ一日の紛れ、「そんなこともあったか」と忘れられてそれまでのこと。
 私の若い過ちは誰にも知られなかった。

 それでも一度だけ足もとが危うくなった。
 三十のとき出来た三男が、生まれつき盲目と分かったときのことだ。
「何かの悪い因縁ではないのか」という、下働きの者の陰口に、私は情けなくもよろめいたが、夫がすかさず後ろから支えてくれた。
「驚くことはない。おれのご先祖の血筋だよ。別に誰がどんな悪さをしたとかじゃない」
 いっそ悩みのすべてを打ち明けて、この鷹揚な夫が、なお同じことを請け合ってくれるかどうか試したくなったけれど、あけすけな態度が誰をも幸福にしない例を、私はそれまでに数多く見ていた。
 私は黙したまま、この「千鳥(ネッサス)」という三男を、ことのほか大事にした。
 この子はさいわい、視覚以外は発育がよく、気だても穏やかで辛抱強かった。
 私と夫は、彼に楽器を与え、お抱えの楽人を雇った。ただ音楽が、単調に陥るかも知れない人生に、楽しみと慰めをもたらしてくれればいいと、それだけを思った。

 ある日、何の前触れもなく家の戸口に立ったひとりの男の顔をみて、私は手にした糸巻きを取り落とした。二十年ぶりに見るゼフィルスだった。懐かしさが一気にこみ上げた。
 だが招き入れて冷静に観察すると、荷物らしい荷物を持っていない。風采から判断する限り、功名を遂げてきたようには見えない。
 そしてそれ以上に戸惑わされたことには、膜をひとつ隔てたように、どこかやりとりのテンポが合わないのだ。
 違和感の正体はすぐに分かった。耳の働きが失われて、相手の唇の動きから、かろうじて言葉を読みとっているのだった。
 匪賊にとらわれ、拷問により、煮えた鉛を両耳に注がれた。そう言って、自ら横鬢を分け露わにした耳の穴には、ドス黒い異物が嵌りこんでいた。    
 私の唇を凝視しながら、ゼフィルスは言葉を継いだ。一音ずつ手探り瀬踏みするような訥弁がそこにあった。
「ほかに行くところがない。迷惑はかけない」

 さいわいなこと、そのときの私には、生家に腰を据え、積み上げてきた二十年ぶんの余裕があった。何があろうと簡単には脅かされることはないだけの。そして傷ついた身内を助ける私に、誰も特別な申し開きは求めなかった。
 ゼフィルスは虚脱しているようでも、さすがに自分ひとりの生計のことだけは心算を持っていた。村で作られる雑貨品に絵を描きつけて工賃を得るというのだ。私は住まいと作業場を兼ねた庵を用意し、道具をととのえ、商売の関係筋に取り扱いの口を利いた。
 それだけの手筈をつけてやると、彼の生活は間もなく軌道に乗った。こちらから売り込んで歩かずとも、どうしたものか、定期的に注文が舞い込む。その対価で日常に必要なものをあがなうことが出来た。
 けれど私の中では、いよいよ失望の染みがひろがっていった。どうやら今の彼には、ここを足がかりにして、明日どうするという計画があるわけでもないらしい。私の目からは手すさびのように見える同じ絵を繰り返し描く毎日が続くだけだ。ごくわずかな必要以外、出歩くことさえしない。
 聴力の問題ではない。もっと根本的な何かが変わったのだと思った。あの日のゼフィルスはもう帰らない。遠くで起こった何かの出来事が、永久に彼を挫いてしまったのだ。
 それが何なのか、私は聞かなかった。そもそも二人だけになる機会がなかった。

 それでもただひとつ気になったのは、彼の絵の意匠だった。それが得体の知れぬ化生の鳥なのだ。姿勢を変え、見る向きを変え、布いっぱいに大きな一羽のこともあれば、無数の影を連ねて壺の肌に舞っていることもある。
 見るほどに奇怪な生き物だった。人面鳥身。広げられた緋色の翼。ウロコと鉤爪のついた脚。どの一羽を見ても、凄艶な女の顔が何かを叫んでいる。
 お世辞にもいい趣味と言われなかったが、街の風流人士の間ではこの鳥がいたく評判なのだという。
 それが何なのか、説明してくれたのは壺を扱う商人だった。
 イレニア海の妖鳥セイレーヌス。あやかしの声で歌い、通る船を惑わす。魅入られた船は、波間を迷って岩礁に砕け、船乗りたちの肉は鉤爪に裂かれ、嘴についばまれるという。ただ楽聖オルフェウスだけが、自らの竪琴でこれを迎え撃ち、逆に慴伏させたことがある。
 さる顧客が、特にこの絵師の経歴を知りたがっているというから、私はめずらしく自分で彼の庵に出向き、その旨を伝えた。
 ゼフィルスは微かに笑った。
「どうせならば、派手で思わせぶりなほうが喜ばれるだろう。ではこう伝えてくれ」
 この職人は、若い頃、イタケ島のオデュッセウス王の航海に随身し、イレニア海の難所を越えた者である。
 航海に先立ち、待ち受けるセイレーヌスの脅威への対策が講じられた。その男は、竪琴の腕に覚えはあったものの、オルフェウスの代役を買っては出なかった。ひとかどの巧者とはいえ、天下に自分以上の奏者など掃いて捨てるほどいる。
 結局オデュッセウスは、魔女キルケーの忠告にしたがい、配下の船員の耳を、特に調合した蝋で塞ぎ、聴覚を遮断した。そしてついにさしかかった魔の海で、はたして蝋は怪物の声を防ぎ止め、船は首尾よく危地を抜けた。
 だが、その後ただひとつ困ったことに、何日経っても、男の耳からだけは、秘法の蝋が出てこようとしなかった。
 振っても掻いても熱しても取れぬこの蝋の問題は、外界の音が聞こえないというだけではない。退けたはずのイレニア海の怪異・妖しい女声の叫びが、微かだが確実に、途切れもなく、いまもその耳の中で響いている。
 それはいわば燻製の豚肉が、吸い込んだ煙の香を保存するように、耳の中の蝋の一塊も、魔性の歌を蓄え、後あとまで小出しにしつづける。
 ここにある絵は、まさにその声を聞きながら、半ば魂を奪われながら描いている絵なのだと。
 ゼフィルスの目が陶然と焦点を失っていた。気がつけば、昔の淀みない調子が蘇っている。
 けれど私のほうは、書き留めているうちに、目の前の字の列が、何か潔くないもののように思えてきた。
 つまりこれは、ありがちな敗残者の繰り言ではないのか。
 その身が若く、力にあふれ、世界の中心にあった日々の物語。世にも稀なる受難は、偉大な使命にともなうこの世ならぬ辛苦を担えばこそ。
 そしてこの話は、そもそもの因果の発端に、「稀なる罪」を据えて、はじめて本来の形になるのかもしれない。
 私は指先が冷えてくるのを感じ、用が済むとすぐ庵を出た。
 口述の書きとりは、そのまま商人の手に渡した。その内容は、思惑どおり街の好事家たちを喜ばせと聞く。
 ただし私自身は、その日から、一連の仕事を家の者に引き継ぎ、怪鳥の絵のついた品物には手を触れぬことにした。

 それから数年。
 上の息子ふたりも嫁をとって一人前の男になり、私は家業の要になる部分の何割かを明け渡した。
 そうなると関心の中心にいるのは、十二になる盲目の三男ネッサスだった。
 彼の現在を見ることは私の喜びだったが、その将来を思うことは楽しいばかりではない。もとより一生遊んで暮らせる家産はあるが、ただそれ食いつぶすだけで、他人の尊敬を受けぬものになってほしくない。
 誕生日の節目に本人にそれを告げると、考えぬことではないらしく、向こうからも、まとまった言葉が返ってきた。子供のわりに、落ち着いて筋道だった話し方をする。
「お母さん心配しないでください。ぼくはこの通りの身体だし、まだ音楽のことしか知りません。でも先生が言っていました。一流の楽人ばかりが偉いのではない。二流には二流の生きる道があるって。並の才能でも、若いころからひとつの技を真剣にみがけば、食べられるくらいにはなる。腐らず怠けずその仕事に取り組めば、みんな少しは尊敬してくれるって。ぼくもそう思います」
 これには少なからず驚かされた。
 化け鳥の絵ばかり描く男のことを横に置くとすれば、それは決して間違った教えではない。ただそれを告げる時期と、具体的な事柄との照らし合わせかたが問題ではないか。
 私はお抱えの楽士を呼び、真意を問いただした。だがそこで楽士ピッテウスは意外なことを言い出した。
 さしあたりネッサス本人にはそのように言ったが、今の自分の本音は違う。彼の才能は並でない。基礎はすでに修得し、自分が教えるべきことは、ほどなく尽きるであろうという。
 たしかにネッサスの歌と竪琴は、親の欲目で見れば、すでにそれなりのものになっていた。近在でも評判を得ているというが、ただ私はそれを額面どおりには受け取っていない。後ろに家の影を見ての、おざなりの拍手ではないかと疑っている。
「そう、まさにそこなんですよ」
 ピッテウスはわが意を得たりと頷いた。
 金持ち坊ちゃんの旦那芸に終わるか、一曲に代価を惜しまれぬ本物の楽人として立つか。ネッサスの腕は、いままさにその岐路に立っているのだ。新たなる段階へ導くには、自分よりもふさわしい教師が必要で、しかもその人物は、すぐ身近にいる。
 その次なる教師こそが、我らが一族の絵付職人ゼフィルスだというのだ。
 私は唖然とした。一体耳の聞こえない男が、どう他人に音楽を教えるというのか。
「私と同じ年配の音楽を志す者は、みな憧れたものです。この間お目にかかりましたが、あの人はまだ弾けますよ」
 楽士はさらに熱弁を振るった。
 ゼフィルスには詩才がある。若いころの天才的なひらめきは別としても、柔軟に言葉を織りなし、時に盛りつけ、時に端折り、音符に乗せていく方法を幾通りも身につけている。
 そういう玄人の技術を、芸術的霊感から離れたところにある卑しいものと見る向きはたしかにあるが、実際に竪琴を弾いて収入を得るものとして、それがあるとないとでは、芸域と活動の機会がまるで違ってくる。
 そして楽人ゼフィルスの名は、この地方一帯で、まだ人の記憶にある。その血を引くものが、実際に教えを受け、その楽風の一端でも偲ばせるとすれば、それはほかにない強い「ひき」になるだろう。
「たとえ技巧は達者でも、売り出すときの華がないばかりに、機会をつかめず、結局のところ大成できぬものが、世にどれだけいるか。そう、私のように」
 ピッテウスの言葉には、専門家らしい力があった。

 ゼフィルスとの交渉には夫が当たった。
 私はこの話に、ひとつだけ自分から条件を出した。
 ネッサスを教えている間は、それなりの謝礼を提供するから、あの化け鳥をもう描かないでほしい。
 申し出を受けたゼフィルスは、顎に手を当てて思案したすえ、「まずは本人の構えを見てからだ」と言い放ったという。
 だが、その構えに何か感じるところがあったのか、結果を言えば、ゼフィルスは意外にあっさり絵筆を捨て、ネッサスの師になった。
 ネッサスがロバの引く荷車に乗ってゼフィルスのもとへ通いはじめてからも、半信半疑の私は、幾度となくそこへ斥候を送りこんだ。報告は、絵の道具は見当たらず、新しい師弟の光景は、ピッテウスによるものと変わるところがないという。
 私は経過を見守り続けた。
 畑に播かれた麻の種が、芽を出し、やがて風に音を立てて葉を揺らすころになると、家でのネッサスに変化が現れた。
 爪弾く竪琴の音に、上等の黄麻のような艶と張りが出てきたことが素人の耳にも分かった。
 そして顔つきが明るくなっている。よく笑い、口数も多くなったと他人が言う。
 ついに私は、自らこっそり荷車の後を追い、庵の節穴から中の様子をうかがった。
 ひさしぶりに覗き見るゼフィルスは、すっかり髪に霜が降りていたが、かつてより表情が寛いでいる。その理由はすぐに知れた。対話のとき、相手の唇を凝視していないからである。
 驚いたことに、ネッサスが師に向かって、数々の不思議な手振りを次々に繰り出しているのだった。
 それが一種の符丁となって、聾者へ意思を伝えるらしい。音楽の素養が共通の基礎となっているのか、私にはまるで読み解けぬ仕草が多かったが、そのひとつひとつが、どうしても気持ちを伝えたいという熱意に溢れていた。
 もはや私も、ピッテウスの先見を認めないわけにはいかなくなった。物事は、私のいないところで着実にすすんでいる。
 やがてネッサスには、新進の楽士・吟遊詩人として、あちこちから演奏のお呼びがかかるようにもなった。そこへ至るまで、ゼフィルスが眠っていた自分の人脈をふたたび掘り起こし活用してくれたという。
 師弟は二人して荷車で出かけいき、貨幣の袋を携えて帰ってきた。互いの目と耳を補い合う、誂えたようないい道連れだと夫が言った。
 その期の謝礼を、私は自分の手から差し出した。ゼフィルスの耳には、まだあの黒い鉛だか蝋だかが嵌っていたが、私を見る目には穏やかな礼譲が浮かんでいた。
 私は誰も見ていないとき、ネッサスの印象的な手振りを、すこしだけ真似てみるようになった。

 村に春祭の準備期間が訪れていた。天気は良いが、強い風が時おり窓枠を揺する。
いつの間にかネッサスも当事者である十五という年になっている。彼には無縁と諦めていたのに、評判の楽士として、中心に近い席が設けられることを知ったときの、私の喜びは無上だった。
 機をたたみ、頭にスカーフを巻いて、そっと様子を見に行こうとしたそのとき、戸口に来訪者の影が差した。
 ゼフィルスがこの家にやってくるのは、この十年で二度目だった。
「折り入って話がある」
 テーブルを挟んで、私たち夫婦と向き合ったゼフィルスは、単刀直入に切り出した。
「ネッサスを旅に出すべきだ」
 すでにピッテウスとも相談して、彼も同じ意見だという。
 そのピッテウスが三年前、最初に「岐路」という言葉を使ったが、いまネッサスの人生にもう一度それが訪れている。今度は、地方の一名人で終わるか、世界で唯一のものを手にするかの。
「そのためには一度広い世間を旅し、人間と世界を深く知らねばならないと思う」
 夫が反射的に、掌で相手を押しとどめる仕草をした。
「そう言っていただけると親として何よりですし、まあいずれ仕事の暇をみまして、三人で遠出ということも」
「あなたがたではダメなんだ」
 ゼフィルスは身を乗り出した。
「おれがネッサスの杖になろう」
 顔を見合わせた私たちに、今度は諭すような口調になった。
「心配なのは分かる。むかし見得を切って飛び出したあげく下手を打って帰ってきた馬鹿者がいたからな。だが、今度は同じ轍を踏ませないためにこそ、おれがついて行くんだ」
 そしてゼフィルスは帰り際にも念を押していった。
「今日明日にとは言わない。付き添いもおれでなくて構わない。とにかく、ここがあいつの分かれ目なんだ。ここで男ふたりを育て上げたあなたがたならば、おれの言いたいことが分かるだろう」
 訪問者の出て行ったドアが風に翻って騒がしく往復する。
 私たちはふたり黙り合った。
 たしかにその指摘は、こちらの弱い箇所を鋭く刺した。ゼフィルスが本当に言おうとしたのは、単に音楽に関する問題ではない。ネッサスが青年として、大人の男として、自分を形作っていくことにかかわる話なのだ。

 それから何日かして、夫は遠い街まで、世間の情報を集めに出かけた。まだ何とも結論めいた話は出ていないが、やはり彼にもゼフィルスの言葉が響いている。
 私は夜、ひとりの寝室で、悪い夢にうなされた。
 広い海原で、ネッサスを乗せた小舟にめがけて、群がり飛ぶ化け鳥が次々に襲いかかる。潮騒に怪鳥の叫喚が入り混じり、抜け落ちた羽が禍々しく宙を舞う。
 私は目を覆い、何度もわが子の名を叫んだように思う。
「ここにいますよ、お母さん」
 目覚めればネッサスが枕元に立ち、私の手を握っていた。月光が窓から差して、彼の顔の半分を照らしていた。
「どんな夢を見たんですか」
 私はいつになく気弱になって、夢の内容を息子に話した。
「怪物、ですか」
 ネッサスは私の手を放し、馴染みの杖を取り直すと、傍らの椅子にゆっくり腰を下ろした。
「広い世の中のどこかに、本当にそういうものがいるんでしょうか。それとも何かの比喩なんでしょうか」
 答えようのない問いだった。
「いずれにせよ怖くはありません。そんなものに何ができるでしょうか。物語をご覧なさい。ヤツらは人間の偉大さを際立たせるためにいるのですよ」
 それからネッサスは思案するように、杖で床をコツコツ叩く。
「怖いといえばね、お母さん、ぼくはそんなものより、地を這っている毒蛇一匹が怖い。軒からぶら下がる蜂の巣が怖い。足元の小石ひとつが怖い。家のドアを一歩出れば、いくらでもあります。けれど、だからといって…」
 手で、話を打ち切る仕草をし、ネッサスは懐から何かを取り出した。
「昼間にもらいました。声のいい優しい娘でした」
 月光に白く照らされたそれは、一輪の百合の花だった。
 
 出発の朝が来た。
 空は晴れ、道が遠くまで白く続いて見えた。
 ネッサスは見送りに来た若い娘たちに囲まれていた。
 夫は荷車の御者に注意を与えている。
 旅装のゼフィルスはといえば、髪を短くして裾をしぼり、西風に目を細めるその姿が、いやおうなく私に遠い日を思い起こさせた。
『私は一度しっかり、あなたの歌と物語を聞きたかったように思います』
 今更ながら、私は出来るかぎりの身振りを交えて彼に伝えた。
 孤独なゼフィルスがどんな苦しみを悩んだのか、本当に私はいまだに何も知らないのだった。
「帰ってきたら息子に頼め。これから名声を響かせるあの男に」
 ゼフィルスは笑った。
 荷車の準備が整ったようだった。
『では道中お気をつけて。また必ず会いましょう』
 惜別の表現は、軽く両腕を開く仕草にとどめるつもりだったのに、風に背を押され、よろめいて受け止められたことで、それは本当に抱擁の形になってしまった。
 これを親しき身内の自然な別れの挨拶、と呼んでも許されるだろうか。
 ほんの一呼吸の間に、私はゼフィルスの耳に自分の耳を合わせ、潮騒とセイレーヌスの歌声を聴きとろうとした。


磐縒姫(いわよりひめ)

「武州霞山城の天守に、磐縒姫なるものの棲まう。春秋長じ、性は峻刻狷介、ただ藩侯城主のみ、これに咫尺を得る」/『坂東百物語』

「弘化三年閏五月、式部少輔殿、御継嗣のかくれたまひしに、鏡櫛紅、三器の儀もて、天守は巌撚の間へ参籠、一念通天、失せびと三途関頭より帰り来たり」/『霞山藩譜』


21:42

 行方不明の小学四年の女児の姓が「設楽」と聞いて、霞山警察署は、当初から、あらたまった対応を取った。
 設楽家とは、旧城主で明治の県令、今もなお市内外に多くの地所を有し、要職者を輩出している権門で、副署長・設楽祐一警視もそのひとりであった。
 捜索を願い出たのは、女児の母親、副署長の従妹にあたる四十五の婦人で、系図からいえば七万石の最も正統な後裔だという。
 この地ではすべての機会に上座を譲られるという彼女だったが、新任の若い署長にとっては、今日このとき、署長室にての応対が初の顔合わせになった。
 差し出された名刺には、「変わらぬ美しさを求めて/日本ヴェルメイユ化粧品/取締役・設楽彩香」
なるほど話ぶりは理路整然としているし、身なりは相応、物腰も上品だったが、ただひとつ残念なことに容貌がまずかった。
 ひととおりの話を聞き、丁重に送り出した後、署長は、同席の副署長にいくつか確認すべき事項を質した。
「ヴェルメイユにお勤めなのだな」
「ソルボンヌで化学を専攻しまして」
「ふむ。で、その子の父親というひとは」
「彩香は独り身です。百合の生みのふた親は、遠縁のものでしたが、五年前、自動車事故で亡くなりました。引き取って養女にしたんです」
「複雑な家庭の事情、かね」
 キャビネットに並んだファイルに目を投げて、署長が重々しく腕組をするのを、設楽祐一は言下に遮った。
「違う。あれはそんな人間ではありません。このことは、そういう話ではないのです」
 年長の部下は、それきり背を向けて、窓の外、間近に黒く聳える霞山城天守を見上げていた。


22:30

 城下公園の一角で、持ち物のポーチが発見され、その周辺から「ひとりで歩いていた」という複数の目撃情報も上がってきた。
 一帯の監視カメラの映像を解析した結果を受け、警察は、城の中曲輪を中心とする延べ面積四千平方メートルに範囲をしぼり、三次元的捜索を展開した。
 幸い濠は涸れている。昼間は観光バスがとまる駐車場に県警の輸送車が並び、警察犬は地面を嗅ぎまわり、動員された鳶組の男たちが、そこここで瓦屋根を踏んだ。
 時ならずしてライトアップされた天守に、濠端で多くの市民が立ち止って見上げた。


23:06

 風が雨を孕みつつあったが 設楽彩香は書院入口に立ちつくしていた。
 手に握られているのは、今朝まで娘が持っていたGPS端末。
 だいたい娘は、感情的な脆さが目立つ子だから、少しは幅がきくように、やれ誕生会のクリスマス会のと手厚く出費してみれば、何のことはない、百合はそれらのモノの力を借りて、強い子に取り入り、弱い子をいじめていた。
 聞いて涙が出たのが初めてなら、手を挙げて頬を打ったのも初めてで、家を飛び出して行ったのが今朝のことなら、とどのつまりがこのとおり。

「彩ちゃん」
 雨が強くなってきたところへ、後ろから傘をさしかけられた。
 彩香が会釈すると、設楽祐一は無言でクリップボードの写真を差し出した。
「3階床/C7」という注釈がある。図上、鑑識によってマーキングされた19センチの靴跡の列。それが広間の中央でいきなり途絶えている絵面の異様さ。殴り書きの「!?」は、鑑識係員の心の底からの悲鳴だろう。
 だが設楽の人間にとっては、それは初めて聞く話でもない。
「兄さん、力を貸して下さいますか」
 彩香が驚く風もなくハンドバックから取り出した桐箱を見て、思わず背筋が伸びた。
 重要文化財指定の和鏡である。
 四十年前これを最後に見たときの光景が、祐一の脳裏によみがえった。
 昭和四十六年、この地でただ一度、十一月に積雪を見たまさにその日、祭儀は執り行われた。
 いまは亡き十五代当主の伯父のあとについて、供奉の稚児役として、十の自分と六歳の彩香が、三器の載った折敷を、捧げ持って続いた。
 櫛と鏡が、降る雪に半ば覆われても、紅だけは雪を溶かし、かえって自らを際立たせた。
「これから櫛と紅を用意してきます。こちらでも段取りをねがえますか」
「出来ることはする。しかし紅は…」
 ただの紅ではない。単純な色味だけとっても、他では見たことがない。家伝の漆器に入っていたが、あのとき最後のひとすくいまでが献じられ、その後どうなったのか。
 彩香は答える代りに、ただかすかに笑った。
『そのことなら大丈夫』
 見慣れた従妹の顔に、不意に伯父の面影が重なった。


23:42

 彩香が最初に立ち寄ったのは病院だった。
 専用直通のエレベーターに乗り、厚い絨毯を踏み、一番奥の個室のドアを叩く。
 華とレースに囲まれたベッドで、テレビをつけたまま、母はクッションにもたれていた。
「遅くにごめんなさい」
 返事はない。ただ画面のボリショイバレエに見入っている。もう何十度目か、ジゼルを裏切るアルブレヒトの不実に唇を噛んでいる。
 彩香はベッドの縁に座り、ハンカチで母の額の汗をふき、前髪のほつれをヘアピンで止めた。
 その艶のある肌 黒い髪。
 いまのこの母の内面を、何歳相当と見るべきかは知らないが、容姿だけは、間違いなく若い。社の広告に起用する同年代のタレントなどよりも。
 それもそのはず。彼女こそは、その花も盛り、町中が熱狂したシンデレラ・ストーリーのヒロインだった。
 生まれ育ったのは、決して裕福でない家庭。縫製工場のお針娘が、一世一代の運命のいたずら、経営者一族のプリンスに見そめられ、婚礼の日には、オープンカーにのって紙吹雪の中、目抜き通りをパレードした。
 この日のウェディングドレスが、彩香誕生の折、バレエのチュチュに仕立て直されたことまでを、当時の地方紙は報じている。
 黄ばんだモノクロ写真の中、誇らしげにそれをひろげる母の瞳では、少女時代の夢が原色の花弁を開き、それがため、ひとつ簡単なことが見えていなかったのだとしか思えない。
 七歳の誕生日、トゥシューズとともにそれを差し出されて、それから三年間、疑いもせず、週四日の厳しいレッスンに耐えた。
 その彩香を、発表会の当日、市民ホールの楽屋の隅で待ち受けていたのは、絢爛なチュチュを着た猿の落書きだった。
 誰をあらわしているかは一目で分かった。その位置を一歩も動けぬまま、なすすべもなく膝が笑い続けた。
 さすがに自分の容姿は知っていた。そのうえで、そこまで彩香の胸を抉ったのは、それがそのまま新聞の政治面にでも載りそうな、洒脱な大人のタッチだったことだった。
 壁はその日のうちに左官が塗り替えたが、損なわれたものは戻らなかった。
 母娘の修羅場が幕を開け、続けるやめる、逆らう逆らわないの押し問答の果て、それだけは言うまいと思っていた陳腐な文句が口を突いた。
「どうしてもっと…」
 飲み下した後半は、実際口に出したも同じだった。
「お前が勝手に…」
 それに続く母の言葉を、まさしく自分が容易に想像できるように。
『お前が勝手に、不細工に生まれてきたんじゃないの』
 感情のままそう言い返さなかったくらいには、このひとも大人だったのだ。
「お母さん、少し借りるわね」
 両手を伸ばし、母の頭から櫛を抜くと、思いのほか白くなった髪が背へと流れた。


24:10

 関越自動車道を、都心へとひた走る。プジョーRCZのフロントガラスに雨滴が弾け、ワイパーの域外にオレンジの照明が滲む。コンテナトレーラーの縦隊を、縫うように躱して前へ出る。
 アクセルを踏み切ると、右膝の古い傷がかすかに痛んだ。30年も前、ハードル競技中に痛めた傷が、雨の日に負荷をかけられるといまだにうずく。
 あの怪我なかりせば、という後悔も、気がつけばいつ以来か。
 陸上に打ち込んでいた中学の夏の日。
 もうお仕着せの習いごとは、バレエだけてなく、華もピアノもやめていた。
 ここは目に見える実力の世界。外見も家柄も関係なく、抜き去られた者は、ただ黙るしかない。
 それが、放課後の自由になる恵まれた子供の理屈、とはまだ気づかなかった。
 何本かの白いテープを切り、県内の強豪高校からお呼びがかかったところで、右膝靭帯が壊れた。
 高価な最新治療も、医師の宣告を覆さず、憧れた紛れのない世界は、まさに垂直の岩壁のように身じろぎもせず自分を拒んだ。

 ギブスが取れて早々に、転機は訪れた。
 家の蔵を訪ねて、ひとりの大学院生の青年があらわれた。明治のアマチュア博物学者・設楽精慧の集めた鉱物や昆虫の標本修復を任されたという。
 三階五層の複雑怪奇の構造を、幼いころから遊び場にしていた彩香が手を引いた。
 彼がアタッシュケースを開き、標本を展翅する繊細な手つきに、彩香は息を詰めて見入った。
 このモルフォ蝶の青をね、すり潰して外へ取り出そうとした者は大勢いるけれど、誰も成功しなかった。何故だと思う? 彩香さん。
 彼が来春から霞山女子に奉職すると聞いて、そのとき彩香の進路も決まった。入学式の日、彼が顧問を務める新設の地学部へ入部届を出した。
 おそらく最初で最後の、激しくも淡い感情だった。それ自体はどこにも結実しなかったが、鉱石を砕いてフラスコを振った三年の時間が、ひとりの人間の行く末を固めた。
 その後、筑波に六年、パリ第Ⅵ大学に六年、サン・エティエンヌ研究所に十年。

 6区のラグランジュ街に「Le club des couleurs perdues(失われた色クラブ)」というサロンがあった。
 人生の宿題として追い求める工芸的な色がある。それが会員の条件だった。
 フェニキアのティリアン・パープル。セネガルの丹の橙。宋代の青磁の釉薬。エル・グレコの緑。チャンカイ文化の織物の白。
 色そのものの講釈は多く聞かされた。その由来。その希少性。そのはかなさ。
 だが今はそれよりも、彼ら各々が抱えていたであろう一人称の物語が気にかかる。ひとりの人間がある色を追うに先立って、その色が人の心を捉えて囲い込む、その機微をこそ聞いてみたかった。
 彩香の「運命の色」は、あの雪の日を最後に、失われた紅の色だった。
 再現の試みは、高校時代にまでさかのぼる。
 ふとくぐった山門は、果てのないつづら折りの入り口で、それから今にわたり、和漢洋の原料と、最新と最古の技法を、取り替え引き換え、実験台に乗せた。
 古い家も古い街も好きでなかったはずなのに、なぜ家伝の紅。自分はただ出来ぬことに対し、意地になっているのか。
 迷いながらもデータは積み重なり、年を経るごと、紛れの水分は飛びゆき、求める紅色はますます眼の底で鮮やかになっていった。


25:07

 プジョーは、江東区・ヴェルメイユ本社研究センターの地下駐車場に滑り込んだ。
 何重もの個人認証をくぐり、三階の自室に達する。
 金庫を開き、シャーレを取り出した。
 てのひらの上、四十年ぶりにこの世に現れた紅色が光る。
 常温で安定が確認できたのが実に一昨日のこと。四十年。正確には、あの雪の日から、39年と180日。
 書き連ねてきたヘキサの羅列は、ついに収斂した。
 はじめてHPLCの蓋を取った瞬間から、成ったという確信はあった。
 そう。成ったればこそ、自分はいま、このタイミングで、こうして呼ばれているのだ。紅の本来の主である化生の存在から。
 と同時に、これは警告でもある。
 価値と占有をめぐる不易の関数をここにも見ねばならない。
 新製品の第三者への提供禁止は、業界内、あるいはVIPとのオーダーメイド契約としては格別珍しくもない話だ。
 かつて疑い深いクライアントのもとへ、製法データの紙ファイルを丸ごとトラックで搬入したこともある。
 ともかくも、そこだけは技術の進歩、たった一枚のSDカードをバッグにしまいこみながら、思わず溜息が出た。一段落したら、役員規約の「背任」の項目を熟読せねばならない。
 帰りの廊下で、懐中電灯を手にした守衛と行きあった。
「夜分お疲れ様です。ご用は済みましたか」
「ええ、ここでは。ありがとう」
 敬礼しようとする彼の所作を押しとどめ、半ば無理やり、自分のIDカードと施設の鍵一式を、その手に握らせた。


26:15

 霞山城の雨は上がっていた。喧騒は去り、静寂の中、祭儀は始まっていた。
 篝火が、白壁に長い影を落とし、人間そのものさえ影絵芝居のように物を云わなかった。
 当主を先頭にした行列は、玉砂利を鳴らしながら、白い蛇のように郭内をうねり、要所で尾を切り離して進んだ。
 中核の六人だけが天守の扉をくぐり、最後まで隋身した稚児二人も、第三層への階段の手前で、役目を終える。
 ここからがソロパート。
 彩香は、幼きものたちを目顔でねぎらいながら、四十年前、見送った父の背を思い出した。

 三層目では、一部で観光順路をなぞる。
 壁には、歴代城主の肖像や系図などのパネルが並び、反対の壁には磐縒明神の由来が説かれている。
『霞山の地祇・磐縒の起源は、元和二年の本城築城に先立ち、遠く神代にまで遡ります』
 この関東平野の片隅に、ようやく人の生活の煙が立ちのぼり始めた原初の時代。
 足を止め想像してみる。
 その頃、化粧は神事に属し、祝祭のときだけ、ひとはその余分にあずかり得た。いま頬に乗った伝統の白粉は、不自由な時代に似て鈍く重い。
 それから何と多くの時が流れたことか。
 今日、人は地に満ち、自らを彩る色を千万となく溢れさせた。ただひとつの神の色を、尽き果てるにまかせたまま。
 神の嘆きはいかばかりか。
 天を覆い、地を裂くかわり、「彼女」の指は、ただ因縁の糸を静かに手繰った。
 その結果。
 失われたものを正しく補給するため、系図の上に置かれたチェスの駒。それが自分というものの意味ではないのか。あたかも城の基礎に組み入れられる一石のように。あるいはヘキサの一角に配される原子のように。
 最上層への階段へ足をかける。
 それならばそれでもよい。感情は平静だった。
 子供を人質にとったことも一概に卑怯と責められまい。
 名君の誉れ高き設楽家の祖さえ、戦国のならい、敵性の武将に対して同じことをやったではないか。
 窓から見える空にはもう星が光っている。

 最上層。
 この稲妻模様の襖の向こう、千年を生きた「彼女」はおわす。
 心中をもう一度照らしてみた。含むところはない。心底から。何一つとして。
 ただし今夜、この身に代えても、刺し違えても、百合だけは無傷で返してもらう。
 五年前の夏、菩提寺の位牌に手を合わせ誓った。聞けば自分より若くして奇禍に逝った二人だった。
 住持の読経の声に、本堂の四方から蝉しぐれが被さる。
 安らかにお眠りください。至らぬ者ながら、私は、今日からこの子の命を、自分の命の上に置きます。
 驚天動地の倒錯は、親子ならばごくありふれたこと。子のためならば親は火の中へでもゆくだろう。
 彩香は襖を開けた。
 正面に垂らされた御簾の表を、月光がさやけく照らしている。
 高麗べりの畳の上を、折敷を捧げ持って膝立ちで前進する。
 長い演し物のラストシーン。長距離走の最後のホームストレート。
 所定の位置まで来たところで、目を伏せたまま、わずかに御簾をあげて折敷を差し入れた。
『神よ、ご照覧あれ』
 断崖へと寄せる波濤のように、耳の中の血流が鳴るのを、彩香は聞いていた。

 一拍の後、それは起こった。
 目の前の御簾の端から、百合が寝返りを打つように転がり出てきたのだ。
『まるで自動販売機…』
 口角があがったのは安堵のためだった。
 抱きとって、額にかかる前髪を払う。目は閉じられているが、呼吸は安らかである。重みが腕に懐かしい。この 子が家に来た頃、よくこうして、眠っているところを抱きあげ、意味もなく鏡の前に立ったりしたものだ。
 その重さだけに心を寄せて、きつく目を閉じた。
「Merci beaucoup Maitresse!」
 第十六代当主の声が、今夜はじめて天守に響いた。


 退出の際、敷居の外で向き直り、百合を抱いたまま指の先で襖をしめる。
 そのとき御簾越しにはっきり何かの気配を感じた。
 彩香は一度だけその奥へ目を凝らす。
 ふいに思い出した。ずっと忘れていたひとつのこと。自分は「彼女」の顔を知っている。それもはるか昔から。拠るところが絵なのか夢なのか想像なのか、思い出せないがとにかく知っている。
 濡羽の黒髪に、みずみずしい雪の肌。月のように冴え輝く面輪の磐縒姫。
 御簾の向こう、紅を乗せた唇が笑ったような気がした。

了                             

覆面作家企画6

2014/08/09 【未分類
参加します。
主催のネジ子様、ありがとうございます。
期間中は当サイト、内容を簡素化して臨んでおります。

覆面作家企画6 Bブロック感想

2014/09/13 【覆面作家企画6 
B01 異端審問官と異端の聖女

火刑のシーンが美しく印象的でした。回避する政治的選択もありえたと思うけど、作者様、やはりこのシーンが描きたかったのでしょう。読者であるこっちも読みたいし、民衆たちも、何だかんだ言いながらゾロゾロ広場に集ってきますよ。ああ、ひとはみな罪びとなり。ところで実際の火刑って、火傷以前に、まず煙に咽喉と肺をやられる、というのですけどね。
(追記 後から教えていただきましたが、焼き殺すことを目的として煙が出ないように薪を積む、より過酷な火刑というのがあるのだそうです。作者様、失礼をいたしました!)


B02  誰か

少年の隣に越してくるワケアリの綺麗なお姉さん。これはツルゲーネフの「初恋」以来のジャンルですね。少年がワケアリ状況にどこまでコミットしうるかがミソなんだけど、この作品の彼に出来ることは、その身体の健康上、限られている。出だしの啖呵は小気味いいけどやはり気の毒です。


B03 <激情>の魔女

青鬼の出てこない「泣いた赤鬼」という見方も。「激情さん」の内心をアッサリ見透かすイル青年。お父さんは普通だけど、お母さん大物すぎ。「一角獣に求愛する馬」は見事な比喩ですね。イルと同じ立場に置かれた人間は、噛みしめなくてはならないと思います。


B04 サンシャーラ 

うわ、これは…何か迫ってくるな。特異で、通りのよくないはずの世界設定が、くだくだしい説明もないのにスッと腑に落ちる。あ、その「名前」のくだり、伏線だったんだ! 微妙なエロティシズムも出色。うーん、この作品は、ちょっとスゴイよ。


B05 人類に炎を取り戻してくれたペンギンのお話 

はあ、これがいまチマタで話題の…。 体重「リンゴ17個分」ってキティちゃんか!ナレーションの合間から時折、顔を覗かせる語り手のキャラクターがいいですね。「火」は、ややマクガフィン気味。


B06 闇盗人

男の存在感がすごい。で、思ったんだけど、彼の語る劇中劇って、望みのものを得るための即興なのでは。展開も結末も、相手の反応を見ての手探りで。この男ならそれぐらいの芸当、やってのけそうですよ。ストーリー・テラーも男性であれば、やはり究極の目的っていったらそれしかない。女はというと、暴虐な男の手の中で命をつなぐために、千の話を語ったりもするのですが。


B07魔法使いの弟子と赤の受難 

お師匠のキャラに、「赤ずきんちゃちゃ」のセラヴィを思い出しました。魔法の術式のところ、背景は難解なんだけど、当座読むのに必要なことはじゅうぶん伝わる巧みなバランス。小さいほうのカエル可愛い!


B08 クルーム・ルージュは屍に帰す

薨御なんて言葉知りませんでした。調べたら崩御の1ランク下だそうで、付焼刃ではこんなターム出て来ない気がします。個人の視点から天下国家の話になり、最後にはそれをも歴史的に俯瞰してゆく構成がいいです。ポルポト派は関係なかった。


B09 狐の嫁入り

話柄も叙述も明朗で明解で、読んで心地よくなりました。いいお話でした。若い男が、記憶喪失の娘に転がり込まれて奇妙な共同生活ってシチュエーション、憧れますね。作者様は、江戸もの、少なくとも、よく読みつけてはいらっしゃるはず。


B10 Kindling !

タイトルの意味、調べてみたら、物理的な「発火・点火」から、さらに抽象的な意味まで。派生語も盛り沢山。あのアマゾンの電子書籍端末とか。設定の不思議さもあいまって、いろんなことを想像させるお話。あと、お手すきのかた「ハイジャック 語源」でググってみて。


B11 夜の灯しびと 

メイがお化粧を始める時点で嫌な予感が頭をよぎる。幸いそれは自分の予断に過ぎなかったけれど、その「自分の予断」にすぎないものを、他人に無理やり投影してくるバカもいる(作中に)。「怖いかい?」「わかんない」の会話、さりげなく深い。「怖さ」と「分からなさ」はここでは同義。


B12 キタキタ

とにかく怪談の、恐怖の、ツボってツボをはずさず抑えてくる。この作者様タダモノじゃないな。どなただろう。いや、ほんと怖い。

覆面作家企画6 Cブロック感想

2014/09/13 【覆面作家企画6 
C01 天翔る竜と天下無双のドラゴン娘!(仮)

時系列の配置が効果的。特に最後のそれはズルイぞ。今度自分も真似するとしよう。
日本人なら、今から百年たっても、夏は虫取り網に麦茶ですよ。そんなの常識ですよ。
「最後の一頭の竜」という立ち位置、サムアップ溶鉱炉のターミネーター2をちょっと思い出した。
好きなお話なんで、つい感想がハイになりました。


C02 桜都狂騒劇場

この方もネーミングセンスがあって文章がうまい。キャラ造形もお手の物という感じ。
BLの定義って正確には知らないが、少なくとも前奏曲は鳴っている。過去に東が傷だらけになって帰ってきたというくだり、さりげない書き方だけど、重大な転機だったんだろうな。
ちなみに、自分の採るBLジャンルの見分け方は次の通り。その作品世界において、ある男が別の男に対して性的感情を抱くにあたり、その結果として、旧来の社会常識・性愛観から逸脱してしまうことへの抵抗感や心理的障壁が皆無、ないしは著しく少ない。


C03 時よ止まれ、汝は美しい

リアリスト対ロマンチストの現実把握をめぐる対決。軍配はどっちにあがったんだろう。リドル。
「男は」「男が」って、すごく俯瞰した視点も印象的だが、これは字数制限と関係あるかも。時折ドキッとするほど生彩のあるセンテンスが顔を覗かせる。


C04 ほんとうの救世主

いわゆるパーティにおける「勇者」ってのは何なんでしょうね。職能? 役掌? それとも単なる形容? 土壇場で誰も言うことなんか聞かないくせに、後で責任だけは被せられる。
思う間に、ジャンルごとひっくり返され、聞こえるのは平和な子供の寝息。ウーム。


C05 ともしびの揺れる

認知症のひとの一人称の文体というのは、実験的というか前衛的たりうる試みだと思います。
自分の周りでも最近、成年後見をめぐる問題があって身につまされます。


C06 あの温もりを思い出せない

職務質問されそう。っていうか、この際されて下さい。
この子、もともと賢かったんじゃないんだ。先生に褒められたくて猛勉強したんだ。うん、分かる。
夜の公園の砂場にスコップとバケツの情景がいい。
ガソリンはどこから調達したのだろう。家の車のタンクあたりか。ではキーは?  開口レバーの位置は? ポンプは?
そういうディティールは大事だと思います。そのへんを詰めるうち、主人公にも書き手にも、破滅的行動への迷いが生じたりするから。そうなれば幸いというべきでしょう。


C08 深夜ドラマは30分ものに限る

この、ほとんど必然性の感じられないタイトルからして、人を食っていて面白い。
「ありのままのヅラ」! 「アナ雪」に絡め、スゴイ矛盾に満ちたフレーズ。
メガネの件でちゃんと推理謎解きもしているし、最後にジャンルのお約束を一刺し。笑いました。


C08 火刑に処す

語りが魅惑的。ネーミングセンス最高。「南雲どの南雲どの」って、心地よいアルトのルフランが読後も響く。
話自体もすごくいいんだけど、「その立場」から「そういうこと」になった女性を、即火あぶりの刑って、さすがに乱暴で、世界観にもそぐわないかも。そっと伏せておきたいことに、かえって世間の耳目も集めてしまうし。
とりあえず蔵にでも幽閉しておいて、そこがたまたま火事になって、何故か救助が後回しにされて間に合わなくて、そういう一連の顛末を、「あれは火刑でした」って南雲が総括する、というのでは弱いでしょうか。


C09 真夏のブーメラン

深海いわしさんのご感想にある「過去改変の期待」を自分も抱きました。そうはならなかったけど。
ただコータが幼い三人に与えた注意はきっと無駄にはなっていない。あっちとこっちで世界線が分岐しているというだけでしょう。
もしかしたらですね、その「過去改変の期待」を、コータ自身も一度頭に浮かべたかも知れない。そこ、もうちょっとハッキリ書かれたほうがいいと感じますが。
でもやっぱり自分はこの人生を、この世界を生きるしかないっていう潔さが描かれているようにも思えます。
火曜日、花火大会。


C10 あなたの健康を損なうおそれがあります

異能エージェントたちのひと仕事。軽快なお話にふさわしい、読みやすい文章。
「酔拳関係あったか分かんねーし」というところで吹き出しました。分かる。彼らの異能の技もさることながら、やっぱりいっぺんナマで拝んでみたいですよね。酔拳。


C11 この気持ちにつける名前をまだ知らない

夜になると起きてくるひと・エミールからすれば、人間の、少女の寿命なんかハムスターのようなもの。全身全霊で愛す価値がない、愛してもはじまらない、そのちっぽけな存在が、何でこうも愛しいのか。何この感情、っていうね。ティカほんとにすごく可愛い。
提灯。


C12 緋蓮

このお話、粗筋だけ聞いたなら、自分、言ってますよ。「カァ~、ペッ!パス!」って。絶対。でも読んでみるとこれがすごくイイんだ。
中央アジア・シルクロードの国の午後の物憂さ。しかしどこかで静かに燃えている種火。
この企画でなければ読めなかった。企画万歳。C12万歳。

覆面作家企画6 Fブロック感想

2014/09/14 【覆面作家企画6 
F01 アイ・アム・ファイヤーマン!

読みやすく楽しい。火の玉くんの「しつこ可愛い」キャラは、キュウベエというより、さくらももこのコジコジみたい。小癪な科学知識まであるしw
名前から勘違いが起こるところの理屈付けがよく出来ている。「次、二問目、日野男!」とか、本当に先生が言いそう。
環境が汚れると心が荒む、は真理かも。自分も少し部屋を片付けようか。


F02 命がけの結婚

ラブコメ王道かと思いきや冥府魔道。「刀と手毬、どちらを選ぶぞ、大五郎」っていうアレ。
痛々しいな、その選択は。どなたが書かれたか気になって、すでに上がっている推理を覗き見してきたほど。読み返して、やはり彼女の覚悟の痛ましさに、思わず目を伏せる。


F03 僕も愛しているよ

外見と実際の性別が異なるふたり、エンジはすぐダニーを女と見抜くが、ダニーは最後まで相手のことが分からない。
さもありなんと思う。男のスカートは女のズボンより重い。一般に、女装の男は、男装の女より、遥かに屈託して複雑な内面を持つ。そのぶん他者のこともよく見ている。
エンジの中に流れる「魔物の血」って、その複雑な内面の比喩とさえ自分には読める。


F04 「幸福な食卓」

夜の夜中にこういうタイトルのお話を読みました。もうテロられる気満々です。そして本当に料理が美味しそうでした。
主人公が、街の食材関係の業者さんたちと、血の通ったネットワークを築いているところとかも、頼もしいです。魔力もいいけれど、そっちも大事。


F05 火と水の婚姻

中島みゆきの名曲「炎と水」を思い出しました。本当にそういう歌詞なんですよ。
モチーフそのものは思い付きがちではあるものの、それをブレずに、ここまでしっかりした形にするには、相当な力量が必要と思います。
説明とか、簡にして要を得て大変上手い。


F06 夕星☆えとらんぜ

お、壁ドンだ。フィクションながら、初めて現場を見たぞ。「彼は私に壁ドンした」とかの表現をも覚悟していたけど、繊細な言葉遣いでした。失礼しました。明星をバックに背負い正体をあらわしていくシーンの、カメラワークに迫力があります。


F07 火のないところに煙を立てるお仕事です。

一人称のナレーションなんだけど、最初はそう見えない。話者が周到に狡猾に自分の気配を殺しているから。このへん上手いなー。
でも友ちゃん、宮部みゆきの「模倣犯」にあったよね。「嘘の賞味期限は短い」って名文句。よくここまで運んだものだが、所詮は砂の城。大人の目から見れば。


F08 凱旋の火矢は墜されたし

タイトルかっこいい。
本文で何より目を引くのは、この、世界・国土の一木一草にまで絡まる霧のように濃密な語りの文体。これはちょっと書けない。
主人公は養母を慕い、引き取った娘を慈しんできたのだけれど、そういう人為的な縁組の限界も多分よく知っている。だから「娘ー孫」という自然な親子関係に、これほど心が弾むのだろう。
自分の理解する20世紀の中欧とは、オーストリア=ハンガリー帝国の影響下→ナチ支配下→1945年以来ソ連傘下の共産ブロックというもの。この国の歴史はやや特殊だ。
「亡君の遺児を担いでお家再興」という時代ではさすがにないが、娘の知名度が反共宣伝の具にされた可能性は十分にある。良かった。
ところでアロイスって、どこの少将だったのだろう。海もないのに海軍少将、というのが中欧あるある。


F09 千匹皮姫

うわ、これも凄いな…。とにかく書いてあることにムダがない、嘘がない。
これ書いて出してこれるひとって誰だろう。あ、分かった。冬木洋子さん。
うん、もうそのくらいのクオリティ。


F10 灯油あります。

ググって驚く。ナズナ=ぺんぺん草。前者はスズシロとともに春の七草、後者は雑草の代名詞なのに。
とても暖かくて楽しいお話でした。
ただひとつだけ気になったのは、サービスの対価をどうやって取っているかということ。ボランティアならボランティアでもいいのですが。
クールな志織さん萌え。


F11 愛の消火大作戦

正体不明の液体を、あれこれ言いながら、結局いきなり他人に向かって噴射、ってひどくないか。
でもそれは、彼がそれだけ深く信頼しているということ。戸川君を? いや、この作品が舞台としている閉ざされた世界全体を。
これ、男性の作だったら自分は驚倒します。
消「火」大作戦。

覆面作家企画6 Gブロック感想

2014/09/15 【覆面作家企画6 
G01 いきたいと希う

覚え方。「イオリ」と音が鋭いほうが怖目の伊織、「やまと」とやわらかい方がやさしい大和。この分かりやすさは、自分のような読者にも親切。
生きていく限り、いつかどこかで戦わなければならないのは事実だが、夏休みに行く田舎のおばあちゃんが、そんな正論を説く係だろうか。ここ杏菜に同情しました。
蛍火


G02 火宅咲(わら)う

不思議なタイトル、不思議な視点。彼女が「キッチリ」した人だというのは、固定電話があるところにも感じる。アパートの去り際もキッチリしている。大家さんだけは困るだろうけど、そこは火災保険で。


G03 これから朝が訪れる

何かがひとつ違っていれば、立場が逆だったかも知れない自分の鏡像と向き合う少女の話。
猫同様、餌付けされてるのかな、と思ったら、やはりそうだった。
ただエレナの行為自体に過ちがあるとは思わない。問題になるとすればその内なる動機だが、エレナもまた、鏡の中からそれを問われていたのだろう。
軟膏の感触

G04 蝋燭

話運びのスリリングさにハラハラした。
こういう復讐・私刑物って、物語として推進力は抜群だけれど、うまく運ぶのが本当に難しい。
主人公は敵を殺す前に、まず自分の内面を、一筋だけ残して、すべて塗り潰し殺し尽くさなくてはならない。やる方も書く方も大変。作者様お疲れ様でした。
ただ気になった点一つだけ。姉さんのアパート火災、他に犠牲者は出なかった?  何の落ち度もなく「巻き込まれた」人は?  出なかったのなら、一言そう断って読者を安心させてほしい。そんな配慮も、復讐心によって塗り潰された「その他」の一部なのだろうな。暗澹。


G05 金糸雀に雨

あ、疎いジャンルなのに、これはツボに来た。雨の灰色の街で、熾火のように燃える金糸雀の羽根の美しさが、いつまでも瞼の裏に残る。なんか目頭が熱いし。
ただひとつだけ団長と作者様に質問。チケットの価格設定、高すぎない? 子ども一枚700円くらいかと思いきや、借金行脚というから、10万円からの話に読めてしまいます。


G06ファレと変な魔法使い

暗キモ→暗イケ→→→明イケという通常過程の中ほどを大胆にショートカット。ここまでくると痛快だ。
でも人間だから、急なキャラチェンジの反動は必ず来るよ。頂が高い分だけ谷は深い。できればその時こそ傍にいてあげてほしいものです。


G07 TOMOSU

若い人グワシ分かる? サバラは?
よく読むと、かなり複雑な構成。冒頭の貧乏な「彼女」って、通販番組の中の芝居の役柄なのね。違う? 違わないとすると、パン屋の話とか、ライフラインの順番の説明はどこから流れて来た? まんまと騙されたよ。ヒドイ。


G08 恋愛未満コンロ。

独特の空気感があります。そのこと自体はとりたてて珍しくない。そんなのはケツの穴と同じで、実は誰にでもひとつはある。
けれどそれに加えて、ここには巧緻なプロットが。
もしこれ、若い方が短期間で書き上げたとしたら、これは末恐ろしい話ですよ。今このときの「覆面仲間」として、自分はその名を心に刻む。


G09 火球少女 

お題をもらったとき、「火のような女」というネタは自分も思いましたが、「演歌情念方面」か「歴史スペクタクル一代記方面」にしか発想が行かなかったから、これには「オオッ」と膝を打ちました。
最初の自己紹介パターンが踏襲されるってところ、ありがちありがちw


G10 マイノリティ・レポート

タイトルからSFを思った。
それこそ山の民のようなストイックさで貫かれるレポート形式。し、渋い。イイ感じ。
しかし内容については、特に感傷的にはならなかった。日本人だって利便のために過去に一杯捨ててきた。その結果こうしてパソコンの前に座っている。
レポートの最後の署名に、アナグラムとかの仕掛けが隠されているような気がする。


G11 イレーネ

カフカの「城」のような不条理劇。
分からないことが多いが、かえってそれが深み。領主は殿と呼ばれるけれど、彼女は、一度も姫とは呼ばれない。分かる! 何か「姫」っていうオープンで牧歌的な感じじゃないよね、イレーネは。
石工なのにシュミット姓はわざと?
もし若い二人が一緒になって、イングランドまで渡りついたなら、彼女の名はアイリーン・スミスさんとか。無駄に明るい。

覆面作家企画6 Dブロック感想

2014/09/23 【覆面作家企画6 
D01 とある罪人の告白

一存による死刑フリーパスを得てしまった義人の葛藤。「やろうと思えばできる」が「やらねばならぬ」と同義になってしまう倫理の重圧。
でも最後に問題がはぐらかされた印象を拭えない。「死刑の是非」と似た問題が突き詰められていくと思ったのに、誤審・冤罪の問題に話がスライドしてしまった。
その二つが不可分だなんて言わないで。現実世界ではそうかも知れないが、小説の中では、設定ひとつで造作もなく分けられるし、分けてそれぞれに議論を尽くすべき事柄だと思います。


D02 顔 

少し込み入っているが、描写に力のある凄艶な話。
一頭の優れた牡をめぐって母娘が組打ちって、野生のキツネの世界ではそう珍しくもなさそう。豊穣のシンボルになるくらいだから多情で多産かと思いきや、けっこう二人とも一途で思い詰めるタチ。
話を複雑にするのが、「母=面に宿るスピリット」という設定。本来、祭儀において、ヒトはそういうモノの十全な 依り代となって合一できるように努める。面も神楽も舞も潔斎も、それを助けるためのもの。
ところがこのスピリットには、すでに「母」という別の実体を持っていたから、思わぬところで中身VSイレモノという遭遇戦が起こってしまう。
そして問題の「面」は最初、母に属するものだったが、長いこと娘の手元にあるうちに、娘のペルソナを表すものに変わってしまったのだろう。


D03 Gore 青き死神

日没がもっと大きな終わりと重なる。こういう話に自分は脆い。
軍や政府の特殊任務といったものを背景としながら、被服の詳細や花のイメージなど、むしろ女子力がとても高い。このバランスの持ち主は、私の勘では茅さん。
ちなみに鳳仙花は英語でタッチミーノット。復活したキリストが使徒トマスにのたまったという由緒あるフレーズ。


D04 アマヤドリズム

うーん、手練れですね、このかたは。唸ってしまった。音楽なんかビタ一文知らない自分にも、何か分かるもんなー。彼女、バスのエンジン音もよく耳で聞いている。さすが絶対音感。
そして何が素晴らしいといって、この話の筋立ての分かりやすさ、シンプルさ。こういう企画への提出作のお手本のようです。自分なんか参加するたび「オマエの話、分かんねーよ」と言われる。
ところで三人がセッションした時代劇のテーマって、絶対「暴れん坊将軍」だと思う。ついでに思ったけど、この覆面企画にも、いろんな年恰好と出自の人がいる。


D05記憶

福田里香先生の「フード理論」ではないけれど、出だし、そのタイミングでタバコを吸う若い女性って、不幸な結末を辿る予感が濃厚に漂う。この話ではタバコ、象徴という以上の実体的な伏線をも担うのだが。
宗教でも医療でも、何なら司法でもよい。心のケアは大事です。


D06 ひだね  

寒すぎて食べるにも事欠くようだと、ひとは他者を思いやる余裕がなくなるし、暖かくなり人口が増え、人の往来が盛んになると、今度はそれが、いさかい・殺し合いを招き寄せる。
何ともペシミスティックな世界「観」。それは魔女様も嘆きます。
最適値というのがあるのでしょう。人間、ここが頭の使い処ですよ。


D07 Waiting For The Fire Never Come

「ワイルド・バンチ」って、サム・ペキンパー監督の西部劇としか知らなかったけど、今ググってみると実在の元ネタがあったのか。構成員の名前がそこから採られている。深い。
個人的ポイントはガトリング砲。南北戦争に投入された筈だが、モノの役には立ったんでしたか。


D08 火童子 

E04酔夢春秋の「鄙びた感」に対し、こちらは人間など立ち入れない、遥かな神話世界の叙事詩。
文体もE04と対比してみると、それぞれ特徴的で面白い。
干ばつに際して、「秘策のような、最後の切り札を、期待していた」のはどちらなのだろう。結末を知ったうえで読み返すと、どちらとも読めるところが恐ろしい。


D09 焦げた着物の少女

タイトルの禍々しさは、Dブロックでも最高。
「本当に怖いのは人間だよ」とかのシャラくさい定型句があるけれど、たしかに吉信は怖い。
嘘でもいいから、寺で修行してるとか、神社の息子だとか名乗ってほしい。あるいはご先祖が同じなら、「君たちの一族はそんなことも忘れてしまったのかね」とか。
あのノリで、素の個人に来られると、自動的にBL感が流れてしまう。それこそが作者様の狙いなのかも知れないが。


D10 灼かれた者

これまでに上がっているご感想の中で、弟のいる姉族さんからの申告は何件か見受けられました。対して自分は姉のいる弟です。「成長してからも及びつづける、幼少時の姉の影響力」って、認める男は少ない。しかし自分は率直に認める。そういうものはある。
そこで自分が想像する、加賀というキャラの背景。彼にもまたキツめの姉がいて、大海同様の目に遭ってきた。その影響を何とか抑え込んで、男らしい自分を形成してきたのに、今そんな話を持ち込まれて、見透かされたような気がした。それを打ち消すための殊更な悪びれ方。
いや、まあその辺は想像にすぎないのだけど、ただひとつ大事なのは、大海が、自らの好みで加賀という人格に惚れ、自らの意思で死を選んだということ。どこの誰も無理強いなんかしていない。痛々しくはあるけれど、それもまた彼自身が表現した生き方のひとつではないのか。身内だろうが兄弟だろうが所詮は別人格。その他人が後から「借り」とか「償い」とか言いだしても、もう彼の帳簿は正しい手続きでシメられたあと。


D11葬送 

気丈さが、子供の目には「キツイ」と映るこういう女性、本当にいそう。曖昧に続いた大人の現実の関係に、焚火の炎が決着をつける。とてもいい話だし上手い。
惜しむらくは、字数のため、テキストの多くが、錯綜する人間関係の説明に追われている。そこはたぶん作者様ご自身が一番お分かりのはず。


D12業火

 悪所の婀娜な空気が、吹き渡る潮風が、夜空を背景に燃え落ちる館が、走馬灯のように何度も巡り来る。めくるめく不思議な感覚。
「美しく優しく儚げで、実際に幸薄い肉親のお姉さん」を描いた「日本お姉さん文学」の系譜にも連なる。


覆面作家企画6 Aブロック感想

2014/10/12 【覆面作家企画6 
A01 世界の秘境から

こういう種類の作品に寄せる感想ではないだろうが、皮肉ぬきの真面目な話、この呪い師の女性が、自分には愛しく思える。周囲より近代的な知性と意識を持ちながら、身は旧弊な制度に殉じざるを得ないって悲運の立ち位置が、何ともソソるんですよ。 ちょっと幕末の佐幕派みたいだと個人的には思う。
話は変わり、「離島の奇習だ奇祭だ」というけれど、「球を投げて、それを棒でひっぱたいて、その飛びようで国中ワーキャー」ってのも、一度頭をリセットしてみると、奇態な光景だ。ちなみに自分はゆるい虎党だが。
文章がナニゲに的確で巧い。


A02 真夜中のラブレター 

この詩の凡庸さはたしかに腹の立つレベル。「三人寄れば何とかなるかも」という数をたのみの談合根性が、詩作を三倍凡庸にしてしまう。彼らもdivideされなければ。パブリック・スクールって、体罰とか十八番な印象があるが、担当の先生はいないのか。


A04 灯 

背景のイメージが美しい。そして辺境の森の奥で、懐かしい前帝の御代=昭和の美しい女性言葉に出会えた。昭和40年くらいの街頭インタビューの映像を見ると、普通の若い女性が、まさにこんな言葉遣いで驚かされる。女性の言葉くらいには、男の中身も変わっていると思いたい。


A05 エダの花火

心理描写の文章が、鋭く何かを言い当てている一方、大状況や世界を説明する文章は、饒舌なわりにポイントが外れて、叙述の順番も不適当で分かりにくい。戦争というからには、国と国との間に揉め事があって、花火勝負の結果に沿って帰趨を決めているのだろうが、そのへんもハッキリしない。あえて、なのだろう。一人称視点でこそないものの、それはその世界を直視したくない主人公の心理の反映かも。


A06 羽虫 

千尋は深く、遥は広い。いや、ほら、名前の字の意味が。深く悩む千尋に、遥は広い世界を示すべきだった。NYでもLAでもいいよ。羽虫だって飛行機に紛れ込めば大洋を越えられる。そこには同じ悩みの人がいっぱいいて、すでに悩みですらなくなっている。自分も実はよく知らないので多分だけど。
余談だが、女子・千尋ちゃんを「ちい坊」と呼ぶのは親愛表現だが、男子・千尋くんを他人が「ちこちゃん」とか呼んだら、それはまず侮辱にしかならない。げに男女は非対称なり。


A07 一生分の

小細工なしにドンと突き出された槍の穂先は、幾重ものジャンルの壁に遮られて、いま一歩ここまで届かなかった。でもその壁は絶対のものではない。もう少し切先が尖り、押し出すトルクが強くなれば、きっと自分の心臓は貫かれるはず。


A08 dead

「番号を名前のように呼ばれる死神」って、どこかで記憶にあるが、コロナの名は、今回の「火」にも因んでいて上手いなー。失った人生を、弟に丸ごと背負われたりすると、まさに「ウザ重」だが、どこかで記憶には留めておいてほしいっていう気持ち、よく分かります。


A09 火消し参り 

キタキタの「秘密は等価交換」は、分かったようで分からないのが一層不気味だが、こちらの「そういうもの」は、分からないようでスッと腑に落ちる。「さよならをするみたいに」。そう。たしかに、離れて見ると、別れを惜しんで手を振っているように見えるだろう。


A10  キャンドル・ミッドナイト

広末涼子にキャンドル・ジュンは関係ない?  これが普通のブログ旅行記なら「フーン」で終わりだが、こういう場におかれると、 なんか勘ぐらざるを得ない話。痣は亭主によるDVの跡で、彼は今は殺され埋められ野菜の肥料になっているとか。


A11 PT

捕手光男っていったら達川?  彼も広島商業時代、甲子園で怪物を退治している。アンダースローのソフトでトルネード投法はさすがにないっしょ。どういうフォームだ。ゲームシステム上、セーブポイントはあるようで安心しました。あと気になるのは、リアルマネートレードはあるのか、とか。


A12 IRCオリンポス

「比較神話学」という言葉をふと思い出して、ウィキペディアを開きましたが、そこの記述、難しくてサッパリ分かりませんでした。作中から拾えたネタは、松田→広島弁?とか、車田とか。ただ「リンかけ」の十二神のひとり、プロメテウスは、もっと地味な負け方でした。

覆面作家企画6後書き

2014/10/17 【覆面作家企画6 
■参加作品の中で印象深い作品をあげてください。

他にも素晴らしい作品いっぱいありましたが、無理に絞りました。

B12 キタキタ
C12 緋蓮
D04 アマヤドリズム
G05 金糸雀に雨
G08 ;恋愛未満コンロ

プラス 下項目の「面白かった3作品」

■参加作品の中で印象深いタイトルの作品をあげてください。

D04 アマヤドリズム
E02 キドニーパイをひとくち


■参加作品の中で面白かった3作品&一言感想、お願いします。

B04 サンシャーラ
一寸先のストーリー展開も読めない息詰まる感じと、描写の対象から放たれる熱気がシンクロする。凄い。

E03 火を目指して飛んでいけ
「むしろ腹が立ったときほど鶴を折る」ってディティールひとつに、もう持って行かれた。あと、以下のこと、誰も言ってないと思うが、夏の少女たちの姿態がけっこうエロティック。

F09 千匹皮姫
技巧的な構成で描かれる物語の、強靭さ、紛れのなさ、嘘のなさに驚かされます。

プロメテウスの崖 近未来SF

去年、国連の人道介入ミッションで赴いたシエラレオネの難民キャンプで、私はテムネ族の幼い姉妹と知り合った。姉のエズミは10歳、妹のモイラは7歳だった。
 お互いの英語の発音はほとんど聞き取れなかったので、意思の疎通は筆談だった。
 エズミに問われて私は名乗った。

MIZUHASHI YUI 水橋唯
25years old
Japan Ground Self Defense Force 陸上自衛隊
Lieutenant 二尉
EPT Rider 二脚戦闘車搭乗員

 このときのミッションでは、当地の支配的な部族の民兵組織と交戦し、私は防弾ジャケットの上から榴弾の破片を受け、肋骨を二本折った。
 医療コルセットを巻きつけた私に、姉妹は贈り物をくれた。エズミは自分の描いた一枚の絵を、モイラは木の実と布片を組み合わせた何か、おそらくは手製の勲章を。
 エズミの描いた絵の中、青い海に浮かぶ緑の小島の上で、私はEPTと呼ばれる単座二脚戦闘車のハッチから上体を出し、そのとなりにはヤシの木が一本生えていた。
 アフリカの少女が思い描いた、この島国日本のイメージは、偶然にも私に故郷を思い出させた。まさしく私の生まれ育ったのは、日本国土の最南端に近い離島だったから。
 理想主義者たちが住み着いて築いた自然回帰のコミューン。水平線近くには南十字星さえ見えるその島を、私は15のときにひとりで出てきたのだ。
「ユイにはきょうだいはいないの?」
 描き加えてくれるというのだろう。色鉛筆を手に身を乗り出し、溢れる絵心を抑えきれぬ様子のエズミだったが、私は「Sorry」と笑って首を振った。
 この名が示すとおり、父と母の子は、私という娘だけだった。


 その絵と勲章を鞄に入れて、私は両親の待つ生家へ向かった。
 島はすでに海面の下に沈んでいたので、私はひとりボートに乗って、静かな水面に、オールの波紋を描きながら進んでいった。
 島のシンボルだった大風車が、うつろな音で羽を軋ませる隣で、白く塗られた私の家は腰高まで水に浸かっていた。
 ボートを操って、暗く開け放たれた玄関へと舳先をくぐらせる。
 屋根の破れ目から漏れ込む陽光のもと、懐かしい台所の床のタイル模様が、眼下でほの暗く揺らぐ。目を凝らすと小魚たちの素速い影がよぎる。
 私は手を休め、家の中を見渡した。何か書き置きがあるかもしれない。この状況だから、家の構造のどこか、たとえば中央の柱にでも直接書き付けるのが妥当だろう。私はそこへボートを漕ぎ寄せ、木の肌に手で触れてみた。
 そこに未読の伝言はなかったが、かわりにさらなる懐かしさが胸を満たした。ちょうどその胸の高さから、水面のすぐ下にまでわたって刻まれた数本の刻み目。十歳時から四歳にまで遡る、自分の身長のプリミティブな記録だった。その時分、毎年の誕生日になると、父は私をここへ立たせ、柱へ小刀を滑らせた。
 よく見ると、七歳の時だけ記録が飛んでいる。何故だかはよく覚えている。そのとき私の発熱と咳がいっこうに収まらず、誕生日の行事どころではなかったためだ。
 その日、両親は、入島以来自らを縛ってきた「掟」をはじめて破った。母は昔の手帳を掘り出して幾通もの手紙を矢継ぎ早にしたため、父は納戸から引き出した船外機のガソリンエンジンに火を入れた。
 その甲斐あって、一週間後に私は快癒した。そしてその後知る限り、両親が禁を犯すことは二度となかった。
 ふと気づくと潮目が変わり始めている。私は再びオールに手をかけた。
 結局、父も母もここにいない。居所も分からない。出来るのは、ここから何かを持ち出すことくらいか。もし見つかるならば、家族のアルバム、生前の両親の日記、祖父母やさらなるルーツに連なるスーベニールなどを。
 奥の部屋へとボートを運んだとき、そこに広がる光景に息を呑んだ。
 父の手製の本棚が俯伏せに倒れ、その中身、すなわちいま私の求める諸々が漂い出し、まさにこの瞬間、引き潮にのって窓枠を越え、明るい海へと吸い出されていく。
 窓枠に阻まれたまま波に揺れるボートの中で、私は青い海を遠ざかっていくものたちを、ただ見送るしかなかった。

 夢から醒めると、私はコックピットの中にいた。
 ボートの揺れる感覚がまだ身体にまとわりついている。
 ここがどこだったか咄嗟に思い出せない。霞のかかった頭で現状認識に努める。
 こんなとき私は、記憶を手繰るより、眼前のGPSが手短に示してくれる「経緯」をまず参照するようになった。
 北緯41.53東経46.27。黒海とカスピ海を結ぶ大コーカサス山脈のただ中。海抜は800メートル代。
 私は頭上のハッチを開け、そこから雨の中に上体を出して周囲を見渡した。
 人も通わぬ岩山の中腹、崖からせり出した岩棚に、EPTは単独で停留していた。足場が悪いのと強風の分、岩肌にアンカーを打ち込んで、ワイヤーによって姿勢を保持している。
 時計を見ると17時。この配置についてすでに28時間が経過していた。
 この地点は戦術偵察等の上での重要ポイントであるにもかかわらず、僚機による交替のシフトはない。EPTをここまで上げて来られる技量を持つ搭乗者が他にいないからだ。
 眼下に開けた平野部で、一面に、無数の火柱が上がっているのが見える。それは石油採掘プラントの鉄骨の櫓から放たれており、雨に煙る景色の中、揺れ動く炎だけが鮮やかに色味を帯びて映る。
 これを専門用語ではフレアスタックといい、採取してもペイしない余剰ガスを安全な高所で焼却しているのだと、この国へ来る民間機の中、隣席の日本人石油技術者が、窓を指さしながら教えてくれた。
 あの人も今頃、ここから見えるどこかの火の下にいるのかも知れない。実際いま現在、この一帯の多くの石油・天然ガス施設が、日本企業の投下した資本と人員とによって賄われている。
 そもそも日本人が石油と天然ガスを求めてこの地へやって来たのは、遠く1990年代、第一次BTCパイプラインの開発に関わったのが草分けであるというのも、そのとき聞いた物語。
 それから経ること半世紀、今度はいよいよシベリア・パイプラインの西端を、この地まで差し込むことが日本の望みだった。ラインの他端はすでにはるか極東、旧北方領土を通じて京浜のコンビナートにまで達している。
 国連停戦監視団の一翼としてこの紛争地へ来た私たちにしても、その思惑と無関係でない。政治的不安定要因をいちはやく取り除き、関係諸国へ強いプレゼンスを示すためにこそ、日本政府は新鋭EPT一個大隊を送り込んだのだ。
 その事情はミッションに参加している各国も同様のこと、そしてむろん紛争当事国こそが、この石油・ガス事業の行方に一番強い関心を抱いている。
 世にはシェールガスやメタンハイドレートがあり、自然力エネルギーもまた、一部の趣味者のものでなくなったとは言いながら、まだまだこの古い油甕には、世界の草木を靡き寄せる引力があるらしい
 私は、幼い頃、父母が交代で読み聞かせてくれた本を思い出す。子供向けに挿絵のついたギリシャ神話の本だった。
 プロメテウスは弱い人間たちを憐れみ、禁を破り、神殿の火を分け与えました。
 禁忌の力に雀躍した人類の業は、オリンポスの周囲の山を裸に剥くだけではすまなかった。世界中いたる所で吐き出される黒煙が天を摩し、自らの拠る地が溶け出した今になっても、まだまだひとは多くの「薪」を欲する。
 無限の劫罰に耐えた恩寵の主でさえも、今日の世界地図を見れば、己の過ちを嘆くかもしれない。
 すでにそこからは、南太平洋の島嶼をはじめとする少なからぬ国名が消え、ギリシャを含めた、海岸線を有するほとんどの国が国土面積を縮めている。世界中で没した島の数などもはや数えきれはしない。

 私の故郷が沈んだのは二年前のこと。
 島は自給自足を旨とし、商業電力を否定していた。大風車の排水能力では、年々の海面上昇に太刀打ちできなくなり、早くもその数年前から道路や農地など、重大な生活圏が水に浸りはじめていた。
 リアルタイムのそういう情報を私にもたらしてくれたのは、テレビの報道番組の特集企画だった。画面の中で、わりに親しくしていた小父さんが、冠水した地面に目を落とし、「ちょっとこのままでは」と呻くのを、私は食堂のテレビで眺めていた。
 そろそろ何らかの「切り替え」が島に必要なことは誰の目にも明らかだった。しかしそれより前に、南海の彼方から、「終わり」がねじ伏せるようにやってきた。防潮扉の工事のさなか、襲い掛かった未曾有830hPaの台風が、すべてをさらい取り、流し去った。そう、まさにそこにあった価値あるすべてを。

 天災や戦災、一部の事故・遭難に関して、民法には「特別失踪」という項目がある。そこに定められた一年の期間の後、合同葬儀で私の前に置かれたのは、二つの空っぽの骨壺だった。父の享年は58。母は56。式を経ても、戒名はついになかった。
 式の帰りの電車のシートに揺られながら、私は膝に抱いた二つの小さな骨壺を見下ろした。
 島へ渡る前、父は投資銀行の主席トレーダーだった。母は医師・生化学者としてアカデミズムの尖端にいた。世界の中心と謳われる街の、超高層ビルの最上階で催されたパーティーで、二人は初めて出会ったという。
 抱えきれぬ富と、赫々たる栄誉とに彩られた人生の、この末路。
 それを笑う人間がいるのは容易に想像できた。私もまたこれを、冷厳に負(ふ)の教訓と位置付けるべきなのかもしれない。
 けれど私から見た両親は、強く静かに何かを確信している人たちだった。
 彼らは娘にさえも、ことさら主義を説かなかったが、ある種の精神的態度は特有のものだったと思う。それは目先の一喜一憂を捨て、大げさに言えば、天地の万象を大きな尺度で把握しようとするかのような。
 その思想なり信条なりの全容は分からないけれども、身を守る幾多の鎧を、キャリアとともに捨てたとき、少なくとも生身の命の「はかなさ」だけは了承したはずなのだ。
 あるいは逆に、こんなことも頭に浮かぶ。
 父と母は、本当にこの世から消えてしまったのだろうか。死を裏付けるポジティブな証拠は何もない。
 ひょっとすると彼らは嵐の前に、あの島よりもっと望ましい理想郷をどこかに見つけ出し、かつてそうしたように、再びすべてを捨て、手を取って旅立っていったのではないか。もはや唯一つの「躓きの石」もなく、不純とも矛盾とも折り合う必要のない約束の土地へ。
 それが喜ばしい想像なのか悲しい想像なのかは、自分でも分からなかった。
 ただ動く車窓から暮れかかる空を眺めていると、気が付けば頬から喪服の襟へと涙が落ちていた。
 今更ようやく、私は自分が帰る場所を失ったということを知ったのだった。

 彼方で轟く爆音に、私は現実に引き戻された。反響が岩壁を細かく震わせる。
 取り出した双眼鏡を、音の方向、停戦協定ラインのあたりに向けると、比喩ではない戦火がそこにあった。これまで何度も見てきたし、シエラレオネでは一端を味わったこともある赤黒い炸薬の炎。
 ほどなくしてインカムから、緊急コールサインとともに、訛りの強い英語が流れ出す。
「Fuckin bustard has committed the serious offence!」 
 管制指揮官はベルギー陸軍の古強者ファレル中佐だった。
 停止していた特別監視対象部隊が、野砲の支援を受けて、再度の進撃を開始したという。
 任務の内容はあらまし予想がついた。遊弋中のアルファからチャーリーまでのEPT各機、アルファ・ユニット基軸へと合流した上、航空支援を待つことなく、予備停止線手前のイスラ峠にて会敵。装甲兵力の通過を阻止すること。
 何に代えても、という一句がそこにつく。それを許してしまえばどうなるか。想像したくもないことだが、想像せねばならない。ここに至るまで、世界十か国もの関係者たちが、肝脳をしぼり細心の手つきで組み上げてきた「決め事」が、トランプタワーのように残らず風に散らされる。
 私は上部ハッチをロックすると、シートをドライビングポジションまで沈めた。コマンドグローブとヘッドセットの位置を整えてから、イグニションを捩じり込む。私のこの地での3度目の実戦が、いま火蓋を落とされようとしている。目覚めたエンジンが、雨を飛ばして機体を震わせる。
 戦闘コードを入力し、兵装を起動させた。ライセンス生産されたこの機種の、米本国での名はサラマンダー。四大元素のうち火を司る精霊、灼熱の牙と爪を帯びた炎の龍。頭上の20mmバルカン・キャノンが小刻みな挙動で敵を求め、両サイド6基の対戦車誘導弾が被覆を飛ばして弾頭をせり上げる。
 私は出撃に先立ち、一度深呼吸とともに全周モニターを見回した。
 あらためて見る岩山の光景は、幼い頃に見た本の挿絵とよく似ていた。
「神々の怒りに触れたプロメテウスは、世界の果て、カフカズ山の断崖に鎖でつながれました」
 そのくだりを読み聞かせてくれたのが、父だったか母だったかは思い出せない。その声にどんなトーンが込められていたかも、今ではもう。
 今まさしくその最果てまで、またぞろ古臭く愚かしく血腥い目的のため出向いた娘を、両親は憐れみ呆れているだろうか。遺影が湛えた穏やかな笑みは、そう見ればたしかにそうも見える。
「Boys and Girls. Any questions?」
 指揮官の問いに、私は口元のレシーバーに手を添えた。
「This is Alpha leader. Received and Accepted」
 けれど私は、この地でのミッションの意義が乏しいとは思わない。
 眼下のフレアスタックが風に煽られ一斉に火勢を増す。
 もし原油価格5ドル/1バレルの値上りを些細と笑う人がいるなら、その想像力と感受性を私は信じない。
 原油コストは生活コスト。国際市場の発した軽い一突きは、国民経済の最末端へと皺寄せされるや、その先にある崖下へ向けて、押してはならぬ多くの背を押すだろう。
 これもまた水際の防衛戦なのだ。そこに勲章をくれる小さな手はないとしても。
 リリーススイッチの操作で、岩に打ち込まれていた二本のアンカーが繋縛ワイヤーを曳いて宙を舞った。
「I will do it」
 ガスタービンが咆哮を響かせ、排気口が紅蓮の炎を崖へ吐きつける。機関の動力があまさず脚部へと集約された次の瞬間、右足部の三爪が岩を蹴って機体を跳躍させた。



蒼き火花のアビゲイル

 ABIGAIL McTIERNAN
 SHE WAS WHAT SHE WANTED TO BE
 墓石にはそう刻まれていた。

 チャーネルヴィル教会は、アメリカ中西部モンタナ州、カナダ国境から南へ30マイル、東にシエラマドラ山脈を望む位置にある。
 前任者の伯父のあとを継ぐ形で新たに赴任してきたジョン・エメット神父が、残された墓所の管理記録を作表ソフトに入力していると、ある一基の墓に関わるところで手が止まった。
 不明な点があまりにも多かった。被葬者の名前こそあるものの、生没年などの生涯記録や係累譜はない。管理費は規約どおり半年ごとに振り込まれているが、拠出者と被葬者の続柄欄は空白である。
 過去の記録を繰れば、アビゲイル・マクティアナンの名は1986年まで遡って見られるが、墓石の据え付け工事が施工されたのは1995年。既存の墓石の改装のための工事と見るのが自然だが、それ以前には管理費の払い込まれていた形跡がない。葬儀自体が執り行われた記録も探し出せなかった。
 几帳面な伯父にして、これだけの不備について備考の一条もないのは、むしろ自分の知らぬ方がいいことなのか。訝っている折り、振込み元の名義であるトーマス・グリーンなる者から、分厚い書状が届けられた。
 開封すると、そこに記されていたのは以下の内容であった。
 まず彼が1968年にこのチャーネルヴィルに生まれたこと。15のとき、地域福祉に尽力していた伯父と出会い、貧しい生活から救い上げてもらったこと。いまは家庭を築き、LAのグラデス街で、刑事訴訟を手掛ける法律事務所を共同で営むこと。
 そして本題に当たる、問題の一基の墓の設営にまつわる経緯は、一読驚くべき、そして容易ならざるものだった。


 (前略)
 これにつきましては、回りくどくなることを承知の上、自分の生い立ちから語らねばなりません。お忙しい師をして、これにお付き合いいただくことは甚だ心苦しいことながら、後のご判断の材料ともなろうことから、伏してそのお骨折りをお願いする次第でございます。

 私が生まれ育ったのは、ナラ川の河川敷のトレーラーハウスでした。それだけで、だいたいの暮らし向きはお分かりいただけようと思います。二年に一回程度、川は増水して、我が家の床を浸しました。
 父は軽便鉄道の保線工でした。正確には元保線工。彼は「事故で働けなくなった保線工」という職業がこの世にあると思っているようでした。粗暴ではありませんでしたが、酒飲みで個人主義者でした。狭いハウスのなかで幼い息子と二人でいて、なお個人主義者でした。私は七つのときには、髪を自分で切ることを覚えねばなりませんでした。
 母は私が四つのときに父と私を捨て出奔しました。記憶も情報もろくにありません。残された数少ない写真を見ると、右の鎖骨の辺にタトゥーが入っています。それが父以外の男の名前なのですから、父の私への無関心もそのへんに原因があった気もしますが、いまだその件は突き詰めて確認していません。
 母方の大叔母に、ウェルズ&ピーターソン商会を切り回すマーサ・ウェルズがいました。W&Pは、食料品や生活雑貨を商い、現在でも州北に何軒か展開しているはずです。私は学校にいるとき以外、そこで下働きの雑用をして、商品のおこぼれを受け取っていました。九歳でそれをはじめたとき、体は小さかったものの、年の割に目端は利いた方だったと思います。
 このマーサに関しては、いまでこそ私は別の見方をしていますが、当時は19世紀的な悪辣な経営者だと、子供なりの語彙で理解していました。
 生きることの困難は他にもありました。町にはクーガー団という少年ギャングチームがあって、学校でも外でも、顔を合わせるたび、入念に私をいびってくれました。彼らの敵はLGBTと有色人種、それにもまして我々のような貧乏人でした。彼らによる執拗な暴力と嫌がらせは、十五のとき、先師の働きかけで、その中心メンバーが更正施設へ送られるまで続きました。
 
 六歳から八歳にかけての頃には、家で餌をやっていた犬がいました。
 予防接種も役所の登録もしていなかったから、飼っていたとは言い難いのですが、ともあれ彼は、うちのトレーラーハウスの下で寝起きして、別の犬が現れれば我々が追い払いました。
 彼が車に轢かれて死んだとき、私がヘルガ荘の裏に埋めました。ヘルガ荘というのは、七区にある、大恐慌以前に建てられた古い平屋です。七区はシエラマドラ国立森林公園と隣接するブロックで、当時、道にはハイイログマ出没注意の標識が立っていました。ご承知の通り、面積こそ広いけれど、家はごくごくまばらです。
 ヘルガ荘の所有者はW&P商会でした。そのつながりがあって、その裏手にリンゴの木が生えていることを知っていました。ずっと昔から空き家だったから、永眠の地と見定めたのですが、私が九歳のとき、そこへ入居者が現れたというのです。
 私は様子を見に行きました。その家の裏手に柵はないので地権は目に見えない。もし差し障りがあったとしても、土から骨を掘り出せとは言いにくいものですし、頼めば墓の存続は許されるだろうと思っていました。
 手向けとして、線路の土手に咲く花を摘みましたが、持ち歩く路上でトラブルが発生しました。出くわしたクーガー団に奪い取られ、花は踏みにじられた。そしてお定まり一連の小規模な暴力と罵声がともないました。
 墓へ着いたとき、私のその一日の目的はすっかり変質していました。
 墓の土盛りの上には、野犬などが掘り返さぬよう、周囲からなるだけ大きな石を集めてありました。私は片手で掴めるぎりぎりのサイズを選び、反対の掌に何度も打ち付けました。そうしてクーガー団のジャスパー・ケインが、これからいきなり後頭部に受けるであろう感触を測っていました。
 彼らの振る舞いは、今更といえば今更のことなのに、なぜこの日だけ怒りと恨みが行動へと収束しかけたのか、後で思えば不思議です。墓前というロケーションに特別な作用があるようにも思われますが、とりあえず今は話を当時に戻します。
 石で打つ動作を繰り返している私の上へ、音もなく人影が落ちました。
振り返ると、三十台半ばぐらいの、黒の上下を着た細身の女性が立っていました。深い褐色の眼鏡に、髪をスカーフで覆い、白い大きな前掛け。片手でホウキを支えのように立てています。
 彼女は黙って私の隣にしゃがみこんで、頭を垂れ、土盛りの上に手を置きました。白くてほっそりしていて、荒い仕事をしてきたマーサの手とは違いました。
 小首を傾げたその顔には、鼻筋から頬にかけてうっすらとソバカスがありました。
「お墓?」
 私は黙って頷きました。
「どなたの」
「犬、です」
「大きな犬?」
 掘り起こせと言われるのを警戒して、私は心持ち大きめに手を広げました。
「その子、名前はなんていうの」
 話の向かう方向が分からなくなる。ただ彼女の声は、低くて聞き取りやすいトーンでした。
「クンタ」
「クンタ?」
「テレビの中の人の名前」
「何色の毛だった」
「白に茶のブチ。キャバリエの雑種って」
「尻尾は長い? 短い?」
「ふつう」
「耳は立っている? 寝ている?」
「放っておくと、寝てる」
「放っておくと?」
「そのまま放っとくと、ふさがって蒸れて耳の穴がバイキンだらけになるから、テープで上に留めて」
 片手で仕草をして見せると、彼女は頷きました。
「どんな食べ物が好きだったの」
「リンゴとパンケーキ」
 再び土盛りに目を落としたまま、彼女はくすっと笑ったようでした。
「その子、のんびり屋? それとも繊細なほう」
「すごく神経質」
「神経質?」
「知らないひとには夜でも昼でもギャワワワワワワワワワって」
 彼女はもう一度地に手を置き、あらためて顔を向けました。唇が微笑を刻みました。
「あなたには、なついていた?」
 頷いた拍子に両目から涙が零れたのに自分で驚きました。
「そこで待っていて」
 彼女は一度家に入ると、両手に抱えてきたものを手渡してくれました。頭に載るくらいの小さなリースと一掴みの青い切花でした。犬の墓に供えろという意味だと分かって、私は言葉を失いました。
それがヘルガ荘の新しい住人、ミセス・アビゲイル・マクティアナンでした。

 年の離れた著述家の夫と都会で暮らしていたが、死に別れて、静かな環境で遺稿を整理したい、とアビゲイルはマーサに告げたそうです。
 彼女はまず出歩くということがなく、食料や日用品は、商会が週二度の定期便で届けることになりました。
 その品々の質素なことは、運び入れていた私が一番知っています。衣類などはかなりの程度自分で手作りしていたと思いますが、デザインの保守的なこと、ワイエスのヘルガを通り越していっそバルビゾンのミレー風でした。よく見るとスラリとした長身なのですが、その服装とやや猫背の姿勢のため、実際より小柄で年嵩に見えました。
 ご存知のように、この近辺にはアーミッシュやメノナイトの集落があり、そこでは独自の戒律に従い、中世さながらの質朴な暮らしを送る人たちがいます。その姿にある程度の馴染みがあるものだから、アビィの生活スタイルもその流れを汲むものと勝手に受け止められました。
 内実はともかく、たしかに両者は外形上、似ていました。化粧っ気もなく、体形を隠し、髪を隠し、目から感情が発露することさえ眼鏡で隠していた。見せる表情といえば、せいぜいが会釈の微笑くらい。ほかの顔は私が見たことがないのだから、誰も見たことがないはずです。
 家を訪れると、いつも家事をしているか、書き物をしているか。家中が整頓されて清潔でしたが、潤いや彩りのために、飾りつけるということがなかった。どこかの修道院の厳しい規則をひとりで守っている印象もありました。
 いっぽう、何となく薄気味悪い女、という見方もウェルズ家の中にはありました。
 さっそく「ブラックウィドー」という仇名を奉ったのはマーサです。「旦那を殺した」という含意は後に分かりました。
 孫娘のクリスは、アビィの正体は吸血鬼だと言いました。地に落ちたアビィの影から、不気味な黒い陽炎が立ちのぼっているのを見た、というのです。これは七歳の子の言うことですが、実際誰も、何となくヘルガ荘へ足を向けたがらないから、いきおい十歳の私が、配達する係になりました。
 その任に着いてみて分かったことには、ミセス・アビィ・マクティアナンは、にこやかでもほがらかでもなかったけれど、まず実務的に、大変やりやすいお客でした。声は聞き取りやすい。文字は読みやすい。指示が的確で分かりやすい。機嫌が一定で、ミスをしても舌打ちされない、頭から叱り付けられない。自分の口に出した言葉は、わずかなことでも後から違えない。
 そして不思議に、何かにつけ私に親切にしてくれました。気候に応じて、レンズ豆のスープやレモネードを飲ませてくれた。樹に成るリンゴをいくつも持たせてくれた。
 私の境遇を不憫に思ってくれていたのは間違いないでしょう。それでも立ち入ってこちらの家のことを聞いてこなかったし、それを知るようなことも匂わせなかった。
 彼女は何も言わず、ただ取れたボタンをつけてくれた。靴底の穴に充填剤を詰めてくれた。自転車に乗っていてクーガー団につき転ばされたときは、台所の椅子に座らせて、あちこち窪みのある古いブリキの救急箱を開けて、肘に傷薬を塗ってくれたこともありました。 
 アビィに近寄ると、いつもほのかに石鹸の匂いがしました。何の修辞でもなく、それは本当にジョンソン・サニタリー社の大量生産で安手な粉石鹸の匂いそのものでしたが、いい匂いでした。
 そして出会って一年を過ぎたころ、事件が起こりました。不慮のアクシデントから、アビゲイルに命を救ってもらったその出来事を、私は日付にちなんで「イースター電線事件」と名づけたのですが、詳細は後述いたします。  
 それやこれやのうち、私は彼女がいよいよ好きになっていましたが、何故か、あまりその感情は表沙汰にすべきでないとも思っていました。
 大事にしているものほど取り上げられる、というのがそれまでの人生で得ていた教訓だったのかもしれません。実際、商会の大人の意向で、懲罰として、ことさら意に沿わない仕事にシフトされることも、ない話ではありませんでしたので。
 二年目の半ば、私が十一になると、アビィはマーサから新たな契約を取り付けました。
 私がヘルガ荘の周囲の、草取りや雪掻きなどの雑用をこなすことによって、W&Pにによる天引きは受けるものの、アビィの手から直接、現金をもらえる運びになり、これにより私は、はじめて継続的に「小遣い」というものを手に出来る身になりました。
「たかが小遣い」というのは、小遣いのない少年時代を経験しなかった人でしょう。
 私の場合、のちに好きになる本も雑誌も映画もレコードも、はじめてこのとき自分と関わりのあるものとして、目の前に現れました。
 そこから広い世界に出会えた、そして自分自身に出会えた、といっても大げさではないと思います。当時の私には、マーサから渡された複写式領収書用紙の束が、ロックフェラーが振り出した白紙の小切手帳にも見えたものです。
 そうして多くの時間をヘルガ荘で過ごすようになりましたが、屋内の用事をすることは稀でした。ただ一度、外から窓ガラスを拭いていて、アビィのデスクの上を見たことがあります。
 厚い書類束の一番上の文書は、文字こそアルファベットですが、見たこともない配列でした。文字だけでなく、図表らしきものもそこにはありました。
 クリスならそれを、悪魔を呼び出す祈祷書と魔法陣と言ったと思います。私にもそれは何故か、見てはいけないもの、そしてひどく不吉なもののような気がしました。

 この予感は、一年後に現実のものとなりました。
 1981年5月のこと、街中の雪は消えていたものの、まだ山並みは真っ白でした。
 12歳の私が、小口の配達から戻って来ると、マーサが表の客用駐車場を示して、
「さっきからFBIが待ってるよ。あんたのブラックウィドーのことで、あんたに聞きたいって」
 どこまで冗談か分からない、このぞんざいな言い回しが、いかにもマーサでした。
「いよいよ死んだ旦那の骨から砒素でも出てきたのかねえ」
 と何となく嬉しそうなのが余計に癪に障りました。
 駐車していたのは、変哲のない黒いワンボックスカーでした。
 そこには総勢四人の人員がいたようですが、車内で向き合って私の聴取にあたったのは、グレーのスーツを着た黒人の若い女性でした。
 ジェイミー・カーツウェル。名乗るとともに、IDバッジを見せてくれました。そこにあったのはFBIではなく、白頭鷲が十三の星を戴く国務省の徽章でした。
「ミセス・マクティアナンの話を聞かせて」
 それまで接してきた大人にありがちな、おどしたりすかしたりの口調ではなかった。
「辛いことかも知れないけれど、国益のために聞かなくてはならないの。私たちはそのために20時間かけて東海岸のワシントンDCから来ました」
 外見は違えど、声は違えど、よく似た話し方が、直感的に私に教えました。このひとは本来のアビゲイルがいたのと同じ世界から来て、いま彼女をそこへ連れ戻そうとしているのだと。それもおそらくはアビィの意に反する形で。私の頭を、アビィの机の上にあった外国の文字や図が掠めました。
 聴取の間を通して、このミス・カーツウェルは感じがよくて、不誠実であることには努力を要しましたが、私はそれをやり抜きました。知能の障害を疑わせるくらいの茫洋の装いの中に、向けられるすべての質問を散らしました。
 何枚もの何人もの女性の写真が、取替え引換え示されるのにも、曖昧に首を振りつづけました。
 何枚かに写っていた医者のような白衣の女性はたしかにアビゲイルで、彼女の前身の一端を告げるものでしたが、一部には理解しがたい写真もありました。
 それはただの写真というよりは雑誌の切り抜きに似ていて、映っているのは夜の墓場でした。
 背景に崩れかけのレンガ塀と死神の手のような枯れ木がありました。ブルボン朝の貴婦人のような衣装の二十歳くらいの若い女が、スツールに座るように墓石に腰掛けているのです。宙に浮かせた足先に金の繻子の靴をひっかけ、剥き出しの腕を伸ばし、手には人間の頭蓋骨を乗せています。自分の目よりも高く持ち上げて、暗い眼窩へと視線を投げる彼女の目つきは、淫蕩と形容されるべきもので、隠しもせぬ軽侮と嘲りを含んでいました。
 その感覚は何より手つきに現れていました。掌でなく手の甲に乗せているのです。ほんの数秒後には、彼女の軽薄な関心は移ろい、人間の尊厳の容器だったものが、転げ落ちて砕ける未来が予告されていました。足元にはすでに象牙のような白骨が散乱しています。
 あとで分かったことには、それはフランスのブランド香水の広告でした。まずありがちな話、「背徳の美学」やら「デカダンス」やら、「良識への挑発」やらの戯れ言から、こういう写真が世に供される仕組を、大人なら誰でも理解できます。ですが、その露悪的な絵面は、そのときの私を大いに驚かせ、かつ困惑させました。
 結局それさえも押し隠し、とにもかくにも茫洋の演技を貫いていると、やがてカーツウェルは根負けしたように、車のドアを開けました。

 他言無用を言い含められてはいましたが、アンクル・サムの言いつけより大事なものが12歳の私にはありました。
 半日間、いろいろタイミングを迷った末、父の寝ているトレーラーハウスを抜け出し、人目を避けてヘルガ荘に着いたのは、未明に近い深夜でした。
 表はおそらく見張られているでしょうから、裏から忍び寄りました。リンゴやカエデの枝が風に揺れ、見上げる空では星が輝いていました。遠くの森で、何かの動物が吠える声が聞こえました。
真っ暗な寝室の窓ガラスをこぶしで叩くと、小さいながらハッキリした返事がすぐに来ました。
「誰?」
「トーマスです」
「すぐ行くわ」
 そして実際すぐ裏口から出てきたアビィがどんな格好だったか、星明りだけを頼りに見ることは困難だったし、目を凝らすのが紳士的でないことも自覚していました。
 自然に見て取れるのは、彼女のシルエットの輪郭だけ。その影が、腕を伸ばし、町の方を指さしました。
「遠くから、誰かが訪ねて来たのでしょう」
 察しがよくて話が早いのが、ミセス・マクティアナンという人でした。
「そうです。写真を見せられました」
「どんな写真」
 私は言うと決めてきたことを迷わず言いました。
「貴婦人と髑髏の写真です」
「あれを、見たのね」
 そう言うと、黒い影がこちらに向き直りました。風が周囲の木々を揺さぶって、一瞬背に身ぶるいが走りました。
「どう思って?」
 そのとき彼女のシルエットから、陽炎が立ちました。どういう光の加減か、ほんのわずか白みはじめた東の空を背景に、黒い陽炎がゆらゆらと揺らめきながら立ちのぼっていました。
「その写真を見て、どう思って?」
 一歩踏み出されて、私は思わず後ずさっていました。後頭部が、軒を支える柱に強くぶつかりました。
 彼女は歩みを止めて、質問を変えました。
「その人たち、あなたに何を話したの」
「国務省が国益のため調べている、って。」
「それだけ?」
「それだけです」
 息を吐く気配とともに、立ちのぼっていた陽炎が鎮まってゆきました。
「僕に何か出来ることはありますか」
 言うと決めていたことをもうひとつ言うと、アビィはめずらしく声に出して笑いました。
「心配しないで、トミー。明日こちらから出向きます。連絡先、分かる?」
 もうそれは完全に日常会話の言葉つきで、何の大事もないと信じさせられそうになります。
 カーツウェルから貰ったメモをそのまま手渡しました。彼女の手は乾いていました。
 立ち去り際に彼女は言いました。
「こんな時間に駆け付けてくれて、本当にありがとう」
 向き合ったまま、肩にかけていた自分のショールを外し、私の肩へと掛け回してくれました。
 私には最後にもうひとつ、言わねばならぬ言葉がありました。
「アビィ、あなたは誰なのですか」
「いずれ分かるわ。何もかも」
 目を落とし、私の胸元で布の端を結びながら独り言のように、
「それを聞かされるのが、二十歳をすぎた大人のあなたであればいいけれど」
 意味が取れないで本当に茫洋としている私を、アビィは一度強く抱き寄せました。そして両肩に手を載せて額にキスしてくれました。そのときも彼女からは石鹸の匂いがしました。
 歩き出すと、雪を頂いた山並みの背後から、曙光の最初のひとすじが射そうとしていました。
 それがアビゲイルを見た最後になりました。


 さて、以下に述べますことは、私が直接関わっていない話です。専門外のこともあり、またもしご興味をお持ちなら、各種メディア上の情報も参照可能なことから、主観を排した簡略な記述にとどめたいと思います。
 師は「ミルグラムの服従実験」や「スタンフォード監獄実験」などと呼ばれる心理学上の実験をご存知でしょうか。
 任意の一個人が、何らかの権力の一部たることを自覚したとき、本来もっていたはずの理性的判断や日常の思いやりを捨て去り、下される命令に盲従するまま、他に対してどれほど無慈悲で抑圧的になりうるか。それを閉鎖した実験空間で、被験者に擬似的な権力を賦与することによって明らかにするものです。
 この種の実験は、70年代、米国の全ての心理学会で禁止されることとなりますが、そこに到るまで東部の大学・研究施設を中心 に、いくつか追試やヴァリエーションが重ねられました。
 今日これらの研究は、さまざまな角度から光を当てられ、また多くのフィクションの題材ともなり、それ以降を生きる我々が、人間の本性というものを考察する際、一抹の苦味を加えないではおりません。
 それあたかも先人たちが古代ヘブライのカインやダビデの堕罪に痛憤したように、今の我々は、この実験の被験者たちの軽率な過ちを、何度も繰り返し悔やまねばならない。さらなる痛みに耐え得ないと判断して、社会がその再現を禁じるほどまでに。
 この伝説的な研究チームの一角に、キャロル・メイと呼ばれる若い女性がいました。今でも斯界で引用参照される論文に彼女の名は見ることが出来ます。
 当時の彼女はふたつの点で知られる存在でした。宝飾品や香水のモデルとしてメディアを飾ったこともある美貌と、その出自です。
 キャロルは「東側」、鉄のカーテンの向こうの国からの留学生でした。これは彼女個人が優秀であるのと同時に、かの国における非常な良血であったことを意味します。
 R・レーガンのいわゆる「悪の帝国」とその属領の行政官にとって、体制と服従をめぐる問題は、学問以上に、今そこにある切実な関心でした。
 米国で実験が禁じられたその年、彼女は30で学位を取得してこの国を去りました。帰国したキャロル・メイことカロリーナ・マイエフスカ博士には、科学部門の、顕要で、大幅な権限を伴うポストが用意されていました。時代の要請を背景に、彼女はそこで、それまで手がけてきた研究を継続しました。
 党と史家が、前時代、つまりモスクワの桎梏に喘いだ50年代を総括するにあたって、システムの過誤と個人の過誤を、科学的に正しい配分で記述する、しうる、という時代の妄念が機運となり、彼女の米国仕込みの研究に道を開いたのです。
 何度かの小さな演習の後、やがて大掛かりな実験が企画されました。新たに舞台として選ばれたのは、地方の炭坑跡地でした。 その一帯で、彼女の母の一族は封建領主の末裔として隠然たる権勢を温存していました。もとより父は党幹部。そこでは彼女は何でも思うままのことが出来ました。「SHE DID WHAT SHE WANTED TO DO」。後にこのときの状況を説明するために繰り返される文句です。
 そして行われた実験は、おそらくご想像のとおり、大仕掛けなだけ、極端な結果を示すものでした。
 米国東部では架空の、単なる言葉でしかなかった電流が、いつからかどこからか運び込まれた設備によって、ここでは実体を得ました。
 持ち込まれた光で、坑道の壁に黒い影が丈を伸ばすように、恣意的な権威と権力と立ち上がり、束の間に取り返しのつかない爪痕を刻んだその上へ、さらに逆襲と報復が塗り重ねられました。
 50人の被験者を飲み込んだ坑道が、二ヵ月後に吐き出したのは数人にすぎませんでした。
 そしてその一部始終が観察対象として逐一記録されていました。
 実験後、すぐに坑道は埋められ、生き残りは散らされ、研究者の手元のデータだけを残してすべては葬り去られました。
 しかし、その四十数人の死者が、再び地上に呼び返されるまでそれほどの時を要さなかった。党中央での政変を受け、新体制の司直が徹底的な追及を行った結果、実験のおおよその顛末が明るみに晒されるのは五年後です。
 捜査の過程で、両親のマイエフスキ夫妻は服毒自殺しました。多少とも関係のあった役職者はすべて逮捕され、外遊中だったカロリーナだけが、携えていたトランク5箱の枢要な実験データとともに消息を断ちました。
 国の威信をかけてさまざまな探索の手を尽くし、当局が米国の一地方に潜伏していた彼女を特定するのに三年かかりました。
 かの国と米国との政府間での複雑な駆け引きのすえ、結局その身柄は故国に送還され、法廷へと引き据えられました。
 検察が、彼女の留学中の、二十歳の頃のモデルとしての写真をスクリーンに投射したとき、どよめきが起こったといいます。
 判決文にいわく、
「その実験がどんな結果をもたらしうるか、被告人ほど知っていたものがこの大陸中にいるだろうか」
「歪な権力が個人に憑依することの最悪の例証を、当法廷は、この実験のいかなる対象物にもまさって、主体の側に認める」
 臨時革命法廷はカロリーナ・マイエフスカに、絞首刑を宣告しました。罪状は国家反逆罪。死刑を廃した国での、それが唯一の例外条項でした。
 刑は、判決の翌週に執行されました。1983年6月。遺体は、産業用の炉で焼かれ、その灰は麻袋に詰められ、船から公海上に捨てられたと伝えられます。


 以上のことを私が知ったのは、1986年、ハリントンの寄宿学校で、イギリス人ジャーナリストのサイモン・ロジャースの取材を受けたことによってです。
 ロジャースは卑怯であり、同時にフェアでした。18歳の私の問いに、自分の口からは答えず、かわりにそれまで集めた資料のコピーを置いていきました。
 私はその日から50日間、勝手に休学して、そこに書かれた内容の裏づけを、いえ、正確にはそのネガティヴな裏づけを求めて歩きました。あちこちの大きな図書館に通い、それと並行して外国語の読める人を訪ね、ワシントンDCでは、国務省外交保安局のミス・カーツウェルに会ってもらい、事実関係に紛れがないことを知りました。
 そのとき私がどういう精神状態におちいったかは、ある程度お察しいただけると思います。
 どうするあてもないのに闇雲にバイクを走らせました。峠道の雨が、何度となくタイヤを滑らせ、よく命があったことと思います。ハリントンから州境を越え、ルート90を200マイル東進して、生まれ育った町の、あのヘルガ荘へたどりついたのは、日付をまたぐような時間帯でした。
 無人の空き家と思いきや、垣根は破壊され、クンタの墓の上に派手なオープンカーがとめてありました。
 台所から騒がしい音楽が漏れています。そっと覗いてみると中は荒れ果てていました。壁のスプレーの落書き、散乱するビール瓶。かつてそこに住んだ女性が磨きこんだ柱はダーツの的にされていました。
 見回すとその場には四人の若い男が、思い思いの格好でたむろしていました。クーガーカブスという連中でした。「次世代のクーガー団」という意味で、年齢はみな私より二つ三つ下でしたが、下劣さでは先達にひけを取らなかった。そして私からすると、年下の人間に囲まれる特別な屈辱感を教えてくれた相手でもありました。
 生理的な反応が起こりました。激しい怒りを表すときの定型句にすぎないと思っていた現象が、自分の身に本当に現れました。
 私は電気のブレーカーを落とすと、窓に姿が浮かび上がらないよう、闇の中を、腰をかがめて進みました。
 彼らには酒が入っていて動作が緩慢だったこともあり、まずスタンガンを奪い取ると、制圧は簡単でした。ケイン弟、ロビンス、シュルツ、ジマーマン。彼ら四人、誰も死にもせず大きな後遺症さえ出なかったのは、幸運に感謝するとともに、自分の身体の非力を恥じるところでもあります。
 それでもスタンガンのバッテリーは底をつき、与えた衝撃で私の拳の骨は両方折れていました。
 その手で最後の仕上げとして、彼らの乗ってきた車、ポンティアックのローライダーのシート一面にガソリンを撒いて火を放ちました。前髪や顔の産毛を焦がす大きな炎が闇の中に立ちました。

 両手に添え木をした私を、警察署の留置檻から請け出してくれたのは、やはり先師でした。
 六十手前でいらしたと思います。ヘレナ教会区の主任司祭になられるという声もあった頃と記憶します。
 礼拝堂で、私は先師に一切を打ち明けました。ちょうど聖ジョージのステンドグラスがつくりかけの時期でした。長い物語は、夕食 後の時間帯から、深夜にまで及びました。
 まず自分にとってアビゲイルがどういう存在だったか。内容は基本的にここまでにお読みいただいたことです。
 降ってくる電線から、彼女が身を投げ出して私を庇ってくれたというくだりで、先師が一度、窓ガラスに映るご自身の姿をごらんになったのを覚えています。
 そしてキャロル・メイをめぐる事実。私は資料の一式を先師に差し出しました。
 先師が紙を繰っていくその手つきに、彼がおぞましさに耐え、冷静さを必死に保っているのが私にさえ分かりました。そして口をついたのはラテン語の聖句でした。手を組み合わせての長い詠唱を終えると、ゆっくりと言いました。
「ミセス・マクティアナンという方の徳は、忘れられるべきではない。お墓を立ててあげなさい。その気持ちがあるなら、この教会に場所を提供しましょう。そのかわり…」
 先師の語勢がそこでハッキリ変わりました。手元にあった資料をまとめて封筒に押し込み、投げ出して指で押さえました。
「こっちのキャロル何某という名と、それに付随するすべての事柄は、完全に忘れなさい。この資料もすぐ破棄するべきです。持っていると、魂の問題として、非常に危険です」
 息つくひまもない一気呵成で、私はその勢いに呑まれかけました。
 先師のおっしゃる「切り分け」は、私もまったく考えないことではありませんでした。しかしそれはあまりに手前勝手なご都合主義というものに思えました。私は反論しました。
「ビスケットの焦げていない面だけを食べればいい、と」
「トーマス、比喩を弄んではいけない」
「過去の彼女がいたからこそ、あのときのアビゲイルがあったのではないですか」
「その人は、ここへ来たとき、著述家の夫と死に別れた、と過去を語ったのでしょう。ならばそれが彼女の過去です」
「詭弁だと思います」
 手に封筒をかざすのが、非礼な強い仕草になっていたかも知れません。
 先師は悲しげに、
「君たちはすぐに過去、過去という。人はそれほどやすやすと過去に規定されたりなどしない」
 大きな手で、包帯を巻いた私の手に触れました。
「キャロルを分析するのも糾弾するのも、そのジャーナリストのような世界中何万の人に任せておきなさい。君の仕事はそちらではない。汝、裁くなかれ、裁かれざらんが為なり。トミー、君の将来就きたい職業は何でしたか」

 この先師のお申し出をどう受け止めるかで、私は何年も揺れに揺れました。
 90年代になって、東西の隔たりが埋まると、私は一度かの国をたずねました。
 かつて炭田のあった、草も木もない荒涼とした谷には、鎮魂碑がポツリと立っていました。
 もう4月というのに、碑銘は固く氷雪を纏って読まれることを拒み、捧げた献花はものの5秒で風にさらわれました。来るべきではなかったとも思いました。
 何もかも忘れたいと思った時期さえありました。その目的で、何度となく酒瓶へ手が伸びたのは、やはりあの父の子だったというべきでしょうか。
 長い葛藤のすえ、天秤が最後にどちらに傾いたかは、ご存知の通りです。
 私が結局、それをお受けした心の動きは、もはや理屈とは呼べぬものでしょう。まずエレーン、今の妻になった女性が、大略の話を呑みこんだうえで賛成してくれたこと。そして何より、先師のお申し出そのものが、無にするには大きすぎると気づいたがゆえです。
 先師にとって、それは単なる墓所の一区画の問題ではなかった。自らの管轄下に抱えるその墓の存在は、素性を詮索されれば、彼の聖職者としての輝かしいキャリアさえ突き崩すおそれのある爆弾に等しいものでした。
 折しも、ヴァチカンは直近のコンクラーベにおいてかの国の人を選出し、キャロル・メイの墓を許さなかったその政府と、全ローマカトリック教会とは、それ以前にも以後にもないほど親密に接近していました。
 その状況での危険な決断を、先師はあの場で即座になさったのです。その重さにようやく思い至ったのは、恥ずかしながらロースクールを出て法律事務所で働き出した一年目、27歳になっていました。
 そのときまで得ていた賃金で、私は先師が十年も空けてくれていた一角にアビゲイルの墓を立てました。五月の晴れた日で、その周囲では春草にまじって、綿毛をつけたタンポポがそよいでいました。
 その位置が、本当に私が子供の頃からよく知る町の人たちと同じ並びだったのには、さすがに少し苦笑を催しました。右隣は製乳業のミスター・ミラー、左となりは理髪師のボナッセラ夫妻と記憶しています。もっとも私が購入した墓石も、ありふれた規格品でしたが。
 あの墓石の下には、棺のかわりに、ショールを納めたケースが埋めてあります。


 長々と述べてまいりました。いま少しだけお付き合いください。
 最後に、先に触れました「イースター電線事件」について、どうかお聞きいただきたく存じます。私の人生の転機となったところのものです。
 それは十歳の頃、忘れもせぬ1978年4月7日の昼さがりのことでした。
 低気圧が北のカナダ国境を通過していくところでした。雨は降っていませんでしたが、風は強いので、自転車ではなく歩いてヘルガ荘まで配達に行きました。
 私とアビゲイルは、柵の前で、商品と代金をやりとりしていました。天気に関わる話など交わしたと思います。
 財布をショルダーバッグにしまったところで、彼女が突然体をぶつけてきました。ものも言わずの、いきなりの体当たりです。当たると同時にそのまま凄い力で脇へと押しのけられました、いえ、なぎ倒された、というべきでしょう。まだ小さかった私の体は、前に手をついた格好であえなく砂利道を滑りました。
 何が起こったのか分からない私の上を、眼も開けていられないほどの突風が一陣、砂煙とともに、かなり長い時間を掛けて吹きすぎていきました。
 倒れたまま首をねじって見上げると、砂ぼこりの向こう、まさについ今まで私がいた位置に、アビィが背をむけて立っていました。 両足を軽く踏み開き、長身の背をすっきりと伸ばして、アッシュブロンドの長い髪と、スカートの裾が強風に靡いていました。
 そして伸ばしたその右手には、飛んできた電線を掴んでいます。鎌首を押さえられた蛇のようにケーブルは身をうねらせ、その頭に相当する箇所では剥き出しになった先端が青白い火花を発していました。
 道の反対側に立った電柱から、風に千切られた電線が、ほとんど横なぎになって飛んできたのだ、ということがそのとき分かりました。
 それから体ごとゆっくり振り返ったアビィを見て、私はいっそう驚きました。いつも着けていた黒眼鏡はスカーフとともに跳ね飛ばされたのか、彼女は素顔のままで風に眼を細め、その白い頬から顎へかけては一筋の真っ赤な血が伝っていました。顔の近くでケーブルがなおも火花を散らしています。
 ケーブルが完全に動きを止めるのを待って、アビィは電線を安全な方向に放り捨てると、頬を流れる血にも気づかぬげに、私に近づいて手を差し伸べました。
 そのときはじめてまともに見た彼女の両の瞳は、深い緑でした。彼女は私を引き起こすと、背に手のひらを当てて、
「風が収まるまで、中で休んでお行きなさい」
 と言ってくれました。
 突然見知らぬ女性に変わったようでも、声はいつものアビィで、そのとき妙に安堵したのを覚えています。
 私はこの出来事を、さすがにその晩家で父には話しましたが、酒に濁った頭に引き起こされる反応はやはり鈍重でした。
 事件そのものはこれで終わりです。電線は翌日、繋ぎ直されました。アビィの頬の傷は大事なく、次に訪れたときにはいつもの色眼鏡とスカーフ、やや猫背のスタイルに戻っていました。
 そのまま何も変わらず日々は流れました。私に与えられていたのは、相も変わらぬ父のほかは、W&P商会の雑用と、また例によってのクーガー団です。
 けれど私の目の底には、あのとき、逆巻く雲を背景に見上げたアビゲイルの姿が、青い火花によってハッキリと焼きつけられていました。
 間違いなくあのとき彼女は、八千ボルトの電圧のかかった、うなりを上げる電線の前に、一瞬も迷わず身を挺してくれたのです。幼い私の中で、半年ほど掛けてようやくその事実は、ふさわしい重さにまで育ちました。その祝福、その恩寵。誕生日に振り分けられた守護聖人などものの数ではない、といえばお叱りを受けましょうか。
 少なくとも私にとって、あの日あの瞬間のあのひとは、白銀の甲冑を身に纏い、創世記の蛇に立ち向かう熾天使でした。ラグナロクの雷光に照らされながら、命も惜しまず敵に挑むヴァルキリーでした。
 それから二年後のあの別れの日まで、ついにあらたまった、ふさわしいお礼の言葉は探し出せなかった。言えなかった。その点、年齢以上に幼かったのですね。もちろん悔いてはいますが、日々の態度の端々から感謝と親愛の気持ちは伝わっていたものとも信じています。


 お心を動かしたいばかり、些末で感傷的なことを、恥も顧みずお耳に入れました。
 あの一基の墓について、私が知るところは以上ですべてとなります。
 さて私儀、ただいま関わっている公判が決着を見ましたら、師のご都合をうかがった上、今月中にも一度チャーネルヴィルへ参上したいと存じます。
 懐かしいシエラマドラ山脈を望みつつ、先師の思い出話を交換させていただくことを楽しみにしております。
 その際、無理を知りながら、なおアビゲイル・マクティアナンの墓の存続を、あらためて師に懇請する所存でございます。
 しかしながら、師におかれまして、ひとたび撤廃のご決裁あるときは、速やかに他所への改葬の手続きに及ぶことをお約束申し上げて、ここに筆を置きます。


                             Respectfully Yours Thomas Green

覆面作家企画8 Aブロック感想

2018/05/15 【覆面作家企画8 
A01 リセット研
履歴書もって訪ねてきた若者に、自社商品をグイグイ押してくる研究所もスゴイが、彼女の思惑はさらにその上を行く。破天荒な世界観。でも作品の中核には、「手を見れば人が分かる」というアナログな経験則が座っている、そのアクロバティックなバランスが面白い。



A02 美神AI
女性二人の会話における話し手が曖昧で、時制が曖昧で、虚実が曖昧で、けっきょく、今は亡き愛しいひとを思う夢の中で、すべてが揺蕩っているように見える。そういう効果は意図されたものかどうかは分からないが。



A03 電車兄妹 
好奇心旺盛な妹、可愛いなぁ。しかし師匠役のお兄ちゃんも、推理が蓋然性の枠を出ていなくて、ワシから見ればまだまだケツの青い駆け出し。結局ふたりまとめて可愛いのう。何、ワシかね。ワシはシルクハットおじさんじゃよ。



A04
地面にっ、手がっ、生えていたっ。これはタイトルからして即物的だが、内容もそれを裏切らない。暗喩とか、ほのめかしとか、余韻とか、思わせぶりとか、そういう面倒くさいものが一切ないのが潔くていいです。



A05 人外マンション
まず怪異、そこから「二人の奇妙な共同生活が始まる」と見せて始まらず、「やっぱり本当に怖いのは人間」。出だしの恐怖の予兆を丁寧に書いているのが効果的な、ああ、現代の人外もいる住宅事情。



A06 魔女88 
テンコーと金正日ならずとも、女性マジシャンの追っかけって、いっぱいいると思う。少年が弟子にしてもらえぬまでも、接近を許されたのは「近所の子」という特権があったから。それを投げ打って、夫候補として男として正面から名乗りをあげるならそれもよい。それも人生。ガンバレ。



A07 最果ての巫女
読んでて高揚する上質の文章。そこに美麗な単語を散らすだけなら誰でも出来るが、このパイは生地そのものが美味い。でも物語としては、フェイズの進展が乏しく、起承転結の承で終わっている印象。お前のドラマツルギーとか知らねえよ、と言われればそれまでだが。



A08 巡り巡って
青年と子どもが束の間、心を通わせているその背後で、大人たちは生臭い会議。複雑に入り組んだ人間関係の、のっぴきならない因果が示唆されはするのだが、仮説に飛び込んでいく勇気が持てぬまま時間切れとなる。青年本人はどう思っているのかな。



A09 手を貸した話。
相手が何者か分からず、その目的も分からず、ただちょっとほだされて、自分に負担はないから、一時の親切心で「手を貸す」って、それは危険だよね。海外旅行に際して、ちょっとした知り合いから、小さな包みを預かった、なんて話を思い起こしました。どこか近づいたこともない土地の殺人現場から、自分の指紋が出てきたりしたらイヤだな。



A10ハンス
とりあえずお題消化度が高い。西洋のおとぎ話として違和感がない。親指から薬指までのエピソードは、約束事をこなしていく感じなんだけど、小指の話は斬新かつ大団円の結びになり得ています。GJ。ところで「探偵の敵、それは童話」って、前に誰かが。あと「巨人の中指くらいありそうな大男」。巨人=ポール・バニヤン、大男=アンドレ・ザ・ジャイアントとする。



A11黄昏その店
そのシステムは、その料金システムは、理想ではあるんだけど、長いスパンでは、なかなか現実には難ししい点も多くて、うっうっ」と、リアル小売店舗自営零細の盲管を煩悶させるお話。どこか自治体でも企業でもいいから、明良ちゃんのスポンサーになってあげてくれ

覆面作家企画8 Cブロック感想

2018/05/20 【覆面作家企画8 
Cブロック感想

 C01 銀行中二病 意外な犯人だったw いや、でも銀行で200はムリにしても、コンビニで3とか4とかならけっこうイケルかも。コスプレイベントの途中で、急遽現金が要りようになったときとか。この感想、犯罪教唆にならないだろうな。


 C02 モノノケ絵師 字数の制約から、二人のキャラの魅力が十分発揮されているとは言えないものの、かつての御桜さん御作のように、膨らませれば商業出版にも耐えるクオリティがあると思います。それくらい面白い。しかし幕末の絵師、享年30と分かっているのに、なんで生年不詳なのか。


C03 死の手招き 「とつおいつ」とはこのことか。知り合いを数えたら、いまも生きてる人より、すでに鬼籍に入った人のほうが多くなる時分から、幽霊はさして怖くなくなるって、誰かが言ってた。しかし独身者と妻帯者、本当にC06と好一対だ。お題のこなれ具合までよく似ている。


C04 なにも宿らない ネガティブなタイトルどおり、「好き、尊い」ではなく「嫌い・ウザい・厭わしい」を燃料にして駆動・推進される話。でも文章の諸スペックはとても高いので、乗り心地はなかなか悪くないネガティブ高級車。作中のヒロインの演奏とも通じるものか。


C05 中学生巫女 この娘の除霊の所作、ほのかにというより、ハッキリとエロチックだ。これは褒め言葉です。予期しないところで来られるから、けっこうドキドキしました。隣のクラスの人気者が、実はいけ好かないヤツに設定されているところも味があります。


C06 憎たらしい愛 外出時ハットをかぶったというから、磯野波平とかと同世代に思える。その設定を脅かす、新しすぎる事物や単語は、周到に排除されていて、リアリティがある。結果としてここにあるのは、妻ひとりだけでなく、失われた時代全体へのノスタルジーか。


C07 迷い子の手 これ、普通はABABっていう構成を取るよね。文章の巧さ、個々のシーンの表現力は、手練れの作であることを窺わせるが、自分は時空の回廊を渡り切れず、裂け目に堕ちてしまった。作品が残念というより、読んでるこっちが至らなくて申し訳ない感じ。


C08 1911 地理詳細不明・年代不明のアメリカンな感じ。登場する銃、調べたら45口径ガバメントのことか。女性が失意の自殺をするにはゴツすぎる得物だが、それがかえってリアル。飲食店がとつぜん詐欺師的ヒモ男の罪状を暴くお白洲になるのが痛快。


C09 プディヤ それこそ刺繍のような、丁寧で端正な文章。美しいストーリー。「大屋根」って表現が面白い。で、プディヤ、13歳くらいかと思ったら、その年齢とは。さすが未来の一族のリーダー。しかし一男性として言うと、怪鳥、怖いな。通過儀礼、行きたくないッス。
やっぱり冬木さんは、ハノンじゃなくてこのプディヤだと思う。6000字×冬木さん、という「尺感」からいって、ハノンはぴったりこない。こっちならバッチリはまる。


C10 奇病と難病 冒頭の但し書き、タイトルの耳慣れた日本語を、独自の定義で新たに縛ろうとは、なんと大胆不敵。普通は舞台を近未来とかに設定して、新たな言葉を一から作るところだが、ありきたりのフォーマットに収まらない野性味が作品全体に漲っています。


 C11 トゥルーエンド 筋だけ聞けば、ナルシスティックで食えない話だが、おとぎ話の反復構造や、ゲームブックの双方向性、あるいはメタ視点を取り込むことによって、批評性のあるスマートな作品になっていて、知性を感じます。


覆面作家企画8 Eブロック感想

2018/07/06 【覆面作家企画8 
E01 銀の御手のサジタリウス 
疑問は数々ある。彼はユニコーンを「狩った」というより、むしろ痛みを伴う契約を取り交わしたような。だって描写されているのは仕留めたシーンじゃなくて仕留め損ねたシーンだし。アルテミスに対しては、安楽に引導を渡した、ということになるのかな。ともかくプロメは、ちょっともっさりしていて可愛い。


E02 五月の庭、蕾の君は目を閉じたまま
ってタイトル、こうちゃん視点だよね。となればあるいはストーリー全体をも、その視点で今一度とらえ返す作業が必要なような気もする。で、こうちゃんって、どういう種類の官能小説を書くんだろう。何で筆名すら教えてくれないんだろう。


E03 機械細工師
こういう細工物ほんとに好き。なぜ現実には歴史の遺物になってしまったか、とここで問いたい。作品からは「適性と選択」というテーマも見て取れる。師が後添いをもらわなかったのはいいんだけど、彼女自身は結婚とかどうだったんだろう。

E04 飲み干す残滓 
すげえインパクトのあるタイトルだ。当事者ふたりがよければそれでいいようなものの、痩せても枯れても人類最古のタブー、このあと、どんな外圧ならびに内心の呵責が襲ってくるのか、それともこないのか、続編があるのなら読みたく思います。


E05 キズアト 
ディスですね。ディスってます。ツッコミどころもないではないが、自分の書きたいものを書く! 書いた! という充実感と爽快感が伝わってきます。延髄切りって、あの猪木や天竜が得意なヤツですよね。なんと激しい! って昭和プロレスオヤジなことを申しますが、延髄切りという技名をもたらしたのが猪木であることは記しておきます。


E06 幕張VIミゾレ
自分、主人公と境遇・趣味がそれほど共通するわけではないが、ラストは、なんかもう感情移入して、感無量になってしまいました。これはもはや「近未来版・紺屋高尾」と言っていい。あれも「手」がキーポイントを担う話でしたが。


E07 楽園の手
怪鳥、怖いな(今大会二回目)。人間のパーツの中で、手だけは優雅で繊細でどの動物にも似てなくて、万物の霊長たるにふさわしいって、野坂昭如が言ってたけど、この果物、見るだに艶めいていて、一度食べてみたいと思わせる。これって、かなりヤバイ感覚かも知れないが。


E08 それは手記にも似た
その場にある最低限の食材と調理器具で、どれだけ美味く栄養のあるものを作れるか、というサバイバル調理術な感じ。たまたま居合わせた作者さん、正体を明かせば名のあるシェフに違いない。手だけに「徒手空拳」という言葉も思い浮かんだが。


E09 夜の谷で
昼間は見えないけれど、夜、谷の底で耳を澄ませば、大いなる者の息遣いが感じ取れる。それは華々しい救世伝説の知られざる現在形。そしてこの一大サーガが静かに幕を閉じても、治癒者の旅はさらに続いていく。性別を超越した存在なんですね。


E10 富士ヴァーチャル 
変態性欲を抱くキャラって、別に笑われても断罪されてもいいんだけど、他人に迷惑かけない限り、作中では思いを遂げさせてあげてほしいと感じます。ところで「うりんこ」って猪の子ども? 「うりぼう」って言わない? この問題はアンケートとりたいな。

ローマでも長安でも洛陽でもない、ある都の休日

「華」の国の都・新陽の片隅、八等司厩官の李典偉が、妻と二人の幼子とつましく暮らす家に、異変があった。ある朝、家の前が扉に矢が射ち込まれ、そこには青聘票と呼ばれる貴人からの召喚状が結わえつけられていた。
 発したのは、王の側室のひとり、有美人。有が姓、美人は官位ないし役職である。住まう宮の名をとって、玉瑶台さまとも呼ばれる。
 怪物と噂の高い女であった。年は若く、まだ子はないが、王の厚い寵をたのみに、目下権勢並ぶ者はない。暮らしは贅をきわめ、あまつさえ、諫言した忠臣三人の首を自らの手で刎ね、宴席を血に染めたなどという。その怪物美人が、己の目の愉しみのため、山海の珍品をかき集めて足らず、ついにこの男を酒席の興としてご所望の運びとなったらしい。
 それもそのはず、この男は人目を引く巨体もさることながら、どこにも類例のない不可思議な来歴の持ち主であった。

 まさしくそれは世にも不思議な物語。ありのままを語ってきたが、大半の者は、信じることはおろか内容を理解することさえ出来はしなかった。
 遡れば十年前、当時の彼は、日本人・大木ノリヒデといった。平成七年大阪市淀川区生まれ。平凡な人間だった。あだ名はウド、フランケン、馬やん。偏屈な祖父の手ひとつで育てられてたせいか、考え方も言葉つきも、昔風で年寄り臭い。愛読書は吉川三国志。特技は将棋でアマ二段。過去を知らぬ者なら「気はやさしくて力もち」と形容したくなる。
 だがその履歴には、短い学歴覧に比して長い賞罰欄がある。
 工業高校の卒業式のその日、不良グループから神崎川の川原に呼び出された。身に降る火の粉を払った結果が、相手は橋桁に頭を打ち、傷害致死の罪名がついた。つまらぬことから執行猶予も棒に振り、彼は二年の刑期を服役したのみならず、出所後は数千万の民事の負債を負った。
 闇の中の唯一の光明は、保護司を勤めた装蹄師の親方が、気性を見込んで弟子に取り、宇都宮の装蹄教育センターへもやってくれたこと。
「ノリ、負債のこと、自棄おこしたらあかんど。そのうちワシがうまいこと先方と話をしたるさかいな」
 この親方のもと、ツナギの作業着に身を固め、アルミ合金と競争馬を相手に精勤すること四年、ある日、賞与とともに一枚の封筒が手渡された。
「三国志赤壁三泊四日の旅」
 パンフレットに往復の航空券もセットになっていた。関空から武漢天河国際空港まで、彼にとってはじめての心弾む空の旅だったが、復路の券は、結果として使われることがなかった。
 断層のリープ(跳躍)は、旅先の湖北省某地において、あっけなくも唐突に訪れた。感覚としては断層も跳躍もない。禹王廟の片隅の無人の祠の中で霧に巻かれ、出てきたときは世界が一変していた。
 それが何千年の時間遡行だったと知るまでに、どういう段階を踏んだか、もうはっきり思い出せない。とにかく異変に慌てて手荷物を探り、二冊の書物が出てきた瞬間をよく覚えている。「ハンディ中日辞典 三修社」と、親方のおつかいものの豪華本「馬術大系馬具編 北京商務出版公司」。身につけていた着衣や財布携帯は、三日もたずして散逸したが、不思議にこの二冊の本だけは後年まで残ることとなった。

 突然湧いて出た謎の大男を、この時代の人々も、ひととおりは怪しんだ。
 都での役人による事情聴取は一年半に及んだが、その手続きを通じ、言葉は疎く、出自は不可解ながら、善良で質朴な性格は周知となり、やがて今の名と身分が与えられた。
 九等司厩官、李典偉。本人の希望と適性が汲まれ、職務は郊外の官営牧場における馬匹の運用と繁殖。馬具の作成および管理である。
 人間を相手にするより、動物や工具を扱う方がこの男には向いたようで、二十一世紀の日本の厩舎においてと同様、仕事の勘所をつかむのは早かった。
 問題は、課せられた特別な任務だった。
 そこには彼自身がこの都へ持ち込んだ例の馬術書が関わっていた。
 王や重臣にまで回覧されたその本は、そのつくりの精妙もさることながら、記載の内容も強い関心を呼びおこした。勅命により、翻訳事業が立ち上がると、彼の身は否応なくその中心に据えられた。
 容易な仕事ではなかった。翻訳する「先」の言語は、今暮らしている世界のことであるから、日に日に明るくなっていくが、「元」のほうは依然として霧の中にある。現代中国語を知らず、簡体字は読めず、そもそも言語表現自体、得意という男ではないのだ。
 それでも全ての情報は、彼というボトルネックを通して取り出すほかはなく、ハンディ中日辞書を頼りに、乏しい言語野をフル回転させる日々となる。そのサポートのため、事業主体の尚書部という官衙から、能書達筆の役人が派遣され、専属で厩舎に詰めることになったのも当然必須の成り行きと言えた。
 それから経ること五年。総項数850、語数60万、写真・見取り図2200、表グラフ500の大著も一通り訳し終えられ、いまや事業は推敲を残す段階に移っていた。彼自身も、すでに妻をめとり、都の一角に家を構え、ふたりの子をもうけた。厩舎では八等官として、十人の部下を束ねる役に昇格したばかり。不吉と禍の予兆がその扉を叩いたのはそんな頃であった。


2



 夜更けから積り始めた雪の明かりで遺書をしたためた。  
 明ければ晴天の下、一面の雪景色で、折りしも季の節目の休日のこと、まだ人影も荷車の轍もない。
「ほな行ってくる。心配要らん。噂は噂や。寒いから早よ、中、はいっとき」
 妻子にそう言い置いて扉を閉め、新雪の中に踏み出した。
 とつとつと足跡を刻みながら考える。
 強く望んだから、ここへ来られた。あの親方には悪いが、そう思っている。ここは自分が読み馴染んだより古い時代、三国どころか秦漢よりさらに前らしかったが、それは二の次、ともかく殺人の汚名と借金から逃れ、こうして家族も仕事も得ることができた。出来過ぎではないか。
「今度はヘマできんで」
 兵部省の四つ辻を抜けると、向かう玉瑶台の長い石塀に当たった。
 その厳粛な佇まいが、奈良市内の少年刑務所を思い起こさせる。
 門で、鎧兜の衛士に符を示して建物に入る。愛想のない女官のあとについて、長い廊下をめぐり、寒い控えの間で半刻も待たされて、ようやく謁見の間に招き入れられた
 酒席など影もなく、神妙な面持ちで女官が居並んでいた。
 一番奥の壇上、胸の高さの御簾を隔てて主人が座り、目下の客を威圧しつつ拝眉の栄を与えるという形である。
 一人いる男の役人に朗々と名を呼び上げられ、練習とおり、段の下へ進み。そこで両膝をつくと、頭を地につけた。
「李典偉にございます」
 傾国の妖姫と呼ばれるものが、すぐ目の前に鎮座していた
 この低い位置からは顔も窺えようが、むろんそれは法度である。どうにか見える手指といえば、美しく整えられ、色は今日の新雪にも紛う。これでダンビラぶんぶん、いうのはさすがに嘘やで。
「馬」
 いきなり嘲りを投げられると 予期せぬではない玩弄がそこからはじまった。
 貴婦人は壇上から扇子を三度床に投げ、彼はそれを三度拾い奉じた。
 三度目に寄ったとき、女の手には、例の簡体字の馬術書の原本があった。細い指先が項を繰ったと思うと、意外な質問が頭上から降った。
「この文を書いたのは誰か」
 挟まった紙片、注釈の添えられた栞をひらひらさせる。
「尚書部の役人でございます」
「名は何という」
「失念いたしました」
 嘘である。覚えていた。のみならず、その若い役人には特別な友情を感じていたので、万一にもこの席から禍を及ぼすことは避けたかった。
「偽るか、痴れ者」
 即座に扇子で頬骨を打たれた。さらにその先端で額をこじられる。
「それが通ると思うか」
 忍辱と諦念の感覚が、また体を浸す。それはいつ以来自分の中に積み重ねられてきたのだろう。受刑以来、事件以来、親をなくして以来?  無駄にデカいから、貧乏だから、前科者の根無し草だから?
 そのとき相手の体がくの字になった。何かと思うと、声を殺し笑い崩れているらしい。
 そしてやおら背を伸ばし、腕を一振り、頭上から御簾を払った。
「忘れたなんて、すげないこと言うのね」
 錆含みの渋声が、銀鈴を振る華やかさに一変している。見上げればそこでは、まさしく明眸皓歯の麗人が、満面の笑顔を向けていた。 
「あ、あんたかいな」

3


 
 最初の出会いは、四年前、都大路、朱雀大橋の事故現場だった。 
 荷馬車同士が正面衝突した。馬が橋を踏み抜き、手綱は絡み合って立往生。馭者は殴り合い、散乱した積荷の蜜と豆めがけて黒い網のように蟻がたかり、野次馬もアヒルも豚も犬も集まっての阿鼻叫喚。
 馬の鎮静・誘導役に呼ばれた自分も、他の者同様、遠巻きに手をつかねていると、若い略装の役人が、向こう岸から、細い欄干をひょいひょい踏んできた。
 その若者は擬宝珠の上にすっくと立つと、一同の注視を促し、即席の点呼を取った。帳面と筆を手に、そのまま流れるように、四人の当事者から事情聴取し、四の役所に仕事を割り振ってみせた。 
「あんたのお裁きで助かりました。どこのお役所のひとですか」
 そう褒めると、
「何言ってるんだ、尚書部に決まってるだろ。今日からのキミの相棒さ。小騎尉って呼ばれてるよ」
 小柄な若者を、彼はまじまじと見た。顔が小さい。手足がすんなり長い。イデタチといい、えらいシャキッとしたシュッとしたイケメンやのう。
 
 これが馬術、言語センス両面からも、優秀な人材であることはすぐにわかった。
 ついでにこの若者が、実は若い娘であることにも、さすがに三日目には気づいた。何か相当な子細があるらしい。
「いっぺんだけ、わけ聞かしてくれへんか」
「いいよ。答えよう」
 三年前、彼女の故郷・鳴条が華に服属した際、名産の駿馬二十頭を朝貢献上するにあたり、輸送隊長を務めたのが、領主の姫、まだ十八の彼女だった。上京してそのまま宮廷の尚書郎に任ぜられたのは、人質の意味合いである。
 人質には世継ぎの男子を要求されたが、鳴条の世継ぎは男子でない。そこで記録が調整され、彼女自身はその記録の影として生きることとなった。呼名の騎尉というのはかつての父の形式的役職という。
「なんや複雑やねんのう」
「キミに言われるとは思わなかったわ。ふふ」
 これには眩暈がした。言葉のジェンダー位相が変じている。そもそもこの国の語尾に男女の別はない。あくまで彼の脳内に生じる現象である。うわ、なんか急に女の子になりよんねん。その機微を知るか知らぬか、この後も彼女の言葉は、時によって赤へ青へと色を変え、彼を戸惑わせ続けた。
 
 二年間のお役目を通じて、ともに何をしたか。
 ひとつの杯で酒を飲んだ 一度は一枚の茣蓙で背中を合わせて寝た。向かい合って槌を取り、ひとつの金床に青銅の馬具を打った。
 してあげたこと。
 落馬してくる小柄な身を抱き留めた。足を痛めたとき、包帯を巻いたうえ、一里を背負って歩いた。炊事が得意だったので多く担当し、彼女の好きな食材を得る努力をした。
 してもらったこと。
 お役目とは言え、とにかくよく話を聞いてくれた。自分の思考に寄り添って、簡単に妥協せず、いつも表現したい最適のことばを探してくれた。
 話題は馬具にとどまらず、身の回りのことから天下国家、ついには前世界の事象におよんだ。その中で将棋という遊戯に関心が向いたらしい。自分が手すさびに削った駒を弄るうち、ルールを覚え、対局を重ねるまでになった。
 それだけ密に接した相棒だったが、三年目のある日唐突に厩舎から姿を消し、いつもの位置には後任者が座っていた。彼は落胆し、その不人情を呪ったが、将棋の盤と駒が持ち去られていることに、一縷のよすがと慰めを見出した。

4



「可愛いらし顔してるとは思てたけど、おんな氏なくして玉の輿に乗る、っちゅう… いや、氏はあったんか」
 食事の席に酒が出て、重い口が軽くなっている。
「後で厨に案内するわ。ご家族のお土産、沢山もっていって。ひとりで背負えるくらいなら、公私混同にもならないと思う」
「いや、その公私混同ですねんけど、あんた、自分の評判、知ってますか」
 促す相手の目は笑んでいる。
「まるで妲己みたいに言われてますで」
「知らないわ、誰」
「封神演義のラスボスやがな。殷の最後の王さまのごっつい悪いお后」
「具体的にはどんな感じ」
「高価な絹を粗末にしてどないやら、酒池肉林がこないやら」
 目はまだ笑っている。
「忠臣の首をはねたやらいうのは」
「忠臣、ではなかったけどね」
 声が低くなる。
「ホンマやったんですか」
「わざと惨たらしくしたわ。食卓の布が染まるように」
 そのとき流れたという血が、時空をこえていま彼の視野をも赤く染める。ここにあるテーブルクロスの白が、神崎川原の芝に積もる薄雪に重なり、パトランプの光がオーバーラップする。意識が彼方へとさまよいだし、抜け殻になって体の動きが止まる。 
 気がつくと下から顔を覗き込まれていた。
「平気?」
「ああ、うん」
「私が怖くなった?」
「い、いや」
 目を合わさぬまま口先で応じるのが精一杯だった
「景色のいい楼上でお茶にしましょう」

 ひとり先に楼上にでれば、全都全周の雪景色が望めた。風はなく日差しは暖かい。市中をめぐる水路の面は青空を映し、そこを雲が音もなく渡ってゆく。街の人出も疎らである。
 東の五丁先に、二百坪ばかりの桃林が見えた。
「ここからやったら、すぐ近いねんな」
 四年前の春の休日、満開のその枝が花弁を散らす中で、果実酒を傾けながら、二人で将棋を指した記憶がある。
 彼女はその日、二段の猛者である自分を平手で破った。ルールを覚えてわずか二月。未見の振り飛車さえ指しこなす才気に呆れて、つい軽口した。
「あんた、そのうち、盤の外で、ひと旗上げたらどないや。豪族の跡取りなんやしな」
 相手は頬を染めて笑った。
「そのときは、キミを一番の家来にしてあげる」
「それは光栄やな。楽しみに待ってるで」 
 それはなんと何気なく他愛もない受け答え。そして今となって、それはなんと軽はずみで身の程を知らぬ答えだったろう。
 見上げれば、鳶が一羽、空に輪を描いていた。 

5


 上がって来た彼女は、『三国無双』の孫夫人のような動きやすい軽装に、厚手の上着を羽織っていた。
 炭の燃える炉をはさんで、熱い茶碗を手に取った。寒暖のコントラストが心地いい。
 彼は切り出した。
「ひとつだけ聞いてええですか」
「うん」
「前の世界で、人を殺してしもて、二年牢屋に入りました」
 美しい双眸が見開かれる。
「なんぼ考えても、悪いのは死んだそいつですねん。でも、あいつにかて人生があって、親が、未来の子孫がて、そう考えよったら」
 両手首をそろえて目の前に掲げた。
「考えよったら、こうして手が震えるんです」
 それは苦い記憶が残る罪人の仕草。
「あんたは、そういうこと、ありませんか」
 問われて、彼女は口を開かなかった。しばらく目の前の両手をじっと眺め、目を閉じて何か考えていると思うと、やがて双の白い手が伸べられた。柔らかく男の両手を包むと、ひとまとまりになった四つの手は、そのまま数瞬、澄んだ空気の中に象嵌されたように静止した。
 彼は嘆息した。
「肝がすわってはんな。さすがや」
 そっと左右の支えを払えば、武骨な両手はまた不似合いに震え出す。
「こっちはこのザマですわ 笑うでしょ。この名、この体で、普段は偉そうなこと言うてるのに。せやけどこんな男でも、家に帰れば四人家族の大黒柱ですんや。職場でも…」
「その家はどれ」
 珍しく言葉を遮られた。 
 彼女は椅子に脚を組んだまま、風に目を細めて下界を眺めている。彼は手すりから身を乗り出すように、北西の一角指さした。
「あの池の南。同じ瓦の色、三軒並びの真ん中です」
 それから聞かれるままに、家族について語った。
 身寄りを流行病で無くした妻のこと。生まれた男女の双子のこと。家族が増えるたび、一本ずつ庭に植え足してきたスモモの木のこと。
 彼女の面持ちは昔のまま、ただ自分の言葉だけが三年分流暢になっていた。
 
 終わりの気配は、白い指による女官への合図だった。
 それを承け、ひとかかえの風呂敷が運ばれてきて卓上に載った。
「長いこと借りてたね」
「ええんです。かえって嬉しかった」
 将棋は本来、自分の唯一の特技だったが、彼女には頭の体操以上の何でもない。
「風が出てきたわ。もう降りようか」
 髪を直しながら席を立った。
「キミのことも、そろそろ大事なご家族へお返ししなくては」
 いささか皮肉に響くのは、いたしかたない。耐える。ここさえ凌げば、本日の会見、意外につつがなく終了する見込み。あとはお土産を頂戴するばかり。子供たちの好きな乾燥無花果と、調理に使う菜種油。できれば何か調味料、胡椒、丁字、八角、エトセトラ、
「騎尉くん!  美人さん!」
 椅子を蹴倒して立ち上がる。自分でも思いがけず大きな声が出ていた。
「ん?」
「罵しってくれへんのですか。へたれ、腰抜け、軟弱者、て」
 強い視線がぶつかる。
「それがキミの望み?」
 深く頷く。
 だがそれに対しては、微かな笑いが漏れた。
「もういい。こうなるのが分かっていたから、意地悪は、最初に済ませておいたわ」
 再び階下へと足を向けながら、彼女は確かにこちらへウインクを投げた。

6



 帰り道、風呂敷包みを背に、人の行き交う朱雀橋を渡りながら一度だけ振り仰いだ。
 楼上、もはや人影はない。
 おそらくもう、会うことはない。
 はるか未来から呼ばれながら、乱世に覇を唱えず名も挙げず、自分はこのままこの時代の市井に埋没して一生を終える。それでいい。それ以外の幸福などない。
 千里の道のりを越え、幾千年の歳月を跳んで、手と手を重ねてもなお、なんと自分たちの世界は遠い。
 目の前にかざせば、見慣れた大きな手は、まだ心細げに震えていた。

※参考文献 ウィキペディア ●夏(三代) ●末喜
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